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10#境界線
ラスのアパートは、飾り気というものを一切排除した、男の一人暮らしの典型のような部屋だった。読みかけのマニュアル本が散らばるローテーブル、脱ぎっぱなしのシャツが放られたソファ、そして部屋の隅に置かれた、最低限の機能しかないベッド。生活感はあるが、他人が踏み込むことを想定していない、無防備で殺風景な空間だ。
フランはその散らかり具合を気にするでもなく、慣れた様子で部屋を見回すと、ラスをソファに座らせた。
「救急箱はどこ?」
「棚の上だ」
ラスが指差した棚から、フランは手際よく救急箱を取り出す。その中から消毒液とガーゼ、包帯を手に取ると、彼はラスの隣に腰を下ろした。ソファがぎしり、と軋む。距離が近い。ふわりと香るフランのコロンの香りと衣服越しに触れる体温が、腕の痛みよりもラスの意識をどこか落ち着かなくさせる。
「見せて」
フランはラスの返事を待たずに、血で汚れたシャツの袖をゆっくりとまくり上げた。応急処置で当てていたナプキンを外して露わになった傷口は、幸いにも見た目よりは浅い。だが、ぱっくりと開いた皮膚からは、じわじわと血が滲み続けている。
「動かないで。少し滲 みるよ」
囁きと共に、消毒液が染みた脱脂綿がそっと傷口に当てられる。ちりちりとした鋭い痛みが走り、ラスは思わず息を詰めた。
フランの指先は、驚くほど優しく、それでいて的確だった。血を拭い、傷口を洗い、軟膏を塗り、手早くガーゼを当てて包帯を巻いていく。その一連の動きには一切の無駄がなく、ラスはただ黙って、自分の腕に触れるそのかたちの良い指先を見つめていた。
診療所で見た、医者としてのフラン。その顔が、今、すぐ目の前にある。この澄ました男が、娼館で身体を売っていた過去を持ち、今なお気まぐれに男を誘っては刹那的な一夜を重ねている――その事実が頭をよぎると、ホテルで見た艶めいた表情や、あの日のキスの記憶が目の前の綺麗な顔に重なって、胸がざわついた。
「……はい、おしまい。大した傷じゃなくてよかった」
処置を終えたフランが顔を上げる。昼下がりの太陽が窓から差し込み、フランの栗色の髪を淡く照らしていた。蜂蜜色の瞳が、じっとラスを見つめる――その奥に不意に蠱惑的な艶が宿るのを、ラスは見逃さなかった。
「ねえ、ご褒美が欲しくはない?」
その言葉は、数時間前に彼が「デート」と言い出した時と同じくらい、あまりにも唐突だった。
「ご褒美?」
ラスが聞き返すと、フランは楽しげに目を細める。
「そう。非番の時まで体を張って、か弱い市民のために頑張った捜査官へのご褒美――もしくは、食べ損ねたチェリーパイの埋め合わせ……とか」
フランは楽しそうに、それでいてどうでもいいことのように言葉を続ける。
「理由は、べつになんでもいいけど。とりあえず、」
指先が、包帯が巻かれたラスの腕をそっと撫でた。その羽のように軽い感触に、ぞわりと肌が粟立つ。
「デ ー ト の後は、ベッドで愛し合うものでしょ?」
なにが「とりあえず」なのか――まるで世界の真理を語るかのように、しかしその実、かけらも本気で思っていないであろう軽薄な口調で、フランは言った。
ラスは困惑と、同時に込み上げてくる別種の熱を無理やり押さえつけようと、目の前の甘い色をした瞳から目を逸らす。
「……あんたと愛し合う仲になった覚えはねえよ」
「つれないなあ。好きな人としかエッチできないってタイプには見えないけど?」
愛し合う、などと言ったそばからあっさりそれを翻し、綺麗な顔で紡がれる露骨で即物的な言葉。言いようのないちぐはぐさを覚えて目眩がする。
「……あんたほど遊んじゃいねえよ。だいたい好みぐらいあるだろ、誰かと違って」
棘のある言葉だと、自分でもわかっていた。だがフランは気分を害した様子もなく、小首を傾げて、純粋な好奇心といった体で尋ねてくる。
「ふうん。……僕の顔は、好みじゃない?」
その問いに、ラスは言葉に詰まる。
正直に言えば――認めたくはない。認めたくはないが、目の前のこの男の顔は、めちゃくちゃに、ど真ん中で、好みだった。初めて会ったあの夜から、その事実はラスの理性を執拗に揺さぶり続けている。
押し黙るラスの心中を見透かしたように、フランは満足げに微笑んだ。
「僕は、けっこう好きだけど。きみの顔」
「…………あんたの、噂は聞いてる。いつもそうやって見境なく誘うのか?」
