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19#帰る場所

 イジーによる「上流階級のテーブルマナーと歩き方」の地獄のような特訓は、肉体的な疲労よりも遥かに精神をすり減らすものだった。  歩幅、背筋の角度、グラスの持ち方、視線の配り方。少しでもガサツな癖が出れば、イジーの辛辣なダメ出しが容赦なく飛んでくる。サウスウエスト・エッジ・ステーションの取調室を急造のレッスン場に変え、半日がかりで叩き込まれた付け焼き刃の所作は、どうにかギリギリ及第点をもぎ取るに至っていた。 ​ 明日に迫ったトレード・ハブでの潜入作戦。ジェイクはシステムのハッキングと偽造IDの最終調整に追われ、マキは各所への根回しとバックアップの配置に奔走している。ステーション全体が、嵐の前の張り詰めた空気に包まれていた。 ​ そんな息の詰まるような準備の合間を縫って、ラスは愛車のバイクをダスク・ストリップのさらに奥深くへと走らせていた。  向かう先は、娼館『ルージュ・ベルベット』。  ネオンが毒々しく瞬く猥雑な通りを抜け、重厚な装飾が施された店の前へとバイクを滑り込ませる。 ​ ルージュ・ベルベットにいる、というフランのメッセージ自体を疑っていたわけではない。彼にはアジェイという、幼馴染であり家族同然の男がいる。この娼館を取り仕切るアジェイは、ダスク・ストリップの歓楽街では顔の通った男だ。レヴァリスもそう易々とは手を出せないはず――セルジオの脅威から身を隠すなら、ここ以上に安全で確実な場所はないだろう。  だからこそ、ラスは胸騒ぎの正体を自分の目で確かめずにはいられなかった。 ​ 開店前の娼館、固く閉ざされた正面ドアに舌打ちして、裏口へと回る。そこへたまたまドアを開けて出てきた女が、ラスの顔を見て「あら」と声をあげた。 「あなた、たしかフランの知り合いの刑事さんよね? なにか御用?」  以前聞き込みで訪れた際に、マリアと呼ばれていた娼婦だ。彼女は特にフランと親しげだった。 「ああ、ドクターは……フランは来てるか」 ​「え?」  マリアはきょとんと目を瞬かせた。 「フラン? ここにはいないわよ。最後に顔を出したのは……たしか二、三週間前にアジェイに頼まれた薬を届けに来た時だったと思うけど」 「……やっぱりか」  ラスは低く舌打ちをして、ガシガシと乱暴に頭を掻いた。驚きはなかった。むしろ、胸の奥で鳴り続けていた警鐘が「ほら見ろ」と告げるように響く。あの奔放で食えない男が、素直に他人の庇護下に収まって大人しくしているはずがないのだ。 「ちょっと刑事さん、どうしたのよ。フランに何かあったの?」  ただ事ではないラスの様子に、マリアは「とにかく中でアジェイに会って」と裏口のドアを開けた。 ​ 開店前の静まり返ったフロア。間接照明だけが点された薄暗い店内の奥で、カウンターに寄りかかって帳簿をチェックしていたアジェイが、二人の足音に顔を上げた。 「なんだい刑事さん。開店前にナンパか? マリアは高いぞ」 「悪いが冗談に付き合ってる余裕はない。フランは、ここには来てないんだな」 「? ああ。気まぐれな奴だからな。突然来たかと思えば二、三か月顔を見せないなんてのもざらだ。あいつがどうかしたのか」  ラスは再度大きくため息をつくと、声を潜め、フランが件の麻薬――ネオンブライトの密売を企てているマフィア、レヴァリスのセルジオに狙われ、襲撃を受けたことを手短に伝えた。フランが狙われたのは、セルジオが資金提供を受けているトレード・ハブの大物、エリック・スターリングのフランへの異常な執着が原因であること、その後フランは嘘のメッセージでこちらをはぐらかし、診療所から姿を消したこと。 「……ここに来てないってことは、おそらくあの銀髪野郎の提案に乗って今頃自分からセルジオのところに乗り込んでるはずだ」  ラスの言葉を聞き終えると、アジェイは深く、重いため息をついた。 