15 / 32
13#見えない糸
非番明けの気怠さが、身体の芯に鉛のようにこびりついている。
ギア・ストリートの外れ、エッジ・パーク南部の旧工業区。稼働を停止した廃工場が立ち並ぶ殺風景な景色の中で、偽装されたLCPSの捜査車両のシートに深く身を沈め、ラスはぬるいコーヒーを喉に流し込んだ。
先日の出来事をどうにか頭の隅に追いやり、刑事としての日常に自分を強制的に引き戻す。
肉体的な疲労もさることながら、あの魔性のドクターにすっかりペースを乱されたことによる精神的な疲労が、ラスの思考に薄く靄をかけていた。
「寝不足? 顔色悪いわよ」
助手席から、双眼鏡で外を監視していたイジーが呆れたようにこちらを横目で見つめた。
「なんでもねえよ」
「ふうん。非番だからって夜遊びでもしてたんじゃないの? ほどほどにしなさいよね」
「――夜遊びどころか、管轄外 で暴漢取り押さえたっつの。働き者と褒めて欲しいね」
疲労の原因の半分は伏せつつ、ラスはこれ見よがしに左腕のシャツの袖から覗く包帯を示してみせる。イジーは一瞬目を見開いたが、すぐにいつもの調子で鼻を鳴らした。
「あんたもよくよく厄介事に縁があるのね。ただでさえダスク・ストリップは忙しいのに、他所のエリアでまで働いてたら身がもたないわよ」
「飯食ってたらたまたま目の前でヤク中が暴れ出したんだ、仕方ねえだろ」
素っ気なく返しながら、ラスは視線を車のフロントガラスの向こうへ向けた。
視線の先にあるのは、周囲から隔離されるように建つ『ネクサス・バイオテック』の研究施設だ。
ラスたちはダスク・ストリップでの捜査と平行して、例のホテルで死んだアラン・ケンプの足取りや彼の勤めていたネクサス・バイオテック社周辺を地道に洗い、エッジ・パークにあるこの施設をマークしていた。
表向きは稼働を停止しているはずのその場所に、数日前から不審な車両が出入りしているのを掴んでいる。
「……来たわよ」
イジーの低い声に、ラスは運転席から建物へと目を凝らした。施設裏のゲートが開き、一台のバンが泥水を跳ね上げて走り去っていく。向かう先はネクサス・バイオテック社のあるトレード・ハブではない――ダスク・ストリップ方面だ。
「行くぞ」
ラスはエンジンを吹かし、一定の距離を保ちながらバンを追跡した。
車両は人気のない工業区を抜け、ダスク・ストリップの薄暗く入り組んだ路地へと滑り込んでいく。周囲から人目や一般車両の姿が消えたのを見計らい、ラスはアクセルを踏み込んだ。
覆面パトカーを一気に加速させ、狭い路地でバンの前方に斜めに割り込んで進路を塞ぐ。
急ブレーキの摩擦音が、くぐもって裏通りに響いた。
ラスは素早くドアを蹴り開け、バッジを片手にバンの運転席へと近づいていく。
「LCPSだ。こんな裏道でずいぶんと急いでるみたいだが、テールランプがイカれてるぜ」
窓を叩いて声をかけると、運転席に座っていた男の顔が露骨に引き攣った。咄嗟にダッシュボードの下へ手を伸ばそうとするのを、それよりも早くドアをこじ開け、男の首元を掴んで引きずり出す。
「っ、痛え!」
「妙な真似はするなよ。ちょっと荷台を見せてもらおうか」
ラスはそのまま男をバンの車体に強引に押し付け、動きを封じる。その間に、車を降りたイジーがバンの後部へと回り、荷台の扉を開け放った。
中には、医療資材を装った強化樹脂製コンテナがいくつか積まれている。イジーがその一つのロックを解除して蓋を開けると、緩衝材の下から見覚えのある錠剤や粉末の束が顔を出した。
「ビンゴね。大量のネオンブライトよ」
イジーの言葉を聞いた途端、車体に押し付けられた男が血相を変えて叫んだ。
「お、俺はただの運び屋だ! 中身は知らない、指定された場所に届けるよう頼まれただけで……!」
「はいはい、言い訳はステーションでゆっくり聞いてあげるわ。とりあえず薬物所持で現行犯ね」
イジーが冷たく言い放ちながら、コンテナの底をさらに探る。
「……待って。ラス、これ見て。ただのネオンブライトじゃないわよ」
怪訝な声をあげたイジーが、薬の束の下から周囲のパッケージとは明らかに異質な、厳重にロックされた黒い小型のアタッシュケースを引っ張り出してきた。
強引にロックを解除して蓋を開けると、中には洗練されたデザインのインジェクターが数本、静かに収められている。
シリンダーの透明な筒の中では、粘度のあるコバルトブルーの液体が妖しく揺らめいていた。
「見せてくれ」
