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silica 05. 朝

 それは数年前にささやかれるようになった噂話。  飛行船の娼館があるらしい。そこには質の良いVeilがたくさんいて、どのような行為も黙認される。そんな胸糞悪い噂話だ。こんなものが「噂話」程度で済んでいるのは、客が貴族だからという単純な話。  朝宮透が娼館のオーナーだということは分かっていたのに、その証拠は煙のように消えていく。  そのときがくるまで耐えろ。父にそう言われたとしても、俺は動くべきだったのだ。まだ学生だから、まだ権利がないから.、そんなことを守る必要なんて悪意の前には無意味なのに。 「けい……」  離陸と共に飛び乗った飛行船がゆったり空に流れていくあいだに、俺は匂いを探して、警備をしている黒服を振り切り、通路のずっと奥まで走った。  しかし、いたるところからVeilの匂いがして鼻がおかしくなりそうだった。けいの匂いが近づいていくにつれて気持ち悪さは和らいでいくのだが、どうにも周囲の様子がおかしいと気がつく。 「……ひとがいない」  黒服の一人もいない通路はしんと静かだった。他のフロアには敷かれていない絨毯を踏む。  ひときわ大きい最奥の扉が見えてきたとき、けいの匂いが強く、鋭くなった。 「けい……!」  嫌な予感がする。そして扉を開けてすぐに、予感が的中したことを知る。  暗い部屋に灯された小さな明かりが、重なる二人の長い影を描いていた。   「ほら慧。彼が来たよ、ってもう聞こえていないね」  朝宮透は、けいから顔を離して、その頭をゆるく撫でていた。そのたびに、けいはもどかしそうに呻く。  朝宮透がうっとりとけいを見下ろし、そして立ち上がると、その薄汚れた手でけいの手を取り、俺を招いた。 「あなたもGlassなら、抗えないでしょう?」  朝宮透が言う。だからなんだというのか。この男には、何も見えていないのだろうか。  俺は部屋に足を踏み入れた。けいの匂いで満たされているけれど、大好きなはずの匂いが、何故だか苦しい。それはきっと、けいが苦しんでいるから。  けいに近づいていく俺を、朝宮透が嘲笑う。 「ほら、慧。彼も同じでしょう?」  そう言って、虚ろなけいの瞳をこちらに向けさせる。その潤んだ瞳はなにも映していない。  不思議なことに、朝宮透を前にしても、俺は憤りを覚えなかった。そんなものは通り過ぎて、いまはただ、けいの悲しみや苦しみが混ざったような匂いが、俺の全身を冷たくした。  ベッドサイドに立つ。朝宮透が一歩うしろにさがった。ようやくわかった。この男の執着は、けいを愛しているが故ではない。独占したいというわりに、矛盾の多い行動。  きっと、お気に入りを手放したくないし見せびらかしたいし認めてほしいという酷く幼稚なものと、そのうえでけいに許され、愛されたいという気持ちの悪いもの。  けいが荒く息をする。熱に浮かされた額には髪が張り付いて、口からは涎が、瞳からは、とめどなく涙が溢れていた。  俺はそっと手をのばす。そして、けいの足首に黒く光る鎖を握り潰した。  金属が砕ける鈍い音に、けいは体を揺らして、そしてゆっくりと俺を見た。 「は? なにしてるんだよ」  朝宮透が俺の肩を握る。爪が食いこんで痛いけれど、そんなことは気にならない。  俺を映すけいの瞳と、俺は目を合わせるように膝をついた。 「けい、ごめん」 「…………おま、え、なんで」  名家に生まれたとか力の強いGlassだとか、そんなもの、何の役にも立たないではないか。  朝宮透が俺の胸ぐらを掴んでくる。けれど、この醜い男に、もはやなんの感情もない。  俺は、なにもできない俺自身が、憎くて仕方なかった。 「やっぱり、邪魔だな」  朝宮透は、けいが俺を見ていることが気に食わないみたいだ。胸ぐらを掴む手が強くなる。まるで癇癪をおこした子どもみたいだ。 「…………おい」  ふいに小さな声がした。朝宮透の顔が色をなくし、そして手から力が抜けた。  けいが、震える手をのばして、朝宮透から俺を庇うように、俺の胸ぐらをつかむ朝宮透のうでをつかまえていた。 「慧? なに、しているの?」 「…………こいつは、だめ、だ」  息を吐くのも苦しそうに、けいが言葉を絞り出す。その様子に目を奪われてしまったのは俺だけではない。朝宮透も、けいを見つめて呆然としていた。 「……なんでも、するから。だから、せいなに、なにも、しないで。……おねがい、兄さん」  肩で息をしながら精一杯に、けいはそう言って、力が抜けてしまったのか、朝宮透の腕から手を離す。  ゆらりと傾いたけいの体を抱きとめて、苦しいほどの愛おしさに、また悔しさが滲んだ。  そんなことを言わせたいわけではないのに。 「……はは。はははっ!」  朝宮透が狂ったように笑いだす。   「ようやく兄さんと呼んでくれたのに、そんなくだらないことを」  そう言って、朝宮透は力無く笑った。そして息を吐き出して、なんの予備動作もなくナイフを投げるのが見えたから、俺はそれを弾いた。  しかし俺がけいから離れた一瞬に、朝宮透は歪んだ笑みを浮かべて、けいの首をつかまえた。  そして、そのまま窓を大きく開け放つ。けいの体が、窓の外に投げ出されている。  朝宮透が俺の足元にナイフを投げつけた。 「三ツ木世那。ここで死ねよ。できないなら」  慧を落とす。そう言って、朝宮透はなんの感情もないような顔をした。 「……やめろ」  けいが震える声で言う。   「また、おれのせいで、…………いやだ」  けいがぎゅっと目をつむる。  この男は、いったいどれほどのものを、けいから奪ったら気が済むのだろうか。  俺が自ら命を絶っても命乞いをしても、朝宮透がけいを落とすはずがない。朝宮透は、そうまでしてけいの心を折り、絶望させて、そして自分のものにしようとしている。  そんなことが許されるはずないだろう。  けいは、たったひとりのけいだ。  生まれたときから、自由なのだ。 「けい」  俺が名前を呼んだら、けいの肩が揺れた。 「言ったじゃん。なんでも、たよりなって」  けいがわずかに目を開ける。そして、虚ろだった瞳にきらめきが、朝焼けの光となって弾かれた。  けいが、ゆっくりと息を吸う。 「せいな、たすけろ」  けいは少しだけ笑って、そう言った。    俺は、けいの首をつかむ朝宮透のうでを捻り、そして窓枠を飛び越えて、落ちていくけいをつかまえた。  しっかりと抱きしめ、その体温に安心する。   「絶対に助ける」    そう言ったら、けいは「うん」と言って、俺の首に腕を回してしがみつくみたいにした。  そして、ふいに笑った。 「……あさだ。きれい」  そうささやく声が、風の音に混ざって聞こえた。    明けたばかりの夜が世界を照らしていた。きらきらと弾けるような光のなか、俺たちは真っ逆さまに落ちていく。      

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