「……………………なるほどな。相変わらずの馬鹿野郎だ」  アジェイは苛立たしげに煙草を取り出すと、カチ、と音を立てて火をつけた。紫煙が薄暗い空間に立ち上る。 「……俺は忠告したはずだぞ」  ふう、と吐息とともに長く煙を吐き出して、アジェイがラスを見た。  「下手に触ると火傷じゃすまない、とな。……まあ、珍しくあいつのほうから手を出しそうな雰囲気だったからどのみち無駄だったろうが」 「……何の話だ」 「まんまと喰われて刑事さんも気の毒になって話さ」  揶揄するような響きに、ラスは返す言葉もなく押し黙る。マキと同様、アジェイもラスとフランの関係がただの仕事上の知人のそれを超えていることを察している。二人とも、それだけフランという男の手癖の悪さをよく知っているのだ。   「……あいつはな」  再び煙草を咥えたアジェイのその横顔には、身内を心配する焦燥よりも、どうしようもない弟分への深い呆れが色濃く浮かんでいた。 「ガキの頃からああなんだ。男を手玉に取っては狂わせて――それだけならまだいい。自分から煽り、逆上されてナイフを突きつけられても平気で笑っている――それで殺されかけたことも一度や二度じゃない。そういう奴なんだよ。これまで命があるのが不思議なくらいだ」  幼馴染みとして誰よりもフランをよく知るアジェイの言葉に、ラスは黙り込む。  そうだ。襲撃を受け傷を負っていたあの夜さえ、彼の顔に浮かんでいたのは傷ついたクロウへの心配と向けられた執着に対する煩わしさ、面倒事への厭気だけで、そこに恐怖や不安は読み取れなかった。 「だから俺が、――ようやく(ウリ)なんて()()から足を洗わせてやったのに……あいつはちっとも変わりゃしねえ」  長い前髪を掻き上げるように額を押さえながら吐き出される言葉。足を洗わせた――十年前、フランが二十歳という若さで娼を辞めた、その具体的な事情はラスには知りようもない。だが、アジェイが彼なりに弟の身を案じたが故のことだった、ということだけは痛いほどに伝わる。 「あいつは誰かに守られたり、行動を制限されたりするのを何より嫌う。ましてや相手がLCPS(あんたら)ならなおさらだ。手続きだの、保護だの、聴取だの……そういうしがらみで自分のペースを乱されることを、あいつは心底「めんどくさい」と思ってるのさ。たとえ()()()()()相手だとしても、だ」  〝めんどくさい〟——そんな理由で、わざわざ自らの身を危険を晒す道を選ぶのか。だが、それが――きっと何よりも自身の自由を大事とするフラン・エルウッドという人間の揺るぎない本質なのだ。 「よほどのことがないかぎり、あいつは俺たちにさえ頼らない」  どこか諦めと寂しさを滲ませた声音には、それでも捨てきれない情が宿っていた。 「銀髪野郎、とか言ってたな。今の話もフラン本人が自分の口から喋ったわけじゃないんだろう?」 「……そうだ。襲撃後の現場にロニとかいうレヴァリスの男が現れて情報を置いてった。フランに「スポンサーを引きずり出す囮になれ」と。身の安全は保証するとは言ってたが、どこまで信用できるかもわからない」 「――ロニか」 「知ってるのか?」 「ああ。正確には、そいつの上司をな。ロニは軽薄な野郎だが……ボスへの忠誠は本物のはずだ。セルジオと繋がっている線はないだろう」  アジェイはそれ以上ロニについて語ることなく、伏せていた瞼を上げる。ダークグリーンの瞳がラスを真っ直ぐに捉えた。 「フランは――あいつは命知らずだが、馬鹿じゃない。どんな状況でも、ギリギリで小賢しく立ち回って生き延びてきた。……自分から姿を消したってことは、おおかた今回もこの厄介事を自分で終わらせるために何か企んでるんだろうさ」  そこでアジェイはふっと皮肉げに鼻を鳴らすと、言葉を切って少しだけ声を落とした。 