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ash 04. 塗り変わる
やさしい香りが鼻先に触れて目を覚ましたとき、俺はちょっと困惑した。
もうすこしで触れそうなくらいのところに、けいが眠っていた。ここはどこだろうと思いながら、寝顔はずいぶんと幼いのだなとながめる。けいはいつも警戒したような表情をしているから新鮮だった。
長いまつげが、ゆったりともちあがって、その瞳が俺をとらえたとき、けいが纏う香りに、ふわりと甘いものが混ざったような気がした。
「……おはよ」
けいが言う。そしてすこしだけ笑ったら、甘い香りがぱちぱちと弾けた。その匂いに触れたくなったけれど、はっとしてやめる。触れたら崩れてしまうのではないかと思った。
しかし、けいは俺の手をひろいあげた。そして両手で包んで「あったかい」とこぼした。
「……おまえ、寝すぎ」
俺の手に視線を落としたまま、けいは言う。けれどその香りがあふれるくらいの喜びをおしえてくれる。
「…………おい、なに笑ってんだよ」
けいが睨んでくる。つないだままの手から、けいのぬくもりがじんわりと伝わる。
「けい、好き」
「……」
「大好きだよ」
「…………あっそ」
そっぽをむいてしまったけど、手は握ったままだし頬は赤くて、それに香りがずっと甘くなるから、笑みがあふれてしまう。
俺は体を起こして、そっとけいの顔をのぞきこんだ。けいと目が合う。纏う香りのどこにも悲しいものはなくて、あるものはただ、俺に向けられた想いだけ。
「けい、俺のこと好きになってくれた?」
きっと睨まれると思いながら聞いてみる。けれど、けいは拗ねたような顔をして、
「だったらなんだよ」
と言った。こればかりは想像していなかった。ついうろたえてしまう。
こみあげてくる愛おしさと透明で繊細なものが、すべてまるくなった、しあわせだった。
◇
体の調子はすっかり良いのだが、どうやら足の骨が折れているらしい。不思議なことに痛みはなくて、けれど歩きにくいから不便だった。
「ほらちゃんと歩きなさい!」
紗良にぃがそう言って肩を叩く。優芽が「そんな無茶な」と苦笑しながら支えてくれて、ようやく歩き出す。
「痛むか?」
けいが見上げてくる。痛くないと答えたらホッとしたような顔をした。
けいは、なんだか変わった。まえよりも表情が豊かになったし、ささいなことに笑みを見せるようになった。それが俺は嬉しかった。
「けい、ちょっといってくるね」
扉から廊下にでて、部屋に残るけいに言う。けいは、「うん」と言って、俺の袖をすこしつかんではなした。
「あなたたちってなんだか」
それを見て紗良にぃがなぜか笑う。不思議に思っていたら、優芽が「そっくりだね〜」と言った。ますます分からないが首を傾げているうちに、父の書斎に到着していた。
優芽がノックをしたら扉は開いて、使用人が俺たちを通してくれた。そして書斎の机と睨み合う父が顔をあげて、
「世那ー! 怪我は、怪我の具合はどうなんだー!」
と情けない顔をした。相変わらずの父で安心する。
「慧くんを怖がらせるかもって、みんな世那の見舞いに行かなかったんだよ」
優芽がおしえてくれる。それは心配をかけてしまった。父に謝って、ついでに紗良にぃと優芽に感謝を伝えておく。そうしていたら、部屋の外からけたたましい足音が聞こえてきた。
足音はどんどん近づいてきて、俺たちは肩を落とした。
「世那ー!! 目が覚めたと聞いたぞー!」
三番目の兄である瀬津 にぃと、そのうしろから二番目の兄の夕 にぃがあきれたようにやってくる。
瀬津にぃが抱きしめてきて苦しい。瀬津にぃはすごく愛情深い人だ。兄弟のなかで、最も父に似ている。
「佳澄 にぃは?」
優芽が夕にぃに尋ねる。佳澄にぃは一番上の兄だ。
「仕事。けっこういそがしそうだった」
夕にぃが言う。
