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5#バック・ドクターの流儀
捜査会議での決定から数日。ルミナス・ネックスの空は分厚い雲に覆われ、昼間だというのにダスク・ストリップの街並みは薄暗い沈殿物に沈んでいるように見える。気怠げに明滅するネオンサインの下、湿ったアスファルトを踏みしめて、ラスは数歩先を歩くマキの背中を追っていた。
「ま、期待はできねえけどな」
紫煙をくゆらせながら、マキが独りごちるように笑う。
今日の目的地は、裏通りの一角にある『エルウッド診療所』だ。名目は以前フランに依頼していた押収薬物の成分分析データの受け取り——だが、前を歩くベテラン刑事の狙いがそれだけでないことはわかっていた。
フランには先日クロウを助けてもらった恩もあり、仕事として協力を仰ぐことに異論はない。ただ、顔を合わせるとどうにも調子を狂わされる気がして、ラスは内心で小さく息を吐いた。
「まあ行けばわかる」
ラスの葛藤など知る由もないマキが、ぽんと軽く肩を叩く。
古びた雑居ビルの角、見覚えのある青白い十字のサインが見えた。自動ドアをくぐると、外の澱んだ空気とは対照的な、冷たく清潔な消毒液の匂いが鼻腔をくすぐる。
「やあ、マキさん。こんにちは」
受付カウンターの奥からひょっこりと顔を出したのは、白衣を羽織ったフランだった。気安げな口調と力の抜けた穏やかな微笑み。マキとは昔からの馴染みであるせいなのか――今日の彼は、ホテルで初めて会った時の毒気も、治療の際に見せた鋭さもなりを潜め、どこか無防備な空気を纏っていた。
「おう。頼んでたブツ、できてるか?」
マキがカウンターに肘をつきながら気安く言うと、フランは「はいはい」と頷き、データが収められたチップを差し出した。LCPSが押収した薬物の簡易分析を依頼していたものだ。
「いつも助かる」
「お代のぶんの仕事はしますよ。捜査は進んでる?」
「そのことだ。ギア・ストリートのホテルでお前さんがハメ殺した男、覚えてるか?」
「ひどい言い方」
マキの遠慮のない言葉選びを気にするでもなく軽く笑って、フランは一度カウンターの向こうへと引っ込む。しばらくして戻ってきた彼は、紙のカップに注いだコーヒーをふたつ手にしていた。カウンター奥の部屋に小さなキッチンスペースがあるようだ。
カップから湯気が立ちのぼり、香ばしい香りが鼻腔をくすぐる。
「そいつがただの不幸なヤク中じゃなく、資金元に絡んでたんじゃないかって線が出てきてな。どうもトレード・ハブがきな臭い。レヴァリスと繋がってる可能性もある」
レヴァリス、という名前を聞いて、フランの瞳がほんのわずかに細められる。かたちの良い唇から、ふうん、と何か納得したようなため息が漏れた。
「最近はおつかいも部下に任せきりでとんと顔を見せなかったあなたが、今日は後輩まで連れてどういう風の吹き回しかと思ったら」
フランはカウンターに頬杖をつき、蜂蜜色の瞳でマキと、その後ろに立つラスを交互に見る。その視線は、すべてを見透かしているかのようだった。
「なにが聞きたいの? 今さら死んだ男のことが聞きたいわけじゃないんでしょう」
「相変わらず可愛げのねえこった」
肩をすくめたマキはやれやれと頭を搔くと、すっと声のトーンを落とし、真面目な口調で本題を切り出した。
「この件、レヴァリス内部のゴタゴタがあるんじゃねえかと睨んでる。ダメ元で聞くが、お前さん、最近レヴァリスの連中から何か妙な話は聞いちゃいないか」
その言葉に、フランはたっぷりひと呼吸ぶんマキの顔を見つめた後、わざとらしく居住まいを正した。
「――LCPSの捜査官といえども、当院は患者から得た情報を口外することはありません。……知ってるでしょ、リ ッ ク ス 刑 事 」
口調を戻してにっこりと微笑んだフランに、マキは大げさにため息をつく。
「だからダメ元でって言ったろ。まったく、そういうところは師匠に似ちまって」
カウンターに置かれたカップを手にしながらぼやくマキに、フランはどこか楽しそうに肩をすくめる。
「僕がレヴァリスのことをぺらぺら喋るってことは、LCPS のことも向こうにぺらぺら喋るってこと。困るでしょ?」
