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21#ブルーラウンジにて
パーティ会場を出てVIP専用の回廊を抜けた先に、ブルーラウンジへと続く扉はあった。
扉の前には、いかにもプロの傭兵といった体つきの二人の黒服が構えている。
遅れてきた客を装い、ラスは男たちを横目に何食わぬ顔で右手の指に嵌めた黒いシグネットリングをセンサーにかざした。ピ、と電子音が鳴り、リングの認証が通る。だが、扉が開く気配はない。パネルに『Enter Passcode』の文字が赤く点滅していた。
『……ラス、リングの認証は確認した。だが二段階認証だ。三十秒ごとに切り替わるワンタイムのセキュリティコードが要る。今解析してる、ちょっと待ってくれ!』
インカム越しにジェイクの焦った声が響く。
「……おいおい、頼むぞ」
唇を動かさずに低く呟いたラスに、黒服の一人が怪訝な目を向け、じり、と間合いを詰めてきた。
「――お客様。どうされました?」
「……ああ。どうやら少しトラブルでね」
ラスは努めて余裕の笑みを浮かべ、ジャケットのポケットに手を入れたまま肩をすくめた。
「スターリング代表に直接呼ばれたんだが、手違いでコードが送られてきてなくてな。今、確認させているところだ」
「……失礼ですが、〝指輪〟はお持ちで?」
「そう疑うなよ。ちゃんと持ってるさ」
言いながら、指輪を嵌めた右手を顔の前に掲げる。
「……中の商談にはもう間に合わないかもしれないな。代表の機嫌を損ねなきゃいいが」
スターリングの名前を出し、あえて堂々と振る舞う。黒服たちは顔を見合わせ、わずかに躊躇いを見せた。そのわずかな隙に、右耳のインカムからジェイクの声が飛ぶ。
『――よし、抜けた! ラス、コードは【104982】だ!』
「おっと、ようやく来たようだ」
そう嘯いて、ラスは手持ちの端末を確認する素振りをしてみせる。そうして、あたかもたった今そこへ認証キーが送られてきたかのように、躊躇なくテンキーを叩いた。
ピピッ、と短い電子音が鳴り、パネルの表示が赤から緑へと切り替わる。重厚な扉が、音もなくスライドした。
「……失礼しました、どうぞ」
態度を軟化させた黒服たちに内心安堵のため息をつきながら軽く肩をすくめて見せて、ラスは悠然と扉の向こう――『ブルーラウンジ』へと足を踏み入れた。
*
ラウンジの中は、外の喧騒とは完全に切り離された別世界だった。
その名の通り、深海を思わせるブルーの間接照明が空間を妖しく照らし出し、高級な調度品が整然と配置されている。フロアの中央では、数人のトレード・ハブの重役や富裕層のバイヤーたちを相手に、セルジオが商談を行っていた。
「――ご覧の通り、不純物は極限まで排除されています。裏通りに出回っていた粗悪品のような、致死性の副作用は一切ありません」
セルジオが自信たっぷりに語り、ホログラムのモニターに薬の美しい分子構造を提示している。
「圧倒的な多幸感と、五感の鋭敏化。持続時間は長く、依存性もコントロール可能な範囲に調整されている。まさに、選ばれた皆様だけが味わうに相応しい、究極の至福……『アジュール』です」
バイヤーたちが感嘆の声を漏らし、金の匂いがフロアに充満していく。
ラスは室内の薄暗さに紛れ、さりげなく商談客の輪の外縁に位置取った。ジャケットのラペルに仕込まれたLCPSの小型カメラが、セルジオの顔、バイヤーたちの姿、そして提示されているデータを克明に記録していく。
だが、ラスの視線はフロアのさらに奥へと吸い寄せられていた。
一段高くなった特等席のソファ。そこに、エリック・スターリングが深く腰掛けていた。
彼はセルジオのプレゼンなどそっちのけで、隣に座るフランに完全に夢中になっていた。スターリングの指先が、フランの栗色の髪を撫で、頬をなぞり、首元のチョーカーへと這う。まるで手に入れたばかりの極上の愛玩動物を愛でるような、ねっとりとした執着を隠そうともしない手つき。
フランは抵抗する素振りも見せず、伏し目がちにスターリングにされるがままになっている。
時折、セルジオが商談の合間に特等席のほうを横目で睨みつけている。大事な取引の場に色事を持ち込むスターリングに対し、マフィアの幹部として忌々しさを隠しきれないのだろう。
その時、スターリングがふと立ち上がった。
「――データの説明は十分だろう、セルジオ」
スターリングは余裕の笑みを浮かべて商談の輪に歩み寄ると、フランの手を引いて自分のもとへ引き寄せた。
「この『アジュール』の真の価値は、無機質な数字などではなく、それが生身の肉体にもたらす圧倒的な効果にあります。それを、皆さんに視覚的にお見せしよう」
スターリングがフランの肩を抱き寄せると、バイヤーたちの視線が一斉にフランへと集まった。ラウンジのブルーに照らされた美貌はいつにも増して人間離れした美しさを湛えていて、何人かが息を呑むのがわかる。
「彼は、かつてダスク・ストリップで『エルファン』と呼ばれた男です。皆様の中には、その名を聞いたことがおありの方もいるでしょう」
エルファン。その名が出た瞬間、客の中から下世話な驚きと感嘆のどよめきが漏れた。
「エルファン、あの噂の……」
「なるほど、これほどの美貌なら頷ける」
好奇と欲望の混じった視線がフランを舐め回す。だがフランの表情は変わらない。彼はただ、静かな微笑みを浮かべてそこに立っている。
「これより、彼を使ってアジュールのデモンストレーションを行います。極上の快楽が、彼ほどの極上の素材をどう変えるのか……ご覧いただきましょう」
スターリングが指を鳴らすと、セルジオが操作するホログラムモニターが切り替わり、フランのリアルタイムのバイタルデータ――脈拍、体温、脳波の推移を示すグラフが空中に展開された。
そしてスターリングは、内ポケットからあの鮮やかなコバルトブルーの液体が充填された流線型のインジェクターを取り出す。
(――!)
