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8#モニター越しの渇望
トレード・ハブの最上層。ルミナス・ネックスの光の海を見下ろす、広大で、静寂に満ちたペントハウスの一室。
エリック・スターリングは、革張りの重厚な椅子に深く身を沈め、壁一面を占める巨大なディスプレイを無表情に見つめていた。
画面には、いくつもの映像が分割で表示されている。そのほとんどは、彼の資産や投資対象のリアルタイムデータを示す無機質な数字の羅列だ。だが、中央に最も大きく表示されているのは、ダスク・ストリップの裏通りにある古びた診療所の室内だった。
あのパーティの夜の、鮮烈な記憶が蘇る。
喧騒から逃れたテラスで、エリックは気まぐれに彼——フランへ声をかけた。華やかなパーティの場で、どこか控えめでありながら、その美しさは目を惹いた。
最初は、美しい美術品に対するような軽い好奇心。だが会話を交わすうち、そのアンバランスな魅力に急速に惹きつけられていった。そして、別れ際に交わしたキス――あの唇の感触は、確かに約束の証だったはずだ。
はじめは、たやすく手に入ると思っていた。これまでそうして望むものは何ひとつ逃したことがない。金も地位も、美しい人間も。相応の価値を示せば、誰もが最後にはこちらを選ぶ。それが当然だと信じて疑わなかった。
彼の素性を調べ上げ、その美貌に見合う高級な品々を、匿名の支援者を装って毎日のように送り届けた。美しい花、希少な酒、芸術品。添えたカードには、甘美な言葉を綴った。
だが信じれないことに、フランからの反応は一切なかった。まるで道端の石ころでも見るかのように、彼はエリックからの贈り物を無視し続けた。
痺れを切らしたエリックは、次の手段に出た。セルジオの部下を使い、彼のテリトリーに密かに〝眼〟を仕掛けさせたのだ。それ以来、この診療所の隠し撮り映像を眺めるのがエリックの日課となっていた。
——拒絶するのなら、力ずくでその日常を覗き見るまで。
それは彼の歪んだ独占欲をかろうじて満たす、密かな愉しみだった。
この日も、エリックはいつものようにフランの姿を目で追っていた。
診療所に、LCPSの制服を着た刑事が訪れる。最近、やたらとこの診療所に顔を出すようになった男だ。エリックは、その無骨で品のない男が気に食わなかった。いかにも安っぽく粗野で、あの美しいフランの隣に立つにはあまりにも不釣り合いだ。
苛立ちを覚えながら画面を見ていると、刑事の連れていたサイバードッグがカメラを発見したようだった。
(……気づかれたか。まあいい。また新しいものを仕掛ければいいだけだ)
エリックは気にも留めずに手元のグラスを傾けた。
フランがカメラを覗き込んでいる。まるで彼が自分を見てくれているようで、どこか高揚感すら覚えた。だが――次の瞬間。
エリックは息を呑んだ。
画面の中のフランが、あの刑事を引き寄せ、唇を重ねたのだ。
あまりの出来事に、エリックの手の中で薄いクリスタルのグラスがミシミシと悲鳴を上げる。
最初は、ただ驚愕があった。そしてすぐに、腹の底から燃え上がるような、激しい怒りが込み上げてきた。
——汚らわしい。僕と交わしたあのキスを忘れたかのように、あんな下賤な男に、いとも容易く唇を許すのか。僕がまだ一度しか触れていない、その場所に。
嫉妬と独占欲が、エリックの冷静さを焼き切っていく。衝動的に、握ったグラスを目の前の画面に叩きつけそうになる。
だがその怒りは、フランが視線を上げ、カメラのレンズを――まっすぐに、エリックの目を見つめた瞬間に、別の感情へと変質した。
フランは、笑っていた。
エリックには、その濡れた唇も、挑発的に細められた瞳も、自分だけを煽っているように見えた。
『見てるんでしょう? ねえ、どんな気分?』
―――ああ。
エリックの口から、熱い吐息が漏れた。
怒りは消えていなかった。むしろ、より深く、どす黒いものになって心の底に沈殿していく。だがそれ以上に、凄まじい興奮と、抗いがたいほどの欲情が、彼を支配していた。
フランは、ただ美しいだけの、飾られるのを待つ人形ではなかった。彼はこちらの存在に気づき、その上で臆面もなく挑発してきたのだ。この僕を。
その不遜さが、たまらなくエリックを煽った。
エリックは、震える手でグラスをデスクに置いた。ディスプレイに映る、挑発的なフランの顔から目が離せない。怒りと欲望で、身体の芯が灼けつくように熱い。
ゆっくりと自分のベルトに手をかける。革の擦れる乾いた音だけが、静寂な部屋に響いた。
思考は、ただ一つ。あの男を、この手で屈服させたい。
画面の中のフランの姿を、自分の欲望で塗りつぶしていく。あの美しい顔がこの手で快楽に歪み、淫らに肉体を開いて請う姿を想像する。細い腰を押さえつけ、足を開かせ、挑発的な瞳が自分だけを求めて懇願するまで壊してやりたい。
それは、支配の予行演習だった。やがて、短い痙攣と共に熱い昂りが解放される。
だが、それは虚しい残滓を残すだけで、エリックの渇きを癒すことはなかった。むしろ欲望はより一層、明確な形を持って燃え上がっていた。
(……足りない)
こんなものでは、全く足りない。
フランの過去は調べ上げている。彼がかつて男娼だったということも。当然、その身も唇も、数多の男たちの手に触れられてきているだろう。それでも。否――だからこそ。
あの男には、本物を教えなければ。僕だけが与えられる、真実の快楽を。
冷たい昂奮の中、エリックはデスクの引き出しを静かに開けた。中には、黒いベルベットに包まれた一本の小瓶が鎮座している。エリックが自ら構想し資金を投入した、究極の逸品。『アジュール』。
エリックはその小瓶を手に取ると、傍らにあったカードにペンを滑らせた。
『君のささやかな挑発に、心惹かれたよ。このアジュールの輝きで、君に新しい世界を』
そのメッセージを、美しい化粧箱に収められた青い輝きと共に封をする。これは贈り物であり、宣戦布告だ。
ただ手に入れるだけでは、もはや満足できない。あの美しい身体も、そしてあの不遜な内面も、すべてを蹂躙し、支配し、自分だけのものにしなければ。
「……セルジオに繋げ」
エリックは、震える指で通信機のスイッチを入れた。スピーカーから聞こえる部下の声も、今の彼には耳障りな雑音でしかない。やがて、通信の向こうで低い声が応答する。
『ミスター・スターリング、何か?』
エリックの声は、自分でも驚くほど冷たく、静かだった。
「例の計画までに、必ずフラン・エルウッドを手に入れろ。手段は問わない」
『しかし、あまり強引な手段に出るとこちらも証拠を掴まれかねません』
「では交渉しろ。それでも抵抗するなら、脅すなり拐うなりして力ずくでも連れてくるんだ。貴様らの得意なことだろう」
エリックはディスプレイに大写しになったフランの挑発的な笑みを見つめながら、命令を続ける。その瞳は、獲物を前にした捕食者のように爛々と輝いていた。
通話の向こう側の男は、しばしの沈黙の後短く頷いた。それに満足したエリックは、ただし、と付け加える。
「顔だけは、絶対に傷つけるな」
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