二人のやり取りを眺めながら、ラスはここへ来る前「期待はできない」とマキが言っていた意味を理解する。
フランは〝バック・ドクターとして〟依頼された仕事は忠実にこなす一方で、〝診療所の医師として〟は、患者の情報はたとえ相手がLCPSであろうとマフィアであろうと公平に渡さない――そうして中立の立場を貫くことで、表にも裏にも信用を得ているのだ。
だからこそ、裏通りの人間もこの診療所へ足を運ぶのだろう。
「違いねえな。仕方ねえ、他をあたるか……」
マキが意外なほどあっさりと引き下がると、フランは「レヴァリスのことは知らないけど」と続けた。
「それらしい中毒者が増えているのは事実だよ。死亡には至らなくても、中毒症状で運び込まれてくる人は確実に増えてる。僕から言えるのは、そのくらい」
どっちにしろ最近マフィア絡みの患者はご無沙汰だしね、と括って、フランは話を終える。だがその言葉だけで、裏通りにネオンブライトがどれだけ拡がっているかが窺えた。
ふと、フランの視線がマキを通り越し、黙って話を聞いていたラスへと向けられる。
「この間はどうもありがとう。その後、相棒の調子はどう?」
「……ああ、おかげさまでこの通りだ」
どうぞ、と手渡されたカップを受け取りながらラスがそう言うと、足元に控えていたクロウが心得たように『ワン!』と短く鳴き、尻尾を振った。フランはその様子に目を細める。
「どういたしまして」
「なんだラス、お前さん、もうここの世話になってたのか?」
マキが意外そうな顔でラスを見た。
「あー……この前こいつがたまたまこの近くで不具合を起こして、それで」
「ふふ、しかもちょうどその時、急患が駆け込んできてね。手伝ってもらっちゃった」
フランがどこか面白がるように笑う。
「最初に会ったときは、僕のこと、殺しそうな顔で睨んでたのにねえ」
「あの時はあんたの態度が――」
思わず反論しかけて、ラスは口をつぐむ。マキの意外そうな視線が突き刺さり、気まずさを誤魔化すように頭をがりがりと掻く。
「へえ。そりゃまた」
マキは興味深そうに眉を上げてラスとフランの顔を見比べると、ぽんとラスの肩を叩いた。
「ま、今後もこうやってお つ か い に来ることもあるだろうからな。その時は頼んだぜ。――おっと、こいつは俺のかわいい後輩だ。喰うんじゃねえぞ?」
「マキさん」
ラスの抗議の声は、フランの楽しげな笑い声にかき消された。
「そう言われると、味見したくなっちゃうなあ」
茶化すようにそう言って、フランはラスに挑戦的な視線を送る。その瞳の奥に、あの夜の蠱惑的な光がちらつくのを、ラスは見逃さなかった。
(……おいおい、冗談じゃねえぞ)
内心で悪態をつきながら、同時にその瞳の色から目を離せなくなっているのも事実だった。
先日この裏通りで再会してから――いや、あるいはギア・ストリートのホテルで初めて会ったあの夜から、この男の存在は、ラスの日常に小さな波紋を投げかけ続けている。急患の処置を手伝った時の、医者としての真剣な横顔。クロウを撫でる時の優しい手つき。そして今、マキを相手に飄々と立ち回る、裏社会と表社会の狭間を生きる者の顔。はたして、どれが本当の——
「邪魔したな。ラス、行くぞ」
マキの声に我に返る。ラスも短く「それじゃ」と告げて、後に続いた。
「またどうぞ」
ドアが閉まる寸前、無意識に振り返ると、カウンターの向こうでフランが小さく手を振っている。
その笑顔は、いつものように掴みどころがなくて――それでいて、どこか楽しそうに見えた。
診療所を出て、雑踏の中を歩きながら、ラスはふと考える。
マキが言ったように、バック・ドクターである彼とは、今後も分析依頼や何かの用事でこの診療所を訪れ、顔を合わせることになるのだろう。それは、単なる刑事としての仕事の一環だ。気負うようなことはない。だが――
(……やりづれえな)
この複雑さの正体はなんなのか。自分に問いかけても、答えは返ってこなかった。
まだ、フランの淹れたコーヒーの香りが、口の中に残っている気がした。
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