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第20話
第20話 アレス6
領都内の下調べは、順調に進んだ。
半日で一周できる程度の小さな町は、二重の木柵が並ぶ境界の際まで平屋の家屋が立ち並び、石造りの煙突から煙があちこちから立ち昇っていた。着膨れした子供たちは、銀髪のアレスを物珍しげに見るものの、警戒もせずに雪遊びをしている。グレンヴィルにある暗い貧民街は見当たらず、アレスは貧しくても恵まれた町だと思った。
襲撃予定の前夜は、ちょうど広場で配給市が開かれていた。領主の倉庫から穀物や塩漬け肉が運び出され、行列をつくる領民たちに配給されている。
歩いていると行列の先に川辺で見かけた金髪の少年の姿があり、アレスは自然に足を止めた。少年は傍らの催事担当らしき男と話していて、時折領民に声をかけられては笑顔で挨拶を受けていた。
平民に笑みを返す貴族を、アレスは今まで見たことがなかった。
(平民との距離が近い。護衛は?ここではこれが普通なのか?)
護衛は少し離れたところに立っていたが、少年からは遠すぎた。あれでは斬りかかるやつがいたら間に合わない。
「⋯⋯ありえないだろ」
危機意識のなさに、もやもやしたものをかかえながら、アレスは広場を後にした。その日の晩、まさかまた会うことになるとは思っていなかった。
団員たちに夜半に移動する指示が出て、アレスは仮眠をとる気になれず、裏口から闇夜の外に出て、宿の近くを歩いていたときだった。冷えた空気の中、いきなりぐにゃりと濃密な異空間に足を踏み入れた感覚に陥った。
「な⋯⋯っ」
果実酒のような香りにつつまれると同時に、血が沸騰して毛が逆立つ。毒物を撒かれたのかと口を左腕で覆い、懐の短剣を抜いた。
辺りを見回し、納屋の物陰で影が動いたのを視認して、追いかける。月が無いのに何故か真昼のようにはっきりと周囲の情報が入ってきた。納屋の暗闇の影が消え、人が倒れているのがはっきりとわかる。昼間見た領主の嫡子だった。
金の睫毛、充血した唇、かすれる息づかい。はだけたコートの下に見える編み込まれたリネンの糸の一本一本までが、鮮明に目に映る。
「おい。⋯⋯大丈夫か」
荒く息をする少年は、苦しいのか首元のボタンを引きちぎり、肌をさす寒さの中で胸元をはだけさせている。至近で見る蜂蜜色の瞳は焦点が虚ろなまま恐ろしく深く光を吸い込み、その深淵に引きずり込まれる感覚に陥った。
なんだ、これは。
この世のものではない異常な美しさに、アレスは圧倒され、たじろいだ。自分の感覚がおかしくなっている。後じさり、距離を取る。
「今、人を呼ぶ」
「ま、待て」
踵を返したアレスの後ろから、声がかかり、アレスは固まった。頭に響くそれが自分の体を制御していた。体を掴まれているかのように足を踏み出せず、冷や汗が流れる。
(何が、起きてる)
「行くな!人を呼ばないでくれ⋯⋯っ」
振り絞る声が、体をからめとる。視線を向けると、少年が両手を伸ばしアレスの服を掴んで引き寄せようとしていた。
「な⋯⋯っ」
少年はアレスの腹に顔を押し当て、息を何度も吸い込む。至近で甘い柔らかな体臭を感じとり、アレスは硬直した。
「少しだけだ。少しだけ、ここにいてくれ」
頬を上気させて、かすれた声で懇願する。口元から目が離せない。少年を見ているだけで、下半身が反応して、体温が上昇する。
(まさかこいつは)
自分の身におこっている反応は、ヒート中のオメガに出くわしたアルファの反応に似ている。
「お前っ、オメガか!」
