6 / 32

6#ルージュ・ベルベット

『ルージュ・ベルベット』――けばけばしいネオンがひしめくこの界隈において、そのクラシカルな店構えは不思議なほど落ち着いていた。  磨き上げられた木製のドアを開けると、カラン、と澄んだベルの音が鳴る。内部は、甘く熟れた果実のような香水の匂いと、微かな酒、そして紫煙の香りが混じり合った、濃厚な空気に満たされていた。目に痛い照明はなく、間接照明が赤いベルベットのソファや年代物の調度品を柔らかく照らし出し、奥からは客と娼婦の嬌声が音楽に混じって微かに聞こえてくる。  紛れもなく欲望の巣。だが、同時に奇妙な生活感と落ち着きが同居している――そんな空間だった。 「おや、見ない顔だな。うちは一見さんお断り、とまでは言わないが……どうやら客じゃなさそうだ」  ​カウンターの奥から、暗赤色の長い髪を緩くまとめた男が値踏みするような視線をラスに向けた。たれ目の甘いルックスに反して、そのダークグリーンの瞳の奥には、この界隈を生き抜いてきた者特有の鋭さが宿っている。 「アジェイ・マローニか?」  確認するように問うと、男は肯定の代わりに不敵に口の端を釣り上げてみせた。 「あんたは?」 「LCPSサウスウエスト・エッジ隊のラス・リーズだ。少し話を聞かせてもらいたい」  ​ラスが身分証を示すと、男――アジェイは「やれやれ」と肩をすくめ、慣れた手つきで煙草に火をつける。その仕草に、警察を前にして動じる様子はなかった。 「刑事さんが何の用だい?  うちの女たちがなにか粗相でも?」 「あんたの店の客が、先日薬物中毒で死んだ件だ」 「知ってることなら、その時の調べであらかた答えたと思うがね」  ​アジェイは紫煙を細く吐き出し、つまらなそうに目を伏せる。 「迷惑な話だよ、まったく。死人の出たベッドなんざ気味が悪いって、女たちも使いたがらないからな」 「例の薬はレヴァリスが裏で手を引いているという線で調べている。あんたもここで商売してるならレヴァリスとは付き合いがあるんだろ?  何か聞いてないか?」  ​その名前に、アジェイの表情がわずかに険しくなる。彼はゆっくりと煙を吐き出すと、重々しく口を開いた。 「さあな。だが――」  ​アジェイが何かを言いかけた、まさにその時だった。ドアが開くベルの音と共に、聞き覚えのある、のんびりとした声がかかった。 「やあ、アジェイ。と――あれ?」  ​その声に、ラスはぎょっとして振り返った。そこに立っていたのは、紛れもなくフラン・エルウッドだった。白衣ではなくシンプルなジャケットをラフに羽織った彼は、ラスの姿を認めると、少し驚いたように、それでいて楽しそうに目を細めた。 「リーズ刑事?  また会ったね」 「フラン……ドクター。あんた、なんでここに」 「またふらっと来やがって。お前が来ると女たちがうるさいから、先に連絡くらい寄越せといつも言ってるだろうが」  ​ラスの驚きをよそに、アジェイは呆れたように、しかしどこか親しみの込もった声音でフランに声をかける。 「えー。()()に帰ってくるのに、いちいち連絡がいる?」 「実家……?」  ​ラスの疑問に、フランはにこりと笑って答えた。 「そうだよ。僕とそこのアジェイは、ここで産まれて、ここで育ったの。兄弟みたいなもの」 「とんだトラブルメーカーの迷惑な弟だがな」 「またまたあ。可愛いくせにー」  けらけらと笑うフランは、今までに見たどの彼よりも気のおけない――どこかあどけなさすら感じさせる、素の様子に見えた。  ​この娼館が、フランの育った家。目の前の顔役が、彼の兄貴分。先日マキから聞かされた「元男娼」という事実が、生々しい現実となって目の前に突きつけられる。  ラスが言葉を失っていると、奥の部屋から華やかなドレスを纏った女たちが現れた。 「フランじゃない!  来てたの!?」 「お兄さん、見かけない顔ね?」 「あら、いい男じゃない。もしかして、フランの新しい彼氏なの?」  ​数人の娼婦たちが、フランの姿を認めるなり、嬉々として彼を取り囲んだ。そして、一緒にいるラスを興味津々な目で見つめ、からかうように囁き合う。  急にかしましくなったフロアの空気に圧倒されてラスが何も言えずにいると、彼女たちは「ねえ、一緒に飲みましょうよ」「せっかくだから遊んでいって」とさらに距離を詰めてくる。  ラスとてこういう場所にも女にも不慣れなわけではないが、生憎今は仕事中だ。その上、一応は顔見知りであるフランはその様子を止めるでもなく――むしろ面白そうに目を細めて眺めている。どうにもやりづらい。  呆れたアジェイが「お前ら、仕事に戻れ」と低く窘めるまで、その喧騒は続いた。 「リーズ刑事は今日もお仕事?  それともプライベート?」  ​ようやく静かになったカウンターで、フランが尋ねてくる。