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第16話

第6話 アレス1  静かだった。  窓の向こうの空が白みはじめると、ヨシュアの滑らかな肌の輪郭が、次第に色をおびてくる。気を失って動かないヨシュアの体温は温かく、規則正しい鼓動が伝わってきた。  音のない世界で彼の息遣いだけが、自分の心音と重なる。自分が生まれる前の、穏やかな時間。愛しい人。  ヨシュアのいる貴族院に来るために、アレスは領主と取引をした。  背が伸びたヨシュアは、若いアルファが多く集まる群れのなかにまぎれて、蜂蜜色の瞳を自分に向けていた。かつて出会ったときに生じた、彼以外目に入らなくなる感覚がよみがえり、剣を握る手が震えた。  彼の立っている場所は気に入らない。  貴族院は、ヨシュアを害する者がいてもおかしくなかった。  もう二度と、誰にも奪わせない。  アレスは腕のなかに納めたまま、至近で眠る姿をずっと眺めていた。  アレスの生活が一変したのは、嵐と雪で閉ざされる冬が始まる頃のことだった。  将軍家の本邸で過ごした日々も、週末ごとに通った別邸の穏やかな時間も、今となっては輪郭を持たない夢のように遠い。  アレスには当時、年の離れた異母兄がいた。 異母兄は季節の変わり目に寄宿舎から帰省し、よく剣術の手ほどきをしてくれた。義母の教育熱をよく知る彼は、アレスに甘い。勉強漬けでふてくされたアレスを連れ出し馬で遠出をしたり、不満をはきだしても「お前は、よくやっている」と頭に手をのせ、はげましてくれた。アレスは側室の子供なのに、一線を引かれたことは一度もない。親愛の情を寄せてくれる異母兄のことを、アレスは誰よりも好きだった。  粛清は突然だった。  アレスが実母のいる郊外の別邸で夕食を取っていたときだった。  父が処刑され、本邸は憲兵に包囲されたと、本家の家臣が息をきらして知らせにきた。父に横領罪と国家反逆罪がかぶせられ、正室と後継者である異母兄は、真っ先に捕らえられたという。  昼過ぎ、義母から今夜は別邸で過ごすようにと言われたばかりだった。今思えば彼女は何かを察知していたのかもしれない。だが当時のアレスは、家臣が話す言葉も、母が青ざめた理由も、なにも理解できなかった。  アレスは母に手を引かれ、家臣が用意した荷馬車まで走った。  偽装した商隊を率いる役回りの騎士が慌ただしく荷馬車にアレスと母を押し込み、淡々と母に何かを伝え、幌の布を閉じて見えなくなった。  荷馬車は急くように走り出し、やがて郊外の石畳が途絶え、岩だらけの上り坂を激しく揺れながら走り続けた。アレスは舌を噛まないようにぐっと歯を食いしばりながら、聞き耳を立てていた。  ガタガタと軋む荷馬車の音に、野太い怒号や馬の嘶きが混じり、金属がぶつかり合う鋭い音が聴こえた。母はアレスをきつく抱きしめながら、ガタガタと震えていた。  激しい音はやがて遠くなり、幾人もいた護衛は、山の国境を超える頃にはいなくなり、ついには荷馬車を引いてきた男だけとなった。  吹雪で動けなくなりながら、幾日もかけて岩だらけの山道を進み、やがて緩やかな下り坂に変わった。しばらくして木造の小さな宿の前に止まると、母はアレスと鞄を荷馬車から降ろし、男に小さな袋を渡した。  男は一礼をした後、荷馬車とともに去っていった。 「アレス、大丈夫よ。雪嵐で山はこれ以上誰も通さない。国境を越えてまでは誰も追ってこれないわ」  大丈夫、と笑みを浮かべて繰り返し言った。美しい母の顔は、目の下に隈ができていた。 「⋯⋯兄上と、義母上は⋯⋯どうなったのですか」 アレスが迷いながら切り出すと、母は顔を強張らせ、目に涙を浮かべた。焦点があわない目は、何も映しておらず、アレスは口に出したことを後悔した。  しばらく立ち尽くしていた母は地面に膝をつき、ようやくアレスの目線をとらえ、ゆっくりと言葉を紡いだ。 「二人は、父上とともに神々が暮らす白い岸の向こう側に行かれたわ」  白く長い岸の向こうは、ノルズガルドの守護神達が住まうという、とこしえの国だ。狩られる鹿や兎も、その魂はかつていたその国に還ってゆく。 「もう旅立たれたのですか。私達を置いて」 「好きで先に行ったわけじゃないの。⋯⋯寂しいわね。でも旅立つ日は、誰にもわからないの」  母は自分に言い聞かせるように言葉を絞り出す。彼女の目は、また何もない空を見つめた。 「たくさんの大切な人たちが、無事岸にたどり着けるよう、今夜は二人でお祈りを捧げましょうね」 「⋯⋯はい、母上」  答えながら、穏やかに笑う異母兄の顔を思い出した。