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第一章 モブ山モブ生の挑戦(3)

 あっという間に一週間が過ぎた。  四六時中スマホに手を置いてシャッターチャンスを狙う生活から解放された俺は、クラスの隅でこぢんまりと纏まっている数人のグループに混ざるのにも成功し、言うことなしの学園生活を送っていた。  亘代からはしつこく写真をせっつかれていたが、そもそも亘代にしても香月のステータスに気後れして、ファンでいることを選んでいるくらいなのだ。幾ら同じクラスといえども、高嶺の花である香月の傍に俺のようなモブが存在していていい筈がない。そう言い返すと反論が出来ないようだ。「まあ、それは、そうなんだけど……」などともごもご言いながら部屋に戻ってゆく。  と、いうことで、俺は安心してクラスのその他大勢に埋没していた。  瀧居家は相変わらずだ。  瀧居家とて人間だ。トイレぐらいは行くだろうと思っていたものの、香月がトイレに行く際に一緒に澄ませているのだろうか。香月がひとりになる気配はまるでない。  登校してから下校までぴったりと香月の傍にひっついて離れない瀧居家に、俺は呆れるやら感心するやら。とはいえ、香月のステータスがステータスである。俺の知らない世界で生きている瀧居家にしかわからない苦労があるのだろうな――とも思う。 「モブ山、行くよ」  本田(ほんだ)が俺に声をかけてくる。  本田は俺が混ぜてもらったグループの一員だ。面倒見のいい奴で、移動教室などは率先して他のメンバーに声をかけて回ってくれる。 「うん。ちょっと待って。今行く」  俺は体操着とジャージが入った体操着袋を手に席を立った。次の授業は体育だ。しかも校庭での。 「二年生って教室から更衣室までの距離が一番遠いよね。何でだろ」 「学年棟を体育館寄りに建てればよかったのにね」  体育館にある更衣室で着替えを済ませてから向かうのに、休み時間の十分間はぎりぎりな時間設定だ。急ぎ本田に肩を並べ、先に教室を出ていたグループの他のメンバーと合流して更衣室を目指す。 「忘れ物、ないね。もう教室閉めるよ!」  背後からクラス委員の山際(やまぎわ)が声を上げているのが聞こえてくる。  男子生徒ぐらいは教室で着替えでもいいんじゃないかと俺は思うのだが、そこは良家の子息子女が通う学園である。着替えは更衣室で行うこと――と、校則で定められている。男子であろうと公の場で肌を晒すような真似は罷りならんということらしい。当然ながら、体育のあとに体操着一枚で授業を受けるのも禁止だ。 「何やるのかなあ」 「陸上競技じゃない? この間の続き」 「走るの()なんだよね」 「モブ山はいいじゃん。そこそこ走れるから。俺なんかケツから数えた方が早いから、もうナーバスだよ……」 「そこそこって言っても、クラスの平均値ぐらいだしなあ」  今居るグループのメンバーは全員が高等部からの入学組だ。中学校も全員がバラバラで、誰かひとりに話題が集中するようなことがない。肩の力を抜いて付き合える素晴らしい仲間たち。俺は彼らと他愛ない会話をしながら廊下を行った。  学年棟の階段を下りて、二階の渡り廊下を渡り、教科棟を折れる。ここから廊下を真っ直ぐ行って階段を下りれば、更衣室は直ぐそこだ。  ところが、だ。  教科棟の角を曲がったところでハプニングが起こった。  廊下の先から走ってきた男子生徒の身体が俺の肩にぶつかったのだ。どうやら先を往く本田の斜め後ろにいた俺が見えていなかったようだ。全力で俺に突っ込んできた男子生徒に、貧相な身体の持ち主である俺は盛大によろめいた。 「ちょ、危な……!」  足がもつれ、身体が後ろに引っ張られる。 「モブ山!」  隣に並んでいた大塚が俺に手を伸ばしてくるが、その手は虚しくも宙を掻いた。これは倒れるかも知れない。俺が覚悟した瞬間だった。後ろから伸びてきた手が、バランスを崩して床に向かう俺の身体を寸でのところで抱き留めてくれた。 「あ、ああ、ありがと……!?」 「大丈夫かい」  香月だ。俺は頭上から降ってきた声に顔を上げた。  ふわりと香るシトラスの匂い。視界いっぱいに香月の顔が広がる。  陽の光に透けると茶色がかる髪。