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25#厄介な日常―エピローグ―
摩天楼の一夜から一週間。ルミナス・ネックスの表層を覆うニュースネットワークは、連日同じ話題で持ちきりだった。
ダスク・ストリップで蔓延していた新種ドラッグ『ネオンブライト・アジュール』の摘発。それに伴うマフィア・レヴァリスの大規模なガサ入れと、裏取引に関与していた富裕層、大物バイヤーたちの芋づる式の逮捕。
そして何より世間の耳目を集めたのは、絶対的な権力を誇っていた大企業トップ、エリック・スターリングの失脚だった。彼がパトカーに押し込まれる無様な姿は、タワーの巨大なホログラム・モニターで何度も繰り返し再生されている。
当然、現場に突入したLCPSの部隊や潜入捜査を行っていたラスたちサウスウエスト・エッジ隊の面々がそれでお役御免となるわけもなく、あの夜以後、彼らには殺人的な量の事後処理と書類仕事がのしかかっていた。
「……死ぬかと思った」
一週間ぶりにようやく午後の休みをもぎ取ったラスは、バイクのエンジンを切り、重いヘルメットを脱いで深く息を吐き出した。
見慣れた薄暗い路地裏。ダスク・ストリップの片隅にある小さな診療所は、襲撃された夜の無惨な姿から、どうにか本来の形を取り戻しつつあった。
ヒビの入っていた自動ドアのスモークガラスは新しいものに替えられ、ドア横のモニターに貼られていた『休診中』の貼り紙もとうに剥がされている。
自動ドアを開けて中に入ろうとした瞬間。ラスの足元をすり抜けて、鋼の装甲に覆われた四つ足の影が、弾丸のような速度で診療所の中へと飛び込んでいった。
「あ、こら、待てバカ犬!」
『ガウッ! ガウッ!』
「――わっ!?」
カウンターの奥から、珍しく素っ頓狂な声が上がる。
ラスが中に入ると、白衣を羽織ったフランが、勢いよく飛びついてきたサイバードッグ――クロウの重い前足を受け、よろめいているところだった。
「……っクロウ! もう直ったの?」
電子的な吠え声を上げながら、クロウはセンサーの目をチカチカと青く点滅させ、千切れんばかりに尻尾を振ってフランに鼻先を擦り付けている。
あの襲撃の夜、身を呈してフランを庇い重傷を負っていたクロウは、その惨状が嘘のように元気を取り戻していた。破損していた外装パーツは真新しい銀色のものに交換され、モーター音も力強い。
「ギア・ストリートのラボから、さっき退院させてきたとこだ。すっかり元気になったから、あんたにも顔を見せてやろうと思ってね」
呆れながら言うラスに、フランは少しだけ目を丸くしたあと、いつものおっとりとした、けれど嬉しそうな微笑みを浮かべてクロウの硬い頭を撫でた。
「そう。……おかえり、クロウ。随分とピカピカにしてもらったね」
「あんたを守ってぶっ壊れたんだ。少しは感謝してやれ」
恨み言交じりの軽口をこぼしながら、ラスは新調された――とはいえ中古の安物らしい――待合室のソファにどさりと腰を下ろした。さすがに、あの夜ここで散々抱き合ったソファは、他の破壊された家具とともに跡形もなくなっている。
「おかげでこっちは過労死一歩手前だしな……」
「それは僕のせいじゃないでしょ。僕は善良な市民として、警察の捜査に全面的に協力しただけだもん」
あっけらかんと言ってのけるフランは、悪びれる様子など微塵もない。自らマフィアの手に落ちて潜入捜査も形無しの愛人ごっこを演じてみせるのは、「善良な市民の捜査協力」の域など当に逸脱している――などと、この男に言ったところで徒労に終わるだけなのでラスは黙っていた。
クロウの熱烈な挨拶をひとしきり受け止めたフランは、カウンターの奥からいつものように紙カップに入った温かいコーヒーを手に、無造作に差し出してくる。
フランの証言とナナミが押さえていた証拠データのおかげで、彼自身は〝マフィアに脅され、無理やりスターリングの愛人として売られた哀れな被害者〟として、早々に警察の追及を逃れていた。診療所が荒らされて惨状となっていたことも――襲撃時には警察沙汰は面倒、とさえ言っていたフランだが、結果的にそれも利用したらしい――彼がマフィアに拉致されていた、という決め手になったようだった。