「言っておくが、あいつの股の心配はするだけ無駄だぞ」  露骨な可能性を突きつけられて、ラスはわずかに息を止めて眉間に皺を寄せる。  「フランの図太さを舐めるなよ。()()()()、どうせはなから勘定に入れてる。誰にヤられようが、あいつには余興みたいなもんだ」 「……嫌な忠告をどうも」  屈辱的な扱いすらもゲームの一部として笑って受け流すフランの不遜な顔。それが容易に想像できたからこそ、ラスはそれ以上口を挟めなかった。 「……そうね」  傍らで黙って話を聞いていたマリアも、静かに同意する。 「フランはずっとああだから、今までにもたくさん危険な目に遭ってきたけど——いつだって、大人しく誰かの後ろに隠れて事態が解決するのをじっと待っているタイプじゃなかった。刑事さん、あなたもわかるでしょう?」  裏社会との瀬戸際で危険と隣り合わせに生き抜いてきた彼らの言葉は、たしかな確信に満ちていた。そして、それはラスがこれまで肌で感じてきたフラン・エルウッドという人間の印象をより鮮明にする。 (……クソ)  誰かを庇うための自己犠牲。正義感――そんな殊勝なものではない。ただ単に、あの男は自分に降りかかる火の粉を、自らの手で――それも、敵の懐に飛び込むという最も危険でスリリングな方法で払い落とそうとしているだけなのだ。  でも、と黒目がちの瞳を伏せたマリアが続ける。   「あの子は、私にとっても弟みたいなものなの。それに今回のことは、元はといえば私がフランをトレード・ハブに付き合わせたのが原因だわ」 「あいつが見境なく余計なお遊びをするせいだ。遅かれ早かれ似たようなことにはなってただろうさ」 「でも……相手はレヴァリスの幹部と、トレード・ハブの大物よ。いくらフランが立ち回りに長けているといっても、万が一のことがあったら……」  言葉を濁してうつむくマリアの肩を、アジェイが宥めるようにポンと叩いた。彼は灰皿に煙草を強く押し付け、真剣な瞳をラスへと向ける。 「あいつがいくら強かでも、マリアの言う通り今回は相手がでかい。……明日のパーティとやら、あんたらLCPSも動くんだろう」 「……ああ。スターリングとセルジオの裏取引を押さえる。その潜入の準備の最中だ」 「なら、ついでに頼まれてくれないか」  アジェイはカウンターから身を乗り出し、真っ直ぐにラスの目を見た。 「あのバカをこのダスク・ストリップに連れて帰ってきてくれ。あんなのでも大事な弟だ。それに自業自得だろうと、いけ好かない金持ちに飼い殺しにされるなんてのは――あいつには似合わない」  裏社会とも繋がるこの裏通りの顔役が、表の世界の警察官に頭を下げる。それは彼なりの、フランに対する最大限の家族としての情の形だった。  その不器用な愛情を受け取り、ラスはふっと口元を緩めると、短く頷いた。 「……ああ、まったく同感だ。俺も出し抜かれて指くわえて見ていられるほど腑抜けちゃいないんでね。マフィアもスポンサーのクソ野郎も――あんたらの大事なあの尻軽ドクターも、まとめて引っ張ってきてやるさ」   迷いのない言葉に、マリアがほっとしたように息を吐き、かすかに微笑む。アジェイもまたふ、と口の端に笑みを浮かべた。 ​ ルージュ・ベルベットの重厚なドアを押し開けると、外はいつの間にか雨が降り始めていた。  ダスク・ストリップの毒々しいネオンが、濡れたアスファルトに滲んで不気味に反射している。ラスはバイクに跨り、エンジンを荒々しく吹かした。地を這うような重低音が、冷たい雨の夜闇を震わせる。 (……待ってろよ)  この街に蔓延する麻薬も、それを流すマフィアも、そしてフランを囲い込もうとする傲慢な金持ちの欲望も。明日、あの摩天楼の頂上でまとめて片付けてやる。  ラスは小さく舌打ちすると、アクセルを捻った。  

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