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9#非番の非日常②
ラスがフランを連れてきたのは、彼の自宅アパートからほど近い、リングサイドエリアの外れにあるダイナーだった。何十年も前からそこにあるような、少し古びた、しかし清潔で居心地の良い店。ラスがまだ警官になりたての頃から、一人で考え事をしたい時や、ただ腹を満たしたい時に通っている、テリトリーのような場所だった。
「へえ、いい感じ」
赤いビニール張りのボックス席に座り、フランは物珍しそうに店内を見回している。壁には色褪せた映画のポスターが貼られ、隅に置かれたジュークボックスからは、少し懐かしいロックンロールが流れていた。
「あんたみたいなのが来るような店じゃないだろ」
ラスがそう言うと、フランは面白そうにくすくすと笑う。
「僕をどこの生まれだと思ってるの? きみのほうがよっぽどお育ちがいいでしょ?」
「……そういや、そうだったな」
言われてみればそうだった。出会いの印象と医師という職業、そしてこの容姿と落ち着いた物腰が、どうにも彼が生まれも育ちもダスク・ストリップという混沌とした世界だということを忘れさせてしまう。
「そりゃ、昔はお 客 様 が高級ディナーに同伴させてくれたり、今でもお高いレストランに誘われることはあるけど。でも、僕はこっちの方がずっと好き」
そう言って嫌味なく微笑むフランに「おすすめは?」と聞かれて、ラスはこの店の名物であるダブルチーズバーガーと、山盛りのフレンチフライ、そしてコーヒーを二人分注文した。
やがて運ばれてきた熱々のハンバーガーに、フランは「おいしそう」と目を輝かせ、大きな口を開けてかぶりつく。その姿は、なるほど高級レストランで小洒落たワインを傾けているよりも、なぜかしっくりくるようにラスには思えた。
大きなハンバーガーをぺろりと平らげ、さらに皿に山盛りにされていたフレンチフライも、躊躇うことなく手掴みで口へと運んでゆく。
「あんた、よく食うな……」
自分の分のバーガーにかぶりつきながら、ラスは向かいで機嫌よくコーヒーを啜っているフランを見る。
そういえば、先日アジェイの店で出くわした時は、強そうな酒をまるで水のように飲み干してはいなかったか。
「ふふ。 美味しければなんでも。食事も、お酒も――セックスもね」
そう言って、フランは蜂蜜色の目を細めて微笑む。素のようでいて蠱惑的なようでもあるその表情に、ラスは一瞬、心臓が妙な音を立てるのを感じた。
動揺を悟られまいと、ラスはわざとらしく咳払いをしてコーヒーカップを持ち上げる。
「……食欲旺盛なのは結構だが、医者がそんなジャンクフードばっかでいいのか? 自炊とかしないタイプだろ、あんた」
「いいんだよ。美味しいものを好きに食べるのがいちばん健康なんだから」
「ほんとかよ」
フランは悪びれずに残りのポテトをつまむと、指先についた塩をぺろりと舐めた。その何気ない仕草すらいちいち様になっているのが無性に腹立たしい。
「それに、きみだって人のこと言えないでしょ。いつもここでこういうのばっかり食べてるんじゃない?」
「俺はいいんだよ、体力勝負だからな。安くて旨くて腹に溜まるのが一番だ」
「ふうん……。あ、もしかして、リーズ刑事って意外と甘党だったりする? このチェリーパイとか、美味しそうだし」
不意にメニューを指したフランに図星を突かれ、ラスは思わずコーヒーにむせそうになった。ここのチェリーパイは、まさにラスの好物なのだ。
「げ……なんで」
「なんとなく。ほら、コーヒーも砂糖とミルクがたっぷり入ってるほうが好きでしょ」
くすくすと笑うフランに、ラスは気まずく視線を逸らす。
「そうだ、せっかくだからこのチェリーパイも頼もうか。好きなんでしょ?」
からかうような響きに、ラスは「うるせえ」と短く毒づきながらコーヒーを飲み干した。だが、不思議と嫌な気はしなかった。
他愛のない会話。
出会った時の最悪な印象も、彼を取り巻く裏社会の危うい空気も、今この瞬間だけは嘘のように感じられる。目の前で機嫌よく笑うフランは、ただの気まぐれでマイペースな、どこにでもいる青年のように見えた。
——デート、などと。ふざけたことをと思っていたが、こうして過ごす時間は、思ったよりは、悪くなかったかもしれない――ラスがそんな風に思い始めた、その時だった。
ガシャーン!
