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14#距離
サウスウエスト・エッジ・ステーションの三階、喫煙所の窓から見える空は、相変わらずの鈍色だった。
ラスは手すりに寄りかかり、紫煙を吐き出す。
新たにネオンブライトの改良型と思われるサンプルを押収してから、数日が経っていた。サンプルはラボへ回され、分析が進められている。捜査は確実に核心へと近づいていた。
だがラスの頭の中では、捜査の進展とは別の問いがぐるぐると同じところを回り続けていた。
状況証拠だけを並べれば、フランを疑う理由はいくらでもあった。だが、どうしても腑に落ちない。もし疑惑が真実であるなら、彼は最初のホテルでの一件からずっと、ラスやLCPSを欺いていたことになる。
マキとの長年の付き合いも、バック・ドクターとして先代から受け継いできた診療所の信用も、すべてを投げ捨てるような真似を、あの男がするだろうか。まして、ラスを翻弄するためだけにあんなキスを仕掛け、あげくセックスにまで持ち込む理由があるとも思えない。仮に何か企みがあるとしても、ラスのような末端の刑事一人を籠絡したところで得られるものなどたかが知れている。
点と点は繋がりかけている。だが、その線を引くことをラスの中の何かが拒んでいた。
すべては自分が今この瞬間にしたいかどうかだけだ、と笑ってみせたフラン。
少なくとも、医者として真剣に患者に相対する顔やクロウへ向ける眼差し、ダイナーで美味しそうにバーガーを頬張っていた顔、そしてベッドの上で素直に快楽を追っていた彼の顔には――ラスの目には、嘘はなかったように思える。
(それとも、俺が信じたくないだけなのか……?)
一度寝てしまったが故に――刑事としての勘、冷静な判断が、個人的な感情によって曇らされているのではないか。そんな自分自身への疑念までもが湧き上がってくる。
煙草を深く吸い込んだその時、ジャケットの内ポケットで、私用端末が短く振動した。画面に表示された名前に、一瞬どきりとする――『Ellewood』。
『お疲れさま、リーズ刑事』
通話ボタンを押すと、スピーカーから聞こえてきたのは、予想を裏切るほどに普段通りで、のんびりとした声だった。画面の向こうで、フランは白衣姿のまま、いつものように穏やかな笑顔を浮かべている。
「――何か用か、ドクター」
努めて平静な声で応じながら――心臓が少しだけ速く打っているのを、ラスは自覚していた。
『うん。ちょっとお願いがあるんだけど――クロウのメンテナンスパーツを届けてくれない?』
フランの声音は、あの昼下がりの出来事以降も、まったくと言っていいほど変わっていなかった。あの日のセックスなど、まるで最初から存在しなかったかのように。
そのことに、ラスはどこか安堵している自分と、同時にちりりと胸の奥がささくれ立つような――彼にとって、あの出来事は本当にただの気まぐれに過ぎなかったのだと、改めて突きつけられたような――そんな複雑な感情を抱いている自分に舌打ちする。
だが今のラスには、それ以上に彼に確かめなくてはならないことがある。
「パーツって何だよ?」
『センサーの予備と、関節用の潤滑オイル。細かい型番をメールで送っておくから、LCPSの技術部門で調達してもらえるかな?』
「……まあ、いいが」
『ありがと。じゃあ、よろしくね』
「――フラン、」
言いかけたラスを待たず、通信はあっさりと一方的に切れた。途切れた画面を眺め、ラスは深く息を吐いて短くなった煙草を灰皿に押し付ける。
どのみち嫌でも顔を合わせるのだ。向こうの態度が変わらないのなら、下手に意識して気まずくなるよりは――まして、彼が麻薬の密売に関与している可能性のある男と繋がりがあるのなら。
会って直接、それを確かめなくてはならない。
確かめて――そしてもし、フランが本当にこの事件に深く関与しているとしたら、その時自分はどうするのか。
その問いの答えを、ラスはまだ出せないでいた。
*
その日の夜、勤務を終えたラスがバイクを走らせて診療所に着いたのは、すでに最終診療時間をとうに過ぎた頃だった。プレートの明かりは消え、宵のダスク・ストリップの喧騒をどこか遠くに、その一角だけが静寂に包まれている。
診療所前にバイクを停め、ラスが降りようとした、まさにその時だった。
内側から、音もなくドアが開いた。中から現れたのは、一見して上等なスーツを着た一人の男。穏やかで知的な雰囲気を漂わせてはいるが――男の纏う独特の冷たく硬質な空気は、明らかに一般人 のものではない。
「――――ええ、交渉は――――次の手段に――――」
男はラスには気づかず、端末で誰かと会話をしながら、足早に裏通りの暗闇へと消えていった。
(……なんだ、今の男は)
患者、ではない。直感的にそう感じていた。男には、裏社会の人間特有の危険な匂いがあった。そして〝交渉〟という言葉。
警戒心とともに、嫌なざわつきが背筋を駆け上がる。ラスは訝しげに眉を寄せながら、静かに診療所の自動ドアをくぐった。
中に入ると、明かりのついた待合室のソファに、フランが一人、深く腰掛けていた。その指には、珍しく煙草が挟まれ、紫煙が天井の薄暗い照明に溶けていく。
フランの横顔はどこか物憂げで、それはラスがこれまで見たことのない表情だった。