ラスは現行犯で手錠をかけた運び屋の男をイジーに引き渡すと、アタッシュケースからインジェクターを一本抜き取り、裏通りの薄明かりに透かした。
底知れないほどに澄んだ、冷たい青。
(――どこかで)
一瞬、脳裏の奥で何かが引っかかった。この奇妙なほどに美しいブルーを、つい最近どこかで目にしたような気がする。だが、その既視感の正体はすぐには結像しない。
ラスはわずかに眉をひそめながらポケットから端末を取り出し、ステーションのジェイクへの通信を繋いだ。
「……ジェイク、聞こえるか。旧工業区の研究所から出てきたバンを押さえた。ビンゴだ」
ラスは手元で揺れる青い液体を見つめながら、低い声で続ける。
「大量のネオンブライトの他に、見たことねえ高級なインジェクター入りのサンプルを押収した。色からするに、新型のネオンブライトかもしれない。運んでた奴は今イジーが締め上げてるが……こっちはおそらくただの運び屋だな、ろくな情報はなさそうだ」
イジーと男の様子をちらりと見やりながら、ラスはホロパネルに映し出されたジェイクに告げた。
『了解、戻り次第押収品を分析に回せるように手配しておくよ。それとちょうど今、アラン・ケンプの足取りを別ルートで洗ってたんだけど、気になる情報が出てきた』
通信越しにジェイクのキーボードを叩く音が響く。
『ケンプは、ここ数ヶ月トレード・ハブの高級クラブ『アジュール・ゼニス』に頻繁に出入りしてたんだ。一流企業とはいえ、ケンプみたいな中堅の管理職が自腹で通えるような場所じゃない』
「つまり……ケンプはそのなんとかゼニスってクラブにツテがあったってことか?」
『おそらく。それで気になって、そのクラブの運営口座を調べてみたら……ネクサス社宛てに〝VIP向けヘルスケアのコンサル料〟なんていう名目で、毎月莫大な資金が流れていたことがわかった』
「コンサル料?」
『ああ。クラブを隠れ蓑に、ネクサスに新型麻薬開発の金を出してるスポンサーはこれかもしれない。ちなみにそのクラブのオーナーっていうのが、アークライト・グループのトップ――エリック・スターリング。仮にこの大物が今回の糸を引いてるんだとしたら、セントラルに協力を求めてもすんなり動いてくれるかどうか』
(アークライト――)
ジェイクの言葉が、ラスの脳裏で二つの記憶を鮮烈にフラッシュバックさせていた。
――『「アークライト・グループ」とかいうところの、トップの。テラスでキスしてるところ、見たわよ』
先日アジェイの店で耳にした、娼婦マリアとフランの会話。
フランはアークライトのトップ――エリック・スターリングと接触していた。それもキスを交わすほどの親密さで。そして、そのスターリングが資金を出した先で麻薬の開発に携わっていたと思われる男――アラン・ケンプは、彼とベッドを共にした直後に死亡しているのだ。
そしてもう一つ。手元で妖しく輝く、この特徴的なコバルトブルーの液体。
(――あの時の、青だ)
それは、先日診療所を訪れた際、積まれたプレゼントの山の中からフランが手にしていた、小さな箱――その中に納められていた美しい小瓶。先ほどの既視感が、ようやくはっきりとした形になる。
トレード・ハブの大企業のトップが、資金をはたいて極秘に製造させている、新型ドラッグの改良品——そんなものがなぜ、フランの手元に届いているのか。
積み重なっていく事実が、嫌な焦燥感となってラスの胸の内に広がっていく。
『……ラス? 聞こえてる?』
「――ああ、聞こえてる。そのクラブとアークライト、もう少し詳しく調べられるか」
ラスは動揺を悟られまいと、努めて声を低く沈めた。隣で運び屋を監視していたイジーが、怪訝そうな視線をこちらに向けてくる。
『了解、やってみる。そっちの運び屋の身柄と押収品、気をつけて持って帰ってきてくれ』
通信が切れる。ラスは端末をポケットにねじ込むと、手元に残ったインジェクターをアタッシュケースへと戻した。
フランの名前は、最後まで口から出すことはできなかった。
今ラスの記憶にある事実を共有すれば、彼は間違いなく重要参考人として再び捜査線上に引っ張り出されるだろう。記憶違いの可能性もあるが、それでも疑惑としては十分だった。
「何ぼんやりしてんのよ。さっさとこいつを連行するわよ」
イジーの尖った声に、ラスは「わかってる」と短く応じた。
パトカーのエンジンが始動し、泥水を跳ね上げて走り出す。バックミラーに映る景色の遙か遠く、トレード・ハブの摩天楼が、すべてを見透かすように冷たくそびえ立っていた。
ともだちにシェアしよう!