突如、店内に食器が割れるけたたましい音が響き渡った。続いて、男の獣のような怒号が轟く。
振り返ると、店の隅の席に座っていた一人の男が、テーブルをひっくり返して立ち上がっていた。目は血走り、焦点が合っていない。口からは意味不明の言葉を涎と共に撒き散らし、全身を小刻みに震わせている。典型的な、薬物中毒者の錯乱状態だった。
「誰か! 警察を!」
店内に、悲鳴とパニックが広がる。客たちは我先にと出口へ殺到し、店員はカウンターの陰で震えていた。
「あんたはここにいろ」
ラスはフランにそう言い放つと、椅子を蹴って立ち上がった。
非番だからとLCPSの制服である防刃ジャケットを外のバイクに置いてきていたことを思い出し、思わず舌打ちする。だが、目の前で起きている暴力を見過ごすわけにもいかない。
男が、懐からぎらりと光るナイフを取り出した。そして、一番近くで泣き叫んでいる女性客に狙いを定め、ふらふらとした足取りで歩み寄る。
「落ち着け! その刃物を捨てろ!」
ラスは叫び、男と女性客の間に割って入った。だが、完全に理性を失った男に、言葉など通じるはずもなかった。
「うああああ!」と奇声を発し、男がナイフを振り回しながら突進してくる。ラスは冷静にその動きを見極め、最小限の動きで攻撃を躱した。男の動きは大振りで、素人そのものだ。だが、薬物で恐怖心が麻痺している分、その勢いは常軌を逸している。
何度目かの突きを紙一重でかわしたラスは、男の懐に飛び込み、ナイフを持つ腕を掴んだ。そのまま腕を捻り上げ、関節技でナイフを落とさせようとする。
「ぐっ……!」
だが、男は痛みを感じていないのか、なおも抵抗を続けた。もつれ合うようにして、二人は床に倒れ込む。ラスは男の上に乗り、全体重をかけて押さえつけた。その時、最後の抵抗で暴れた男の手のナイフが滑り、その切っ先が、ラスの左腕を浅く、しかし鋭く切り裂いた。
「―――ッ!」
熱い痛みが腕に走り、ラスは思わず顔をしかめる。だが、構うものかと渾身の力で男の手首を床に叩きつけ、ラスはようやくナイフをその手から弾き飛ばすことに成功した。抵抗する力を失った男を床に押さえつけ、荒い息を整える。
いつの間にか、店の外にはパトカーのサイレンが鳴り響いていた。
ラスは身分を明かして簡単に状況を説明し、犯人は駆けつけたリングサイドのウエスト・リム隊によって、あっけなく連行されていった。
店内がまだざわざわと混乱する中、アドレナリンが切れ、腕の傷がずきずきと痛み始める。見れば、シャツの袖が赤黒く染まり、そこから絶えず血が滲み出ていた。
「……リーズ刑事」
いつの間にか隣に来ていたフランが、心配そうな、それでいてどこか冷静な目でラスの腕を見下ろしていた。その手には、カウンターから持ってきたのだろう、清潔なナプキンが握られている。
「ここからなら診療所に戻るより、きみの家の方が近いでしょ? 早く手当てしないと。傷口から雑菌が入ったら面倒なことになる」
「……ああ、そうだな」
ラスも、このまま血を流しながらバイクでダスク・ストリップまで戻るのは賢明ではないと判断し、フランの提案を受け入れた。幸い、アパートはここから目と鼻の先だ。
騒然としたダイナーを後にし、バイクを停めてある場所まで歩く。ラスがポケットからキーを取り出すと、フランがその手を静かに制した。
「運転は僕が。きみは後ろに乗って、案内して」
「あんたが? 乗れんのかよ、こんなのに」
ラスの言葉に、フランは少し心外だというように眉を寄せた。
「意外? これでも僕は結構いろいろできるんだよ。それに、これでも一応医者だからね。怪我人に運転なんてさせられない」
「……正直、意外だけどな」
ラスは小さく呟き、ためらいながらもフランにキーを手渡した。
今度は、フランが運転席に跨り、ラスがその後ろに乗る。フランの華奢に見える背中に、自分の身体を預ける形になった。エンジンをかけると、フランは驚くほどスムーズにバイクを発進させた。その運転は、荒々しいラスのそれとは違い、滑らかで安定している。
腕の痛みが、脈打つように主張している。だがそれ以上に、背中越しに伝わってくるフランの体温と、風に流れて鼻先をくすぐる彼の香りが、ラスの意識を侵食していく。
アパートまでの、ほんの数分の道のり。それはやけに長く、そして奇妙なほど濃密な時間に感じられた。
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