その下で、二重を刻んだ瞳が開かれている。筋の通った鼻に薄く伸びた口唇と、全てのパーツが俺とは異なる作りをしている香月は、まるで今絵画の中から姿を現したかのような神々しさに満ちている。 「だ、だ、大丈夫!」  とんでもないことになってしまった。  俺は香月の腕に身体を預けつつ、もつれた足を戻して膝を伸ばした。そして、姿勢を直して香月に向き直った。 「ありがとう、助かったよ。そっちは大丈夫? 俺、重くなかった?」 「大丈夫だよ、そんなに気にしなくとも。私の方が君より大きいしね」  そう言って柔和に微笑(わら)う香月に、俺は思いがけず見蕩れてしまった。  花も綻ぶ笑顔とはこれを言うに違いない。そのぐらいに美しい。  俺は慌てて香月から視線を逸らした。  綺麗に整った香月の顔を視界に収めていると、美意識がおかしくなりそうだ。なまじっかな美しさでは太刀打ちできない天上の美。悪魔だって魅入られそうな香月の美しさに、俺はすっかり怯えてしまった。それだけではない。亘代のこともある。こんなことになったと知ったら、香月先輩ラブな亘代は、絶対に狡いだのなんだの言ってくることだろう。そのついでに写真の件を蒸し返されるかも知れない。それだけならまだしも、再びトモダチ作戦を提案されようものなら――。  嫌だ。  その他大勢のモブである俺は、ひっそりと慎ましくこの学園で目立つことなく生きていきたいのだ。 「えーと、あの、俺にぶつかってきた生徒は……」  とはいえ、あからさまに香月から視線を外すのも躊躇われる。俺は俺にぶつかってきた生徒を探す振りをした。 「そこにいるよ」  香月の言葉に視線を向けると、俺にぶつかってきた生徒は、直ぐそこで瀧居家に掴まって注意をされている真っ最中だった。 「怪我がなかったから良かったものを、万が一があったらどうするつもりだったんだ」 「すみません……」  可哀想に。俺は顔を顰めた。  額に縦筋が刻まれた瀧居家の顔は、同じ高校生とは思えぬほどの凄みを感じさせる。それはそうだ。一歩間違えば、彼は香月に突っ込んでいたのかも知れないのだ。それをどうして彼の忠臣たる瀧居家が見逃したものか。 「すみません、だけではわからんだろう。どうして廊下を走ってたんだ」 「すみません、急いでいたんです」 「急ぐにしても限度があるだろう」 「すみません」  俺はどうすべきか悩んだ。  曲がり角に気を付けなかった俺の不注意もあるにはあるが、向こうは集団で教室移動をしている中に突っ込んできている。過失でいえば相手の方が大きい。とはいえ、厳格で融通の利かない瀧居家に怒られている姿を見ると、男子生徒に対する憐れさが先に立つ。 「あの、もういいよ。俺、無事だったし。彼も急いでるんでしょ?」  俺は恐る恐る口を挟んだ。 「優しいことだな」  ふんと鼻を鳴らした瀧居家が、「行け」と男子生徒を解放する。「あ、ありがと!」それだけ言うと、男子生徒は一目散に学年棟に駆けて行った。  何だかなあ。釈然としない思いが残るも、瀧居家に睨まれて平常心でいられる筈もない。仕方がないことだと割り切った俺は香月と瀧居家に向き直った。  急がねば体育の授業に間に合わない。鬼の体育教師、熊沢の説教は、瀧居家よりもしつこくて長いのだ。 「ふたりともありがとう。じゃ……」  俺は可及的速やかにその場を離れることにした。  離れる瞬間、俺の身体に香月の手が残っていることに気付いたが、それをどうこうする余裕などなかった。俺は気付かない振りをして、足を前に踏み出した。そして、少し離れた場所で様子を窺っていた本田たちの元に向かった。 「ごめん」 「いや、不可抗力だろ、あれは」 「でも、急がないと時間までに校庭に出られないよ」 「その時はその時だよね。後ろに香月たちもいるし」  俺たちは少しだけ足早になりながら教科棟を抜けていった。ちらと背後を振り返る。香月と瀧居家は焦るということを知らないようだ。悠然と歩いている。  大丈夫かな。俺は不安になった。  連帯責任で熊沢にどやされるのだけは勘弁して欲しい。その俺の不安が伝わったのだろうか。俺を見た香月がにっこりと微笑んだ。

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