少年は答えずに、体を固くして震わせた。
かつて余所の後方部隊で発情したオメガがいたことがある。ベータばかりの中、アレスだけが甘ったるい香りに悩まされた。だが、これはそんな比ではない。
こんな激しい強制力は知らない。聞いたこともない。
アレスの手が自分の意志と無関係に、ゆっくりと震えながら少年の体に触れ、ぎゅっと抱き込んだ。布越しに伝わる熱い躰から立ちのぼる、酩酊を含んだ香り。這い上がってくる恐怖を塗り替えてゆく、おぞましいほど強力な多幸感。
(なんで、こんなところに、こんなオメガがいるんだ)
「⋯⋯君は、何者」
逃げられない状態になってから、訊くことか。やはりずれていると思いながら、アレスはしがみつく少年に答えた。
「俺は傭兵だ。お前の事情には関わりたくないし、言いふらしたくもないから、安心しろ」
理性をかき集めて、平静を装った。
「傭兵⋯⋯そうか」
少年はのろのろと自分の懐に手を入れた。
「頼みがある。これを⋯⋯カスティール領主に。ヨシュアからといえば分かるはずだ。ここに連れてきてほしい。」
渡されたのは鎖のついた古い時計だった。
これを領主に渡せと?一介の傭兵が?
⋯⋯簡単に言ってくれる。
貴族の面倒事にはまきこまれたくない。かといって極寒の納屋に置きざりにして凍死でもされたら、真っ先に疑われるのは傭兵団で、今以上に厄介なことになる。
しかしこっちだって余裕がない。体が毒に侵されたみたいに、思うように動いてくれない。下腹の熱を出したくて仕方がない。
こいつは、こいつのせいで俺が限界なのをわかっていない。
「くそ⋯⋯っ」
アレスはやり場のない怒りを飲み込んで、短く指笛を吹いた。夜鳴き鳥を真似た合図は、カインとの間で使っている暗号だ。来てほしくないが、来てもらわないとまずい。
宿の外に出てきたカインの姿に、アレスは安堵の息を漏らした。短剣の鞘を壁に打ち付けた小さな音だけで、カインは闇夜にもかかわらず迷いなくアレスのほうに向かってくる。
アレスは抱え込んだ厄介者に、耳元で囁いた。
「信用出来る奴を呼んだが、余計なことは言うなよ。俺も事を大きくしたくない」
「わ、かった⋯⋯」
少年が答え終わらないうちに、カインが静かに納屋に入ってきた。
「おい、こんな時間に呼び出すなよな、⋯⋯って何してんのお前」
ヨシュアという少年を固く抱き込んだままのアレスに、カインが首をかしげた。
「⋯⋯誰がいるんだ?」
粗い息を吐くヨシュアの方を睨むカインは、完全に見えているわけではないらしい。
「領主の嫡子だ。具合が悪いらしい」
アレスは手短に話し、ヨシュアから渡された時計を手渡した。
「なんだこれは」
「悪い。俺の代わりに行ってくれ」
「なんで俺が。頼まれたお前が行くべきだろ?」
カインの言うことはもっともだった。こんな状態じゃなければ、わざわざカインに借りを作ったりしない。
「お前なら、俺よりうまくやれる。⋯⋯今回入る、報酬の半分でどうだ」
「へえ。気前がいいな。いいのか?」
ヨシュアがもぞりと動き、アレスは唾を飲み込んだ。少しの刺激が直撃する。抱きしめる腕に力が入る。動くなと怒鳴りつけてやりたい。
「⋯⋯⋯ああ」
「ふ〜ん。じゃあついでにお前ができない事情とやらを後で話せ。それなら引き受けてやるよ。」
足元を見やがった。
これだから呼びたくなかったんだと歯噛みするが、背に腹はかえられない。言質をとったカインが消えるのを待って、ヨシュアが顔をあげた。赤みは消えていないが、目は先ほどより理性の色が戻っている。
「本当に、すまない。不思議だ。思ったより早く落ち着いてきた」