あの優しい人に、もう会えなくなるのが信じられなかった。  とこしえの国など見たこともなく、本当にあるかどうかもわからない。そこに向かう人たちに何を祈ればよいのか、アレスにはわからなかった。  窓が一つあるだけの宿部屋は、すぐに雪が降り積もり、窓の外の世界は白一色となった。母の話では、南の国は食べきれないほどの作物がとれ、皆が心穏やかな生活をして暮らしているという。 「アレス。私たちは二人きりになってしまったけれど、南にいけば、またやりなおせるわ」  母の笑みはぎこちなく、別邸にいたときの爛漫さは消えていた。  雪が溶ける季節になるとアレスは母と離れ、次第に外で過ごす時間が増えた。  宿の近くには川があり、川と城壁の間の影になった湿った場所に、小さな小屋が隙間なく建てられていた。地面は黒く濁り、溶けかけた雪は、鼻をつまみたくなるような不快な匂いを発している。  身なりの良いアレスが立ち入ると、そこに住む年上の少年たちに足を引っ掛けられ、靴や衣類をはぎとられそうになった。  体格差を悟ったアレスは最初に手を伸ばしてきた少年の襟元を掴んで、相手の動きにあわせて道の脇の汚泥に引きずり倒した。 汚泥は家畜の糞尿や腐った生ごみの匂いがまじり、吐き気を催すような悪臭をはなっている。 「きったねぇ⋯⋯こいつ!これじゃ売れねえじゃねえか!」  共に突っ込んだアレスの衣服は、売り物どころか使い物にならなくなった。  アレスは気にせず汚れた手で、少年の顔を押しつけて立ち上がり、近くにいたリーダー格の少年に汚泥を投げつけると同時に、とびかかって握りしめた石を少年の耳横に全力で振り下ろした。  石がかすり、少年の耳から血が流れた。少年の顔からは血の気が引き、全身が硬直していたが、アレスは無表情のまま、膨れ上がる怒りをぶつけた。 「お前に与えるものは何もない。二度と俺から奪おうとするな」  言葉を発しただけなのに、なぜか少年の体は小刻みに震えだし、浅い呼吸を繰り返して恐慌状態に陥った。  激昂する自分によって少年が苦しみ出すのをどこかで冷静に観察している自分がいた。  授業で習った「威圧」という、アルファのみが発動する能力だった。  アレスは少年達を使って、日々の食べ物を調達する方法を覚えた。  少年達が八百屋の主人の目をそらせて野菜を盗めば、その後アレスは主人が盗人を追いかけた隙に、食材を手に人混みに紛れた。  取引はするが、グループからは距離を置いた。  子どもとはいえ、兵士に捕まると見せしめに公開折檻される。目をつけられたリーダー格の少年は、むち打ちの末戦死者の死体運びに駆り出され、労働期間が終わっても戻ってくることはなかった。  リーダーはいなくなるたびに変わってゆく。つるんでいても、捕まる者がいれば皆、一斉にちりぢりに逃げていく。 一人一人が生き延びるために仲間を作り、生き延びるために仲間を見捨てる。  アレスと母も、親戚も家族も見捨てて、逃げてきた。逃げなければ奴隷に落とされるか、死刑になるかのどちらかだ。 どこでも同じだ。 そうしなければ、死ぬだけだ。 アレスはそれが生きてゆくための暗黙の了解なのだと、理解した。  母はしばらくすると、仕立屋で働くようになった。 繊細な刺繍は貴族に受けがよく、上流階級の礼儀が身についていることも好印象なようだった。アレスは夕方になると、店の前の石段に座り、母親を待つのが日課になった。 飾った貴族の女性たちが、大きな衣装箱を店から運ばせ、馬車で去って行く。 店の明かりが消え、しばらくするとフードを深めにかぶった、器量の良い女性が静かに出てきた。髪に艶はなく、ほつれた服を着た女性は、アレスが目に入ると、安心したように笑みを浮かべた。 「母上、帰りましょう」  手を差し伸べると、カサついた手が、アレスの手を握り返した。細い中指の先が硬くなり、かさかさと乾燥している。並んで立つと、アレスは母の肩くらいの背になっていた。 「母上、仕事はきつくありませんか」 「大丈夫よ アレス、旅費が工面できるまでだから」 「お金の工面できたら、私たちはどこへ行くのですか」 「レガリスという街よ。この国の都で、ここよりも冬が短くて、夏はストーブの前より暖かいところ。面白いわね」  南の話を持ち出すと、母は疲れている時でも表情が穏やかになった。 「私も、楽しみです」  アレスは母の語る街が今と違いすぎて、思い描けなかった。だが気持ちがやすまるのだから、レガリスがあってよかったと思った。  現実はさらに悪くなった。