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第13話

第13話 ヒートの予兆  数週間が過ぎた。  アレスは時々、ヨシュアの元に書類を届けに来るようになった。あまり部屋に入られたくないので、前にアレスと立ち寄った寮棟の裏手の庭屋で話をする。  初めは少し緊張したが、論文のことについて聞かれて話していると、アレスは具体的な地名や土地の状況なども把握していて、話が弾み時間が過ぎるのを忘れた。  その日ヨシュアは震える手で書類を受け取り、目を輝かせた。 「こんな貴重な記録資料の模写、本当に、本当にいただいて良いのですか」 「当然だ。ヨシュア、貴方が使うからこそ意味がある」  優しく耳ざわりのよい低音で囁かれ、ヨシュアは夢でも見ているようにアレスを見た。アレスはギルが後退るほど優しい笑顔を見せ、渡した書類を持つヨシュアの手の上から自分の手を重ねた。ふわりとアレスの肌の匂いがヨシュアの鼻をかすめる。肌が粟立つような気持ちよさに、ヨシュアは酔いそうだった。 「まずはこれを参考に、設計図の着手と概算の予算書をつくってもらいたい」 「僕が、ですか」  興奮で体が震えた。論文で書いたことを実現できる。アレスが論文を読んで、動いてくれた。頭の中でぐるぐると嬉しいが踊りだし、ヨシュアの体はふらふらと傾き出した。 「⋯⋯たまらないな」 「え?」 「なんでもない」  アレスは期待に目が潤んでいるヨシュアを見て、堪えるように視線を外した。 「一人じゃきついだろうから、助手になりそうな学生に手伝ってもらうといい。グレンヴィルが給金を払う」 「⋯⋯っ!」  ヨシュアは胸に当てた手で自分の服をぎゅっと掴んだ。自分一人ではできないことだった。計算ができる人手が増えれば、資料づくりは卒業までもかからない。 「ああアレス、夢みたいです。こんなに早くとりかかれるなんて」 アレスはヨシュアの手を取り、甲に口づけた。 「それほど喜んでもらえるとは。俺達は利害が一致する。相思相愛だな」  ヨシュアは言葉につまり、首をこくこくと下げた。顔が赤くなっているのがわかる。 「何かあったらギルを頼るんだぞ」  やりたいことが形になっていくのが嬉しい。  アレスが去ったあと、ヨシュアは側に立つギルに感極まったように漏らした。 「ギルさん、アレス殿は私に甘すぎますね。頼ってしまいそうです」 「甘いというよりヨシュア殿で遊んでいるような気もしますが。仲がよろしくて結構なのですが、グレンヴィルの人間であることをお忘れなきよう」  ギルは困ったように、言葉を返した。  ヨシュアはギルの言いたいことが分かったが、気持ちはついてこなかった。 「⋯⋯利害が一致している間くらいは、駄目なのかな」  もう少し。もう少しだけ続いてほしい。  ヨシュアの独り言は、盛夏の虫の声にかき消され、誰にも届かなかった。  何かがおかしいと感じたのは、夏の終わりが近い早朝のことだった。  講義に向かう途中の廊下で学生とすれ違った時、ふと首筋に寒気が走り、振り返った。知らない学生が同じように振り返り、ヨシュアを凝視していた。 「何で、しょうか?」  薄気味悪さを感じながら声をかけると、学生は瞬きを繰り返し、慌てて視線を横に反らした。 「いえ。失礼」  何故、こちらを見たのか。  フェロモンが抑えきれていないのかと、疑念が頭をかすめた。その日は人から離れて講義を聞いた。  その夜、鏡の前で首筋を確認した。特に体調の変化は感じない。薬は欠かさず服用している。  最近変わったことといえば、アレスとの接触が増えたことくらいだ。触られるのが苦手だったのに、手の届く範囲で話し、ときどき首筋に触れる指の心地よさに抗えなかった。  治水計画を楽しく話せるから、そばにいると気分が高揚する。  少し距離を取ったほうがいいかもしれない。  万に一つでも疑われたくない。  鏡のなかの自分は、浮かない顔をしていた。 ギルがアレスの執務室を訪ねたのは、夜も遅い時刻だった。 「失礼します」 「ああ。今日も平常どおりか」 ギルは扉を閉め、アレスの前に立った。 「まずい状況です」 アレスは書類から目を上げた。 「今日、講義棟の廊下でヨシュア様とすれ違ったアルファらしき学生が、理由なく振り返りました。彼らも何なのかわかっていない様子でした」  アレスは上体を起こし、ギルに向き合った。 「はじまったか」 「ヨシュア様は気づいていないようですが、ヨシュア様に視線をとめる者も数名確認しました」 「それは普通だ」  首を振り、ギルの報告を否定する。 「もうひとつあります。昨日、私がヨシュア様を送り届けた後、花みたいな香りがしないかと寮の入口で生徒が話していました。その時は気に留めませんでしたが、あれはアルファだけが感じとれるフェロモンだったかもしれません。アレス様、明らかに抑制剤の効果が落ちています」  アレスは立ち上がり、窓の外を見た。夜の中庭に人影はない。アレスは壁にかけていた黒のコートを羽織り、革手袋を嵌めた。 「あいつを連れ出す」 「はい」 「体調を崩したことにして、しばらくここで療養させる。お前はヨシュアの部屋のあれを持ち帰れ」  ギルはわずかに目を見開いた。 「……あれを奪うということですか」 「ああ」 「ヨシュア様は、薬がなくなれば、貴族院にいられなくなります」 「問題ない」  ギルは唾を飲み込んで、一礼した。扉に向かおうとしたが、足をとめ、振り返った。 「なんだ」 「薬が無ければ、完全にヒートを抑えられなくなります。耐え難い苦痛に襲われると聞きます。ヨシュア様は⋯⋯」 「俺がいるから問題ない」  アレスの声に迷いはなかった。 「ヨシュア様の意思は⋯⋯」 「これはお前が口を出すことではない。行くぞ」 「⋯⋯承知しました」  アレスはギルを見なかった。  任務を遂行するときと同じ温度だ。  ギルは淡々と事態にあたる主人を認める一方で、ヨシュアを思い、割り切れない苦味を飲み込んだ。

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