人の気も知らないで。
「ヒートじゃなかったのか」
「まだ、はじまったばかりで不安定なんだ。君が近くにいると、体が楽になるみたい」
「それは、よかったな」
いい気なものだ。ヒートなら熱を出さないとおさまらないのだから違うだろう。俺だけ苦しいままなのは納得がいかない。
だが少年のフェロモンの垂れ流しが収まってきているのか、アレスの頭もやや冷えてきていた。
「お前、まわりに隠してるのか?オメガだってこと」
聞きたくないけれど気になってしまい、アレスはヨシュアに結局尋ねた。ヨシュアは答えるかわりにすっと顔を背けた。引き結んだ口元は、子供が拗ねたみたいだった。
「自分を利用しようとする奴を選別している最中なのか」
「え?そんなこと考えたことないよ」
驚くヨシュアは、昼間見た危機管理のなっていない子供のそれだ。領主の嫡子なら考えて当然なのに、アレスはヨシュアが未知の生物に見えてきた。
「何故だ。オメガなら契約結婚が当たり前だろ。先手を打たれる前に、お前に都合がいい奴を選べるように整えないと駄目だろ」
「よく知ってるね。そうだよ。オメガだと知られたら、親族のアルファと契約婚になる。都合がいい人を選べないけど、僕はうまくやれると思うよ」
アレスは言葉を失った。自分の立ち位置を理解しているくせに、自信過剰が過ぎる。人を人とは思わない人間がいることを、こいつは知らない。婚約相手がどんな奴でも、この無知な少年よりうまくやれるとは全く思えない。
だめだ、こいつは痛い目を見る。分かっていない。こんなやつは、貴族社会では生き残れない。
話をしているうちに、体がいつのまにか平静を取り戻していた。腕の中からじんわりと伝わる体温が心地よい。
アレスが体の気持ちよさとは裏腹に疲れを感じていることも知らずに、ヨシュアは続けた。
「うまくやれると思うけど、僕がアルファと結婚したら弟の邪魔になる。それだけは嫌なんだ」
弟、という言葉にアレスは少年に兄弟がいることを知った。
「お前が周りに隠しているのは、弟の為か?」
ヨシュアは唇に笑みをのせた。
「僕の大好きな、人たちの為だよ」
アレスは異常な明るさを失った納屋にしかれた藁に目をやった。
人達って、何だよ。
静かに微笑むヨシュアの中に、優しく笑いかけてくれた異母兄を思い出す。異母兄と本家の母は、時が迫る中、自分たちを助けるために動いた。生き残らなければならないのは、彼らだったはずなのに。
兄上もこんな少年だったんだろうか。
ヨシュアはアレスの腕を掴んだまま、頭を肩に乗せて、感慨深げにつぶやいた。
「脈も落ち着いてきた。アルファはすごいな。こんなに早く落ち着かせることができるなんて」
すごいのはアルファじゃなくて、俺の忍耐だ。兄上はこんなに気楽ではない。これは無い。
だが、嫌いではなかった。むしろ可愛げがあるとも思えた。アレスは静かに口元を弧に描いた。
暗闇の遠くに赤い火が見え、カインがうまく呼び出してくれたのだとわかった。
「迎えがきたぞ。行けよ」
「名前を教えてくれないか。僕は、君にお礼をしなくちゃ⋯⋯」
最後まで言わせずにアレスはヨシュアを押し出した。よろけたヨシュアに向こうが気がついたのか、松明の灯りが速度を早めて近づいてくる。
「面倒はごめんだと言っただろ。早く行け」
「でも⋯⋯」
「うまくやれよ。⋯⋯あと、あまりアルファに気を許すなよ」
無駄だと思ったが、言わずにいられなかった。オメガとわかったら、こんな小さな領でも、統治の座を巡って親族が少年を取り合うだろう。少年がお気楽でいられるのも、残りわずかな時間しかないはずだ。
