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17#盤上の男

『ルージュ・ベルベットにいるからご心配なく』そうラスに短い嘘のメッセージを送った後、フランは端末の電源を落とした。画面がブラックアウトし、そこに映る自分の顔は、ひどく冷めているように見えた。  ——面倒なことになった。それが、フランの正直な感想だった。だが同時に、危険なゲームの駒として自ら盤上に上がる前の、静かな高揚感も感じていた。どうせ厄介ごとに巻き込まれるのなら、つまらないゲームにはしたくない。  ​交渉に訪れたセルジオの部下が残していった名刺から連絡を取り、指定された場所は、トレード・ハブの外れに立つ、何の変哲もないオフィスビルの一室だった。偽装されたコンサルティング会社の名が、入り口のプレートに控えめに刻まれている。  重いドアを開けると、広々とした、しかし殺風景な空間が広がっていた。そこにいたのは、数人の屈強な部下と、部屋の中央で高価な革張りのソファに深く腰掛けている一人の男。 「ようこそ、ドクター・エルウッド。お待ちしておりましたよ」 ​  男は腰掛けたまま、紳士的な笑みを浮かべてフランを真っ直ぐに見上げてくる。仕立ての良いスーツ、磨き上げられた革靴。だがその瞳の奥には、金と力でのし上がってきた人間特有の、ぎらついた光が宿っていた。  この男が、セルジオか。ロニが言っていた「ハイエナみたいな男」という評価は、どうやら的を射ているらしい。 「情熱的なお誘いをありがとう。おかげで診療所と、可愛いボディーガードがめちゃくちゃ」 「それは申し訳ないことをした。だが考え直してくれたようで何よりだ」  ​セルジオの低い声が、静寂な部屋に響く。その背後には、彫像のように静かに佇む長身の男――ナナミだ。フランはその姿を一瞥し、すぐにセルジオへと視線を戻した。 「それで?」  フランは、まるで高級レストランにでも招かれたかのように悠然と微笑んでみせた。その場違いなほどの落ち着きに逆に警戒心を煽られたのか、紳士然としていたセルジオの表情にマフィアらしい剣呑な色が交じる。 「もちろん、君のことは丁重に歓迎させていただくとも。だがその前に、信頼の証を見せてもらおう」  そう言うと、セルジオは顎でフランの背後の部下たちに合図を送った。屈強な男たちが、じり、とフランとの距離を詰める。 「なに、簡単な身体検査だ。録音機やLCPSのお友達に繋がる通信機――余計なものを仕込まれていては困るんでね」 「悪く思うなよ」  下卑た笑みを浮かべる部下たち。こちらの衣服を剥ぎ取り、隅々まで辱めるように探るつもりなのだろう。あるいは、スポンサーに引き渡す前にひとしきり楽しむつもりか。相手の心を折り、従属させるマフィアらしいやり方だ。  だが、フランは眉一つ動かさなかった。 「……どうぞ、お好きに」  ​そう言うと、フランは男たちが触れるよりも先に、自らジャケットのボタンに指をかけた。  するり、と羽織っていた薄手のジャケットが肩から滑り落ち、音もなく床に積もる。続いて、ベストのボタンを一つ、また一つと外していく。その指先に一切の躊躇はない。  フランに触れようとしていた​部下たちが、困惑したように顔を見合わせる。セルジオの眉が、わずかにひそめられた。  フランは構わず、シャツのボタンにも手をかけた。衣擦れの音だけが大きく響き、白いシャツがはだけていく。やがて、しなやかな曲線を描く美しい肌が露わになる。首筋、鎖骨、そして引き締まった腰のライン。冷たい照明が、その肌を艶めかしく照らし出していた。 ​「……おい」  ​セルジオの制止の声も聞こえないかのように、フランは微笑んだまま淡々と、今度はスラックスのベルトに手をかける。金属のバックルが外れる、乾いた音。そのままファスナーが下ろされ、スラックスと下着が同時に、あっけなく床へと落ちた。 「これは外さなくても構わない? まだ傷が塞がってなくて」    ​余すことなく晒されたなめらかな肌の上。唯一残ったのは、先日の襲撃でつけられた上腕の傷に巻かれた包帯だけだった。  取り囲む男たちの視線の中、屈辱的なはずの身体検査をあっけなく自ら主導する官能的なショーへと変貌させたフランは、両腕を広げて婉然と微笑んでみせる。 「さあ、どうぞ」  しばしの沈黙。部下たちは目の前の光景に呑まれ、動けずにいる。  やがて、セルジオの口元に獰猛な笑みが浮かんだ。 「……なるほど。たいした度胸だ。元は名うての娼夫というのも伊達じゃないな」  ​セルジオは手を叩いて部下を下がらせると、満足げに頷いた。 「いいだろう。それ以上の身体検査はなしだ。その様子ならどうせここで手籠めにしたところで従順になるようなタマでもないだろう、服を着ていいぞ」  ​その言葉にフランはふ、と微笑むと、床に散らばった衣服を拾い上げ、何事もなかったかのように再び身に纏い始めた。その一連の動作を、セルジオは愉しげに眺めている。困惑した表情のまま引き下がる部下たちの中、セルジオの背後に立つナナミだけが、変わらず無表情のまま、その光景を静かに見つめていた。だがその濃紺の瞳の奥に、どこか不愉快そうな色が浮かんでいるのをフランは見逃さなかった。やはり嫌われているらしい。 「さて、本題だ」  服を着終えたフランに、セルジオが告げる。 「スポンサー殿は、お前を強くご所望だ。数日後のパーティで身柄を引き渡すことになっている」 「……僕への見返りは?」 「命の保証と、金だ。スポンサー殿は気前がいい。望むなら、元の診療所なぞ比べ物にならんくらいの、新しい〝城〟を用意してくださるだろうよ。精々可愛がられるようにご奉仕するといい」  「生憎、そっちのお仕事はとうに廃業済みなんだけど」 「そうかい。だがお前に選択肢はない。まあ、好きにするがいいさ」  ​引き渡した商品のその後の処遇などどうでもいい、とばかりにセルジオは肩をすくめると、ソファから立ち上がった。 「パーティまでの数日間、身柄は預からせてもらう。大事な商品だ、それまでは丁重にもてなしてやるさ。……ああ、そうだ」  ​セルジオは、まるで面白いことを思いついたかのように、にやりと笑った。 「当日の衣装は、こちらで最高の物を用意させてもらう。スポンサー殿への〝贈り物〟に、とびきり相応しい格好をな」  ​その言葉は、フランを人間としてではなく、単なる価値のある〝モノ〟として扱う、侮辱に満ちたものだった。  だが、フランの表情は変わらない。彼はただ、静かに微笑んだ。 「それはどうも。楽しみだね」  ​その声には、これから始まる危険なゲームへの、密やかな興奮の色さえ滲んでいた。  フランは、セルジオの部下に促されるまま、部屋の奥へと続く扉へと向かう。その背中には、囚われた者の怯えどころか、自らの意志で敵陣の奥深くへと踏み入ることを楽しむ余裕さえ浮かんでいた。

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