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silica 04. 赤

 俺には二人、兄がいた。優しい兄だった。  俺の母は死んでしまったけれど、兄たちがいるから寂しくなかった。父は厳しかったけれど、兄たちの母親は親切で、とても仲の良い家族だった。  俺が、Veilとして生まれてこなければ、きっといまでも。 ◇ 「あ、やっと目が覚めたね」  さらさらとした砂みたいな夢から醒めたら、あの声がした。なつかしくて苦しい、兄の声。  あのころの記憶は身体が覚えている。この声を聞くと、俺の身体は、もう俺のものじゃなくなる。 「慧。僕はずっと待っていたんだよ。君が学園にやってくるのを。ずっと、ずっと」  俺は、昔みたいに兄の膝にすわって声を聞いていた。しかし、ぼんやりとした頭では兄が何を話しているのか、うまく理解することができなかった。   「それなのに、君は本当に無防備だね。あやうく奪われるところだった」  兄が吐き捨てるように言う。  怒っているのだろうか。ここは、いまは、俺は、あのころに帰ってきてしまったのだろうか。  兄の手が頬に触れた。 「こまるなぁ。君は、僕だけの『玩具』なのに」  その手が唇をなぞる。  虫が這うみたいに気持ち悪い。けれど俺はやっぱり動けない。全身の細胞が死んだみたいに固まって、こうなってしまうと、もう、なにもできない。   「おかえり、慧。これからはずっと一緒だ」    兄は、愛おしい「物」が壊れていないか、そっとたしかめるように肌を撫でた。  なつかしくて、優しいと信じていた、兄の顔がゆっくりと近づいてくる。狂わなかったとして、それをまなざしにさがしていた幼い俺が、蘇って凍えた。    唇が重なる寸前、さらりと髪が触れたときに、扉をノックする音が聞こえた。  兄が苛立ったように顔を上げる。扉の外から兄を呼ぶ声がして、兄は息をついた。 「まっていて」  そう言って、兄は俺の頭を撫でた。    扉はパタンとしめられた。薄暗い部屋のなかにひとり、いまだに固まったままの身体をどうにもできず、ただ足枷の鎖がベッドに繋がれているのを、じっと見ていた。 ◇  兄たちの『玩具』になったのは十歳のとき。  俺は、おかしな病にかかったらしい。突然、発作みたいに体が疼いて、つらくて、兄たちが何度も助けてくれた。けれど、そのせいで兄たちはおかしくなった。    その病が、食事に混ぜられた薬のせいだと知っても、本当は兄の仕業だと知っても、食事をやめたら兄が怒るから食べた。食べてしまったらもう、何も考えられなくなった。  俺は、兄が怒るのが嫌いだった。悲しそうなのも、悔しそうなのも、つまらなそうなのも。    昔みたいに優しい兄が好きで、だから我慢していた。そうしたら、いつか、いつか優しい兄にもどってくれると、そう信じていた、  けれど、それはもうただの思い出で、本当は優しい兄など、どこにもいない。消えたのか生まれたのか。俺は過去にすがっていただけの、甘えた奴だった。  そして、十一歳の誕生日。はじめてヒートになったときのこと。  あのひ、俺のせいで、兄は狂った。   「……」  この部屋は、あのときの部屋によく似ている。  声も息も上手く出てこない。冷たいところにいるみたいだ。だから俺は心を殺す。  心を殺したら何も感じない。寂しくもないし痛くもないし苦しくもないし、ただ、ひびわれていく音がする。  いつか割れる。 「ごめんね。厄介な客が紛れこんでいたみたい。でも、もう大丈夫だから」    兄がもどってきた。扉は閉められる。  兄は「そういえば」と言って、俺のシャツのボタンをひとつひとつ外した。そしてそっと右腕の袖を脱がせると、手首のあたりをもちあげて、うでの内側を、悔しそうな顔で見つめた。 「傷跡、けっこう残っているんだね」  右腕の肘のあたりから手首まで、歪に裂かれた傷のあと。その黒ずんだ皮膚に兄が触れて、俺はとっさに弾いた。そして怖くなる。 「また、慧は逃げてしまうんだ」  兄が悲しそうに言う。俺は自分の右腕を抱きしめるみたいにして、かすれた声で「ごめんなさい」と言った。どうして謝らなくてはいけないのか、もう謝る必要なんてないのに。  俺は、逃げたはずなのに。   「いいよ」  兄が言う。そして優しく頭を撫でる。  よかった。怒っていない。  そう安心して、まだ幼い俺が生きていたことを知る。  十一歳の誕生日。  薄暗い部屋のほのかな明かりに照らされた兄の顔に、あのひの真赤な景色が重なって、恐ろしくて、まばたきをしたら消えた。 ◇  どうやら、この部屋は空を飛んでいるらしい。  兄は俺を抱き上げて窓の外を見せてくれた。夜明けの近い空と揺らぐ水面が、ただの景色になって流れていく。 「ちょっと豪華な飛行船なんだよ。もう逃げられないからね」  兄はそう言った。逃げようなんて思っていない。  どうせ逃げられない。 「でもそろそろ、彼がやってくるかな」  兄が目を細めて笑う。この顔は嫌いだ。兄がこの顔をするとき、大抵よくないことがおこるから。  彼、とは誰のことだろう。そう思って首を傾げたら、兄は優しく俺の頭を撫でて、「君を運命とか言ってるやつ」と言った。  途端に、俺はどうしてここにいるのだろうと思った。 「…………世那」  からからに乾いた喉から漏れるみたいに、あいつの名前が転がり落ちた。兄はそれを目ざとく見つけて、俺の顎をもちあげた。 「駄目だよ」  兄が冷たい声で言う。兄の冷たい声は、これから恐ろしいことがあると告げられているような気がして、頭が締め付けられるような感覚になる。  けれど、締め付けられた頭に、あいつの顔がふわりと浮かぶたび、視界が晴れていくような、悪い夢から醒めていくような変な感じがした。この感覚は、わるくない。 「でも、そうか。慧は彼のことを気に入っているんだね」  兄が言う。俺はとっさに目を逸らす。それが悪かった。   「それじゃあ、ちゃんとお別れをしなくちゃね」    兄はベッドに腰をおろして、ベットサイドのテーブルの引き出しから、見覚えのある小瓶をとりだした。  俺は短く息を吸って、震えの止まらない身体をそのままに「いやだ」と呟いた。 「僕だっていやだよ。店に出す前に壊れたら困るし。でもね、君のためなんだよ」  小瓶の中身がグラスに注がれる音がした。恐ろしい音だ。それがゆっくりと近づいてくるから、顔を背けた。 「彼の本性を知ったら、きっと分かるよ。慧には、僕しかいないんだってこと」  そっと顔は戻されてしまった。そして透明な液体が傾いてくる。 「大丈夫。もしものときは、また——」  兄が目を細めて、わずかに頬をゆるませた。  真赤に染まる、もうひとりの兄と、そのかたわらに佇む兄の笑顔を、俺は鮮明に思い出した。 「僕がやっつけてあげるから」  いやだ。そう思ったのに、あっけなく液体が流れてくる。飲み込みたくないのに液体は喉を通り、そして、ずっと忘れていた感覚が腹のあたりから全身に広がっていく。  じんわりと切ない熱に支配されたら、もう何も分からない。意識が途切れる瀬戸際に唇が触れ合う感覚と、扉が開く音がした。    

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