叶うなら、少年の優しさを受け止めてやれる奴が隣にいればいい。一方で、そんな温厚なアルファは、いても淘汰されるだけだと考える。
あの笑顔が絶望に染まるのは、残念だが。
アレスは頭を振り、仲間の元へ急いだ。
このあとの討伐は、酔った頭を醒ます為の蘇生薬になる。限界まで自分を酷使すれば、頭に入り込んだ靄はふきとぶはずだった。
討伐が終わったあと、団員たちは酒に酔ってバカ騒ぎを起こし、宿屋からは弁償と退居を命じられた。
アレスはカインに約束通り報酬の半分を奪われた。さらに代理を頼んだ理由を話して転げ回って笑われ、酒の勢いでブチ切れて決闘をふっかけた。そのせいで宿の入り口を壊し、さらに弁償代が上乗せされた。
団長はうずくまり頭を抱えた。
日が高くなり夜に凍った雪が溶け出す頃、傭兵団の大半が頭痛をこらえながら荷物をまとめ、グレンヴィルに戻る準備を整えた。
「あ、あのときの子だ」
顔の腫れたカインが、後にした街道を振り返り、声を出した。アザだらけのアレスも宿の方を見ると、綺麗な姿勢で領主らしい男の横に並ぶ少年が、澄ました顔でそこにいた。
表向きの顔だな。
最初出会った時のように、貴族らしい艶のある金髪が、キラキラと輝いている。領主が宿の主人と話している傍ら、まっすぐに立つヨシュアに駆け寄る小さな影が見えた。
ヨシュアが影に気づいた瞬間、人形のような美しい彫像の輪郭は、一瞬にして溶けた。愛おしく思う気持ちを隠しもせず、かがんで子どもを受け止める。
昨晩自分にしがみついてきたその両手を子供に向けて差し伸べ、自分が抱きしめたその体で子供を抱きよせる少年に、アレスの足は動くことをやめた。
⋯⋯あれは、自分のものじゃない。
矢が心臓深くまで突き刺さり、血を流した。
昨日は、俺のものだったのに。
いつまでも続くと思っていた異母兄との時間が、目の前で見知らぬ子供の手によって再現されている。
自分が失ったものを見せつける、無償の愛情を一心に受ける子供に、あの柔らかな髪に触れる小さな指に、殺意に似た暗い感情が走る。
あの時間。あの体温。あの甘さ。
猛烈な渇きが襲った。
我慢ができないほど、息が苦しい。自分が何が欲しいのか理解してしまった。
アレスは視線を引き剥がし、前を向いた。
あのぬくもりを知ってしまった以上、もう抑えることはできない。アレスは遠くにそびえる雲のかかった山々を昏い目で睨んだ。自分の望みを理解してしまった以上、やるべきことは決まった。
とりに行く。全力で。生きるために。
⋯⋯アルファに気を許した、あいつが悪い。
「団長」
アレスは荷物を背負いながら、先頭を歩く団長に並んだ。視線は北の国境、鋼嶺山脈を向いたままだ。
「例の話、俺は受ける。着いたらすぐ」
団長は一呼吸置いてから歯を見せてアレスをこづいた。
「伏魔殿への招待状だぜ。楽しくなりそうだな」
「ああ。最速でいく」
「はは、休む暇がねえな、死ぬ暇もねえよ」
親父の冗談はついていけねえと一蹴し、アレスは団長より先を進んだ。
連なる山にかかる雪が風に乗り、アレスの歩く道にも降り始める。また長く雪に閉ざされる日が続く。それでもアレスは春の日差しの暖かさを忘れられないことに気付いてしまった。温かな記憶があれば、当面は凍ることがない。
休む暇がない日が続いても、忘れない。手に届くまで、あがいてやる。
「⋯⋯あいつの危機管理能力あげておくか」
アレスは寒空の下、カスティールに背を向けて、歩き始めた。
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