苦々しさを隠そうともしないラスの言葉に、フランは「人聞きが悪いなあ」と肩をすくめた。
「マキさんは後輩思いだね。でも、僕だってまったくその気のない相手にこんな誘い方はしないよ。――本当にその気がない相手なら、ね」
フランの指先が、再びラスの身体に触れる。今度は、手当てをした腕とは反対の、逞しい肩のラインを確かめるように、ゆっくりと。
「僕が、気づいていないとでも思っていた?」
その声は、囁くように甘く、それでいて逃げ場を塞ぐ罠のように、ラスの耳に絡みついた。
「最初に会った時からずっと、僕の顔ばかり見てたくせに」
「――――、」
図星だった。反論の言葉が見つからない。あの夜からずっと、この男の一挙手一投足から目が離せなかったのは事実だ。
「この前のキスは興奮しなかった? 続きがしたくはない?」
その言葉に、あの日の生々しい感触が蘇る。熱い舌、濡れた唇、柔らかい――
フランの指が、ラスの腕から胸へ、そして頬へと滑る。「喰われるなよ」というマキの言葉が頭の片隅で警鐘を鳴らしているが、甘く囁かれる声音に身体が抵抗を拒否する。
「ねえ、ほら、ちゃんと――正直になってみせてよ……それとも、本当にいらないの……?」
触れるか触れないかまで近づいた唇。ぷつり、と。ラスの中で何かが音を立てて切れた。
「――っ」
衝動のままにラスはフランの腕を掴むと、力任せにその身体をソファに押し倒す。
驚きに見開かれたアンバーの瞳。だが、その奥には恐怖の色など微塵もなく、むしろ、狙い通りという満足感と、愉しげな光がきらめいていた。
「……その気になった?」
「……あんたが――どういう人間なのか、俺にはさっぱりわからない」
絞り出した声は、自分でも驚くほど掠れていた。
「医者らしい顔をしたかと思えば、人をおちょくって、今も、あのキスだってそうだ——あんた、一体俺をどうしたい」
「どうしたい、って」
組み敷かれたフランは心底不思議そうに呟いて――それから、くすりと笑う。
「――そんなの、決まってるじゃない」
美しく微笑んだまま、フランの指先がラスの頬に触れる。ひんやりとしているのに、内側に脈打つ熱を感じさせる不思議な温度。
「僕は今、きみとセックスがしたい。キスはしたかったからしたし、ランチに誘ったのもそう。どうしたいか、なんて、その瞬間にそうしたかったから以外にない」
あまりにも単純で、真っ正直な欲求。理由も打算もない、ただ、今この瞬間に欲しい——その答えに、ラスの中でもやもやとわだかまっていたものがふつりと切れる感覚があった。
こいつは、本気でその瞬間にただ欲しいものを求めて生きている。医者の顔も、蠱惑的な顔も、無邪気な顔も、すべてその時々の「したい」がそのまま形になっただけなのだ。裏も表も、打算や計算すらも。
――だったら、俺はどうしたい。
「……俺は、」
衝動のままにフランを押し倒した自分が、今、この瞬間何を欲しているのか。答えなど、最初からわかりきっていた。今さら誤魔化しようのない、正直な欲求が。
「……――は、馬鹿げてるな」
これまで散々、どうにかして目の前の男を推し量ろうとして、無意識に自分の中の欲求を納得させようとしてきたことがひどく滑稽に思えてくる。そんなものはただの後付けの理屈に過ぎないと、どこかでわかっていたはずなのに。
急にすべてが馬鹿らしくなって、ラスはため息混じりに笑った。今欲しいものを、今欲しがればいい。ただそれだけのことだ。
「どうしたの――、っん」
きょとんと目を瞬かせるフランの唇を無言で塞ぐ。彼の気まぐれな挑発の手段として仕掛けられ、ただ翻弄された一度目のキス。
だがこの二度目は、紛れもなくラス自身の意志だ。
どこか不思議そうに受け止めるフランの顔は、先ほどまでの挑発的な態度が嘘のように妙にあどけなかった。ころころと変わるそれすら、今はもうどうでもいい。
押しつけた唇を離すと、ラスは目の前のハニーアンバーにきっちりと目を合わせた。
「言っとくけど、加減しねえぞ」
フランは急に開き直ったラスをしばらく見つめていたが、すぐに楽しげに微笑むと、
「あたりまえ」
挑発するようにラスの首に腕を回し、耳元へ唇を寄せる。
「僕よりも……自分の心配をしたら……?」
「―――は、上等」
ラスは低く笑うと、三度目のキスで、その挑発的な唇を完全に塞いだ。
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