ラスの身体が反射的に動こうとした。あんなものをフランに打たせるわけにはいかない。
だが、ラスが踏み出そうとした瞬間。
伏せられていたフランの瞼がすっと上がり、蜂蜜色の瞳が、客に紛れたラスを真っ直ぐに射抜いた。
その瞳が、微かに、しかし確固たる意志を持って『待て』と告げていた。
ラスは床に縫い付けられたように足を止める。
スターリングはインジェクターの先端を、フランの白いうなじ――チョーカーのすぐ上の肌へと滑らせた。
カチリ、と静かな電子音が鳴る。
直後、空中に展開されたモニターの数値が劇的に変化し始めた。脈拍や体温などの基本的なバイタルサインは極めて正常で安全な数値を保っている。だが一方で、ドーパミンやエンドルフィンの分泌量、性的興奮と多幸感を示す数値だけが、異常な曲線を描いて跳ね上がっていく。
「ご覧の通り、身体への負担は皆無。しかし脳は、これまでにない至福を味わっているのです」
スターリングの解説に合わせるように、フランの様子に変化が現れた。
その反応は、決して過剰なものではなかった。崩れ落ちることも、派手に喘ぎ声を上げることもない。
ただ、ふっと小さく息を呑み、微かに長い睫毛を震わせただけだ。
だが、青白い光に照らされて透き通るように白く見えていた頬にほんのりと熱を持った朱が差し、潤んだ瞳が熱っぽい瞬きを繰り返す。指先が微かに震え、こらえきれない快感の波を必死に押し留めようとするように、きゅっと薄い唇を噛む。
そのひどく抑圧された、だが内側から滲み出るような微細でリアルな反応こそが、生々しいまでの色気を放ち、客たちの目を否応なく惹きつけていた。
「これはあくまでデモンストレーション。投与量は極少量です。彼の商品価値は、ここで全てお見せするにはいささか勿体ないのでね」
「少量でこの数値か。なるほど……」
「それにしても、なんと妖艶な……」
バイヤーたちは完全に魅了され、唾を飲み込んだ。誰もがその光景に釘付けになり、アジュールの効果を確信している。
だが、ラスだけは気づいていた。
スターリングの手に握られたインジェクターの中身――コバルトブルーの液体は、一滴も減っていない。
(……フェイクか)
スターリングの歪んだ独占欲。あの傲慢な男が、手に入れたばかりの自分だけの「所有物 」が薬で乱れる初めての姿を、これほど大勢の他人の前で見せびらかすはずがないのだ。
モニターに表示されている異常な興奮の数値はあらかじめ作られたフェイクデータであり、客に見せているのは、フランの演技と、スターリングの作り出した幻影に過ぎない。
「素晴らしい。それもあのエルファンを実験台に使うとは……! 贅沢なデモンストレーションだ」
「アジュール、ぜひとも私に取引を――」
熱狂するバイヤーたち。その声に、スターリングは満足げに頷いた。
「さて。見事な結果をご覧いただいたところで、残りの商談の詰めはセルジオに任せよう」
スターリングは、微かに肩で息をする演技を続けるフランの腰を抱き寄せる。
「私は、彼とゆっくり〝実食〟を楽しむとしよう。……来なさい」
その露骨な宣言に、フロアに集まった富裕層の客たちからは、下卑た笑いと羨望の入り混じったどよめきが湧き起こった。
「いやはや、代表には敵わない」
「極上と噂のエルファンを独り占めとは、羨ましいことだ」
「あとで是非効果のほどを聞かせてくださいよ」
目の前にいる生身の人間を、ただの最高級の嗜好品のように品評し、消費しようとする醜悪な歓声。
欲望にまみれたその見送りの声に背中を押されるようにして、スターリングはセルジオに後を任せると、フランを連れてラウンジのさらに奥――専用のプライベートルームへと歩き出した。
扉が開き、二人の姿が吸い込まれていく。扉が重い音を立てて閉ざされる直前、フランが肩越しに視線を投げた気がした。
商談の決定的な証拠は、今この瞬間もカメラに記録され続けている。セルジオとバイヤーたちの取引を押さえるのは、もう時間の問題だ。
だが、ラスの目的はそれだけではない。
すぐにでも二人の消えた扉へ後を追いたい気持ちを堪え、ラスは一度大きく息をついて、インカム越しに声をかける。