佳澄にぃは三ツ木家の次期当主。すごく優秀な人だけど、最後に会ったのはいつだったか、思い出せないくらい忙しい人だ。
しかし、一番上の兄と一番下の弟以外、兄弟がみんな集まっている。こんなことはめったにないから、なんとなくもうしわけないような、嬉しいような、複雑な気持ちだった。
「それじゃ、世那に聞きたいことがあるんだけど」
父さんが言う。優芽に支えられてソファに腰をおろしたら、兄弟たちも机を囲み、そして部屋の片隅にいた人がやってきた。
「あれ、理久さん」
「ようやく目が覚めたか」
そう言って、理久さんはなにやら抱えていた書類を机に置いた。そしてそのまま、いくつかの紙を広げた。
「客室に、この名簿にのっている貴族はいたか」
理久さんが言う。紙にはびっしりと名前が記されている。ながめてみるけれど、俺には人の顔を見る余裕などなかった。それを伝えたら、理久さんは「そうか」とだけ言って、空いている席に座った。
「では詳細な話を聞かせてもらう」
俺の見たものを追いながら伝える。瀬津にぃがものすごく不快だという顔をしていた。優芽も似たような表情をしていて、夕にぃと理久さんは無表情、紗良にぃは気分が悪そうだった。
「紗良、無理しなくていいよ」
父が言う。けれど紗良にぃはそれを断った。
「うちの病院にも、たまに、そういった子が運ばれてくるのよ」
Glassから逃げてきた子。紗良にぃがそう付け足したら静かになって、しばらくの沈黙のあと、理久さんが続きを促してきた。
「よく救出した。立派だ」
話を終えたら、理久さんはそれだけを言った。父さんも同じような言葉をくれたけれど、夕にぃは、
「一歩間違えたら世那も、あの子も、ふたりとも死んでいた。あの子を守るつもりならば、それを忘れるな」
と厳しく言った。夕にぃの言う通りだった。
俺は、力が強いだけの無力というものを、痛いほど知った。
「引き続き捜査を進めている。なにか進捗があったら報告する。世那は回復に専念しろ」
理久さんがそう言って聴取は終わった。紙の束を集めていた理久さんは、その手を少し止めて、めずらしく言い悩むように口を開いた。
「世那、朝宮透は逃げた。また接触があるかもしれないから、しばらく学園に来るな。安全が保証されるまでここにいろ」
予想はしていたことだけど、突きつけられたら動揺した。今回はどうにかなったけれど、この先は、また同じような、もっと酷いことがあったら、俺は守りきれるだろうか。
「これは機密事項だが……」
そう言って理久さんは言い渋る。やがて息をついたら、仕方がなさそうに、
「俺たちも動いている」
と教えてくれた。
みんなわずかに驚く。理久さんの言う「俺たち」というのは、一ノ宮家と二条院家の選ばれたひとたちが、自ら出向いて現場で捜査をする特別捜査局、通称『カラット』と呼ばれている組織のこと。
三ツ木家は物事を公平に裁くような家業だから参加できないけれど、カラットから得た情報に何度も助けられたと、父も兄も言っていた。
そんな組織が動いてくれるのならば心強い。
「回復したら、世那はGlassの力の使い方を学べ。指導員の手配くらいはする」
理久さんはそれだけ言って部屋を出ていった。
「あいかわらず、不器用だけどやさしい子だねぇ」
父が言う。きっと俺を安心させようとした理久さんの、その心遣いが嬉しかった。理久さんは、いつだってこんなふうに助けてくれる。
せっかくだからと近況を聞きあったりなどして、すっかり話しこんでしまった。
だから部屋に戻ったころには日が傾いていた。影の落ちる部屋に漂う匂いから不安が伝わってきて、俺は焦る。
しかし、俺を見つけたらすぐに塗りかわった。
けいは不安なんてどこにもない様子で駆け寄って「おかえり」と言ってくれるけれど、俺の袖口を引いた指先は、すこしだけ震えていた。
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