「レヴァリスの内部も、パルミラたち親ボス派が完全に実権を握ったらしい」
差し出された、ミルクと砂糖がたっぷり入った甘いコーヒー。それを受け取りながら、ラスは簡潔にその後の経過を伝える。
「そう。それは何より」
フランは興味なさそうに肩をすくめた。あれほどの執着を買い、あまつさえ取引の〝商品〟として扱われ、この診療所を荒らした元凶たちが破滅したというのに、彼の反応はどこまでも淡白だ。
「……なあ、ひとつ聞いていいか」
コーヒーカップを両手で包みながら、ラスはぼそりと言った。
「あんた、あの時あいつに本当に薬を打たれてたらどうするつもりだったんだ」
フランがあらゆるリスクを承知でああいう行動に出たことは理解している。だが、命の危険や身体的な暴力を差し引いても――おそらく彼がもっとも嫌うであろう自我と自由を失わされかねない危険な薬を投与される可能性が十分にあったのだ。ずっと頭の端にあったものが、日常の空気の中に戻って、ようやくそのおぞましさが現実味を帯びてくる。
「……そうだねえ」
フランは少し間を置いてから、くすりと笑った。
「きみを信用してた、と言ったら信じてくれる?」
そう言って上目遣いに見つめてくる瞳には、隠そうともしない冗談めいた光が宿っている。
「……だとしても、あんたがそこに全ベットするタマかよ」
「あれ、信用ない」
「信用してんだよ」
たとえ最悪の事態に陥る前にラスたちがあの場へ踏み込むことを本気で信じていたとしても。
きっとその信用に嘘はない。だがそれに身を預けて、何もせずただ状況に身を委ねることもありえない——それが当たり前に両立するのがフラン・エルウッドという人間だということを、今のラスは知っている。
素っ気なく言い切ったラスに、フランは肩をすくめてみせた。
「……ま、せっかくの贈り物を無駄にするのも忍びないし、ご招待の対策くらいはね。それにほら、あれで本当にそんなに気持ち良くなれるなら、それはそれでもっと楽しめたかもしれないし?」
「あのなあ」
「だからちゃんと対策はしてたってば。企業秘密」
冗談めかして片目を閉じてみせるフランに、ラスは追及を諦めて短く息をついた。どうせ聞いても答えないのはわかっている。
「なんにせよ、診療所も直ったし、番犬も帰ってきた。これでようやく、元の生活に戻れる」
フランがコーヒーを啜り、満足げに待合室を見渡した。
ひとつの事件が片付いても、相変わらず治安の悪いこのダスク・ストリップの片隅で、ワケアリの患者を相手にしながらきままにその日を生きる奔放なドクター。
摩天楼の上での危険で華やかなショーも、荒れ果てた診療所での獣のような情事も――きっと、彼にとってはすべてがこの猥雑な日常へ帰ってくるための通過点に過ぎない。
「……もう、あんな面倒ごとは御免だぞ」
コーヒーを飲み干しながら言うと、フランはやはり悪びれる様子もなく、軽く首をかしげる。
「あれ、助けてくれないの? せっかく専属のボディガードとして雇ってあげようと思ってたのに」
そう言って微笑むフランに、ラスは呆れながらその足元で丸くなっているクロウを小突いた。
「誰がやるか。こちとら仕事で手一杯だ、あんたのお遊びの面倒まで見てたら命がいくつあっても足んねえよ」
「そう。じゃあ、お仕事がクビになったらいつでも言って。……支払い方法は……相談に乗ってあげる」
フランは艶めいた蜂蜜色の瞳を細め、あの夜の熱を思い起こさせるような、挑発的な笑みを浮かべた。
どこまでも魅惑的で危険で厄介な――甘い毒。
その毒の味を、ラスはもう知ってしまった。
油断するとその蜜にあっさり絡め取られてしまいそうになるのを誤魔化すように鼻で笑うと、ソファから立ち上がる。
「……考えといてやるよ。――じゃあな、行くぞクロウ」
『ワンッ!』
クロウが嬉しそうに金属音を鳴らし、自動ドアへ向かって駆け出す。
外に出ると、ダスク・ストリップにはすでに毒々しいネオンが灯り始めていた。
相変わらず猥雑で、暴力と欲望が渦巻く、どうしようもない吹き溜まりの街。
だが、今のラスにとって、この厄介な日常は決して悪くないものに思えていた。
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