「……こちらラス。証拠は押さえた。ターゲットは奥の部屋へ移動」
『了解だ。こちらでも証拠映像と音声を確認した。よくやったラス』
『既にセントラルにも正式要請して周囲は固めてある。すぐにでも本隊を突入させるよ』
マキとジェイクの応答にラスが頷いたその時、バイヤーと商談を進めていたセルジオの元へ部下が駆け寄り、耳元で何ごとかを囁いた。
途端に、セルジオの顔から余裕の笑みが消え失せた。その鋭い目つきが、フロアの入り口を忌々しげに睨みつける。どうやら向こうにも勘づかれたらしい。
「……LCPSの犬どもが嗅ぎつけただと? チッ、どこから漏れた」
「スターリング氏はどうします」
「放っておけ。こんな時に色事にうつつを抜かすようなスポンサーなぞもうおしまいだ」
低く舌打ちをしたセルジオは、戸惑うバイヤーたちを冷酷に切り捨て、手下たちに向かって鋭く指示を飛ばした。
「商談は中止だ! データのログをすべて消去しろ。俺たちは裏口から抜けるぞ!」
部下の一人が慌ててホログラムのコンソールを操作しようと手を伸ばす。
(やらせるかよ……!)
ラスはざわつく商談客の陰から躊躇なく飛び出した。一気に距離を詰め、コンソールに触れようとした部下の腕を容赦なく蹴り上げる。
「ぐあッ!」
鈍い音とともに男が吹き飛び、床を転がった。
「悪いが、お開きにはまだ早いぜ。そのデータも消されちゃ困る」
銃を抜き放ったラスは、セルジオの眉間へ真っ直ぐに狙いを定める。
突然の闖入者にラウンジは恐慌状態に陥り、取引客たちが悲鳴を上げて逃げ惑う。セルジオの周囲にいた三人の護衛が、一斉にジャケットの下から銃を抜き、ラスへと殺意の矛先を向けた。
「ネズミが紛れてたか……たかが刑事一匹、殺せ!」
セルジオが冷酷に命じ、護衛たちの指が引き金にかかる。多勢に無勢、交戦は避けられないとラスが奥歯を噛み締めた、その直後だった。
「――動くな。そのデータにも触らせない」
セルジオの背後から響いたのは、感情の欠落した絶対零度の声だった。
セルジオの動きがピタリと止まる。その後頭部には、漆黒の銃口が冷たく押し当てられていた。銃を握っていたのは、他でもない彼の護衛であるはずの黒髪の男――ナナミだった。
「……なるほどな。本物のネズミはてめえだったか、ナナミ」
セルジオの顔に狼狽の色は浮かばなかった。彼はゆっくりと両手を挙げると、喉の奥でくく、と低く自嘲するような笑い声を漏らす。
ナナミは微動だにせず、氷のような視線でセルジオを射抜いたまま淡々と告げた。
「セルジオ、あんたの独断専行は目に余る。今回の件はボスに対する明らかな背任行為だ。身柄を預からせてもらうぞ」
「親ボス派の子飼いは全て念入りにチェックしたと思っていたが……あ の 女 の方が一枚上手だったか。こんな優秀な猟犬を、俺の懐深くに潜り込ませていたとはな」
盤面で完全に詰まされた己の敗北を正確に悟りながらも、その不敵な面構えは少しも崩れない。マフィアの幹部としての底知れぬ凄みを見せつけるセルジオと、微動だにしないナナミ。裏社会の者同士の冷酷な駆け引きを目の当たりにしながら、ラスは警戒を緩めずに銃を構え続けた。
その緊迫した空気を破るように、ラウンジの重厚なエントランスの扉が爆音とともに蹴り開けられた。
「LCPSだ! 全員武器を捨てて床に伏せなさい!」
イジーの鋭い号令とともに、武装した隊員たちが雪崩を打って突入してくる。逃げ惑っていた客たちも、銃を構えていたセルジオの部下たちも、圧倒的な数の制圧力の前に次々と取り押さえられていった。
「いいタイミングだ、助かったイジー」
「当然でしょ! ここの制圧と証拠の確保は私がやるわ。あんたはスターリングを!」
ドレスのままセルジオの部下を組み伏せながら叫ぶイジーの言葉に、ラスは力強く頷いた。セルジオらの身柄や薬のデータは、彼女と応援部隊に任せておけば問題ない。
ラスは銃を握り直し、ラウンジのさらに奥――スターリングとフランが消えたプライベートルームの扉へと向かって、全速力で駆け出した。
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