宿の宿泊費は高く、針子の仕事では追いつかなかった。宝石や金はまたたく間になくなり底をついた。母親の顔は生気がなくなり、ほとんど喋らなくなった。 「お願いします。今追い出されたら、冬がこせなくなります。せめて次の春まで」  宿の主人は、顔をしかめて首を振った。 「悪いがこっちだって実入りがなきゃやっていけない。あんたなら他にもっといい稼ぎ方があるはずなのに、人に乞うのはお門違いだろう」  主人の横には目つきの悪い用心棒が、母を値踏みするように見ていた。  アレスは、用意してあった古びた布の鞄を背負い、主人と母の間に割り込んで、黙って母親の手を取った。 「行きましょう」  行くのは、城壁と川の間の不衛生な集落しかなかった。フードをかぶり、ぬかるんだ道を歩く途中、母は足をとめた。 「⋯⋯アレス、ごめんなさい、私⋯⋯」 今にも泣き出しそうな母に、アレスはゆっくり言葉を返した。 「問題ありません、この場所でも人は生活しているのですから」  目立たないように集落の奥深く、狭くても比較的乾いた、風のない場所を探した。  近くの馬小屋で藁を盗み、にわかごしらえの寝床を作った。鞄をあけ、やや大きめの革袋を母に持たせる。 「アレス、これは」 「宿屋の裏口に捨てられていた灰です。まだあたたかいので、今夜はこれでしのぎましょう」  母のコートに体を潜らせ、背中から体に抱きついて、二人で温め合った。  本格的に冬が来たら、この集落で凍死者は大量に出る。暖を取れない日が一日でもできてしまえば、死に直結する。死ぬというのは、目の前からいなくなるということだ。  母はオメガで、オメガはベータより体力が劣ると言われていた。自分の為に、絶望に苛まれながらも生きようとしてくれる母は、自分に残された、唯一の家族だ。  アレスは毎日、暖を取るための火種さがしに奔走した。  グレンヴィル領は戦がたえず、街のいたるところに、鉄器を扱う鍛冶屋が鉄を打っていた。  母を仕立屋へ送る途中、近くの鍛冶屋に立ち寄り、大きめの川石を排熱口にこっそりと差し置き、夕方の帰り道で回収して母の手に握らせて持ち帰った。幸せそうに石を握る母を見るのが日課になった。  母が持ち帰る黒パンを、野菜で煮出したスープに浸して食べる。本邸では世話係達が食事を用意をし、未成年だからと一人で食べていた。  母と身を寄せ合って食べる硬いパンは、柔らかい白いパンより美味しいと感じられた。 「また背が伸びたわね。お店から頂いた端切れと中綿の余りがあるから、大きめの冬服を作るわね」  寒さが厳しさを増すにつれ、母は咳こむことが多くなった。もっとも母に限らず、集落では嫌な咳がよく聞こえてきた。前日見かけた老人が朝には死体になっていることもたびたびあった。  母が仕立屋へ行くのを休みがちになると、アレスは食料も探すようになった。  探せる日はまだ良かった。 吹雪がはじまる前に少年達を誘い、町外れの隊商の厩舎で飼われていた山羊を盗んで解体した。近くに住む貧しい農民の家からも、彼らの生死がかかっている家畜を盗んだ。  家畜の解体はノルズガルドでは、身分を問わず幼い頃から叩き込まれる。アレスは領民に見つからないように山でさばき、その場で焼いて、皆で分け合った。 「残りはこの場所に埋めておく。地面を火で温めれば、また取り出せる」 「また、ここに来れば食べられるのか」  集落では食べたことがない馳走に、少年たちの目の色が変わる。 「誰にも話すな。兵士に殺されたくなければ、今夜のことは忘れろ」  互いに目を合わせる少年たちを見ながら、アレスは、続けた。 「黙っていれば、また食わせてやる。できなければ⋯⋯分かっているな」  解体に使ったナイフを目の前に突きだして、少年達の表情が恐怖に固まるのを確かめた。  口が堅そうな者を選んだとはいえ、大人が脅せば簡単に口を割る。  そんな相手を脅すのは、ごく自然なことだった。  長い冬が終わろうとする頃、木枯らしの音に似た息をして寝込んでいた母は、アレスが保存肉をとってきた間に息を止めていた。 「母上⋯⋯?」  呼びかけても全く動かないものに、アレスは何も感じなかった。むしろこの時が来たことに安堵していた。  ここで母と過ごした時間は、どれほど腹が減り、寒さで震えが止まらない時でも、心が満たされる暖かなものだった。アレスは母の分の温石を袂から取り出し、母だったものの枕元に置いた。  温かな夢が終わったと理解した。

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