カウンターのアジェイは何も聞かずに、慣れた様子で琥珀色の液体が入ったグラスをフランの前に置いた。 「残念ながら仕事だ。ネオンブライトの件で」 「ふうん、お疲れ様だねえ。リーズ刑事ならモテモテだろうから、遊んでけばいいのに」 「……あんた、本当にここで働いてたのか?」  ​ラスが改めて問いかけると、フランは目の前のグラスを手に取り、水でも飲むかのようにするりと喉に流し込んだ。この男、可愛らしい顔をしてずいぶんとアルコールに強いらしい。 「もう離れて十年くらいは経つけどね。富裕層の(リッチな)客が増えてからは、指定先に出張することも多かったけど」 「十年て……あんた、今いくつだ」 「そういうリーズ刑事はいくつ?」 「二十七」 「ふうん。じゃあ僕のほうが少し上」  ​フランは相変わらずふわふわとした物言いをして悪戯っぽく笑う。  そこへ、ひときわ落ち着いた雰囲気の女性が近づいてきて、フランの隣にそっと腰を下ろした。年の頃は三十代前半だろうか、黒髪の美しい女だ。 「お邪魔するわね」  フランがひときわ優しげな視線を向ける。 「やあ、マリア」 「フラン、こないだは付き合ってくれてありがとう。おかげで助かったわ」 「どういたしまして。マリアの頼みだもん。僕も退屈せずに済んだしね」 「トレード・ハブのパーティなんて、ひとりじゃ心細いもの。ほら、あなたも熱心に声をかけられてたでしょう?  なんだったかしら……たしか、『アークライト・グループ』とかいうところの、トップの」 「そうだったっけ?」  フランが首を傾げる。その反応は、本当に覚えていないというよりは、単に興味がないといった感じだった。 「やだ、覚えてないなんて。テラスでキスしてるところ、見たわよ。フランったら、相変わらずなんだから――」  トレード・ハブ、パーティ、キス――ラスがその会話を聞くともなしに聞いていると、アジェイが咳払いをして、先ほどの話の続きを始めた。 「……例の薬のことだがな」 「何か知ってるのか?」 「生憎、あんたらが欲しがるような情報はないさ。だがせっかく捕まえた客が死んじまうようじゃあ、ヤクとしては出来損ないもいいところだ。そうは思わないか?」  アジェイの言葉に、ラスは眉根を寄せる。  麻薬の多くは、使用者を依存させて継続的に購入させることで大きな利益を得るものだ。致死率が高く継続的な利益が見込めない危険な商品は、なるほど〝出来損ない〟と呼べるかもしれない。 「そんなものをレヴァリスが売り捌いて、何の得になる?  少なくともこれまでの連中なら、もっと上手く、長く搾り取るやり方を取るはずだ」 「……つまり密売の元締はレヴァリスじゃない、と?」 「どうかな。まあ、このミッド・グリッドで完全に奴らと無関係に密売ルートを開拓するなんて芸当は無理だろう。あるとしたら、レヴァリスが何らかの目的があって方針転換でもしたか、あるいは……」  ​内部の分裂。最近レヴァリス内で急速に台頭してきている勢力があり、その強引なやり方に組織内の一部は反発を強めている―― 「そういう噂も、ないことはない。あくまで噂だがな」  先日の捜査会議で立てた推測を、アジェイの言葉が補強する。やはり、組織内部に独断で麻薬の密売に手を出している者がいるという線が濃厚そうだ。  話は以上だ、というようにアジェイは声のトーンを変えると、フランに声をかける。 「そういえばフラン、お前、何か用があって来たんじゃないのか」 「ああ、そうだった。頼まれてた薬を届けに来たんだった」  フランが思い出したようにそう言うと、マリアが同時に立ち上がる。 「ついでにフランにちょっと診て欲しい()がいるの。いいかしら」 「もちろん」  ​それじゃまたね刑事さん、と軽くウインクを投げて寄越すと、フランはマリアと共に二階へと続く階段を上がっていった。ラスは曖昧な返事でその親しげな背中を見送る。 「……ずいぶんとここの女たちに好かれてるんだな、あのドクターは」  その言葉に、アジェイがふうと煙を吐き出して、フランの上がっていった二階を見やる。 「女は綺麗なものが好きだからな。それに、フランはここに限っては客にも色恋の対象にもならない希少な男だ」   ラスが黙り込んでいると、アジェイが煙草を揉み消しながら、静かに言った。 「……こいつは、あいつの兄貴分で、『エルファン』の元マネージャーとしての忠告だが」  どこか諦めたような、それでいて真面目な表情で、アジェイは続ける。 「〝医者〟としちゃ真面目にやってるようだが――()()とまともに付き合うと、火傷どころじゃ済まないぜ。うっかり触らねえよう、刑事さんも気をつけるんだな」  ​その言葉は、奇しくも、先日マキから受けた忠告と全く同じ響きを持っていた。  

ともだちにシェアしよう!