白い煙を細く吐き出す、かたちの良い唇。湿った光を反射する、口元の印象的なほくろ。相変わらず美しい横顔は今は少しも扇情的ではないはずなのに、つい視線が惹き込まれて声をかけるのを忘れてしまう。
ラスの気配に気づいたのか、ソファの陰からクロウが顔を出し、『ワン!』と声をあげる。その声に顔を上げたフランからは物憂げな色は一瞬でかき消え、ラスの知るいつもの表情で、彼は驚いたように睫毛を瞬かせた。
「あれ、リーズ刑事? どうしたの、こんな時間に」
「……あんたが呼んだんだろうが。クロウのメンテナンスパーツを持ってこいって」
ラスが頼まれていたパーツの入った袋を差し出すと、フランはきょとんと目を瞬かせ、それから「ああ、そうだった」と、思い出したように手を叩いて笑った。
「ごめんごめん、すっかり忘れてた。ありがとう」
その屈託のない様子は、やはりいつも通りに見える――だが、ラスは見逃さなかった。その目元に残る、わずかな緊張の残り香を。
「……さっき出て行ったのは、客か? 患者には見えなかったが」
ラスの言葉に、フランは困ったような顔で肩をすくめて、吸っていた煙草を小さな灰皿に押しつける。
「詮索しないの。言ったでしょ、うちには色んな人が来るんだってば」
目の前のフランは、いつもと変わらずのんびりとしていて、掴みどころがない。彼は差し出されたパーツを受け取ると、ふと、何かを思い出したように顔を上げた。
「そういえば、ねえ。例のカメラの犯人、わかりそうだよ」
「は? 本当か、それ」
例のカメラ――フランにクロウを貸し出すきっかけであり、そして何より、ラスがこのわけのわからない魔性の男とうっかりあらぬ関係にまでもつれ込む羽目になった、その最初のキスの原因になった盗撮用の監視カメラだ。
一体どこのどいつだったんだ、とラスが思わず身を乗り出すと、フランは悪戯っぽく人差し指を口の前に立てる。
「秘密」
「な――秘密ってなんだよそりゃ!」
ラスが思わず声を荒らげても、フランは楽しそうに笑うだけだった。
「きっとそのうちわかるよ。それでねえ」
ついでに思い出した、というようにフランがぽん、と手を叩く。
「近々、ここのセキュリティも強化しようと思ってるの。いつまでも、きみの相棒を借りておくわけにもいかないしね」
「セキュリティ強化?」
「来週くらいまでは、このまま貸しておいてくれると助かるけど……安心して。栄養バッチリ、ボディもピカピカ艶々にして返すから。ね?」
にっこりと微笑んで、フランは大人しく足元で伏せているクロウの背を撫でる。わかっているのかいないのか、クロウは嬉しそうに鼻先をフランの手に擦り寄せていた。
「そりゃ……ありがたいが……」
確かに、正式な手続きや明確な事情も無いままLCPS登録のサイバードッグであるクロウを無期限に貸出し続けるわけにもいかない。カメラの犯人の目処がついて何らかの対処ができたのなら、番犬は必要なくなるだろう。
――だが、あるいは。
『一度寝たくらいで、勘違いする人が多くてねぇ』
『きみがこの子を監視カメラ代わりにするつもりかもしれないじゃない?』
(……俺が)
クロウを置いておくことで、フランが他でもないラスを監視者 になりかねないと考え、体よく厄介払いされたのではないか――そんな最悪な予感が胸を過る。
「どうしたの、難しい顔して」
そう言って首を傾げるフランの表情や声色には、ラスを突き放すような響きは微塵もなかった。心底不思議そうに目を瞬かせるその様子は、ラスが導きかけた結論とはあまりに噛み合わない。それがかえってラスの思考をかき乱す。
(——違う。そんなことを考えに来たんじゃない)
ラスは無意識に眉間を押さえ、軽く頭を振った。
今は自分とのことよりも、彼に確かめなければならないことがあるのだ。
エリック・スターリングとの関係。アラン・ケンプの死。あの青い小瓶。聞きたいことはいくらでもある。だが喉元まで込み上げた言葉は、どれも口にする前にその形を失っていく。すべてがまだ疑惑の域を出ない。仮に問い詰めたところで、フランはまた笑ってはぐらかすだけだろう。
「……あんた、やっぱり何か隠してないか」
結局どの疑惑にも踏み込めないまま、ようやく吐き出した声には、自分でも信じられないほど力が入らなかった。
そんなラスに、フランはやはり本気なのかそうでないのかわからない、謎めいた微笑みを浮かべる。
「……隠しごと、したりされたり するような仲だっけ?」
茶化すような、それでいて甘い声音。
黙り込んだラスに、フランはソファからすっと立ち上がると、不意にその距離を詰めてきた。ラスが反応するよりも先に、ふっと彼の香りが鼻先を掠めて、唇に柔らかな感触が押し当てられる。
挑発のためのキスとも、セックス中の欲望に濡れたキスとも、そのどれともまるで別物の――羽が触れるかのような、優しく、そして短いキス。
「……おやすみ、リーズ刑事。届け物ありがとう」
唇が離れると同時に、フランはもうラスに背を向け、診療所を閉める支度を始めていた。
(――くそ)
この上、まだこんな風に触れてくるのか。
いっそ分かりやすく拒絶するなりしてくれれば、こちらも素直に疑えるのに。
結局、また何もかも煙に巻かれてしまった。疑念も、唇に残る感触も、何一つ整理できないまま、ラスは診療所を後にするしかなかった。
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