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第一章 モブ山モブ生の挑戦(4)

 ひぃ。  何故かわからないが、怖い。香月が。  俺は足を速めた。どんどん速めた。次第に駆け足になっていったが、熊沢に怒られるのを恐れていると受け止められたようだ。本田たちには何も言われなかった。  お陰でというべきか。俺たちはチャイムが鳴る前に校庭に出ることが出来た。  どうやったのかは不明だが、香月と瀧居家も当然といった表情で集合場所にいた。おかしい。俺が走ってぎりぎり間に合うくらいの残り時間だったのに、何故ゆったりと歩いていたこのふたりがこの場に顔を揃えているんだ。そうは思うも、その謎が解けることはない。俺は髭で顔が半分覆われている熊沢の、時に飛んでくる濁声(ダミごえ)での叱咤激励を受けながら体育の授業に励んだ。  たかがハードル走とはいえ、真面目にやると馬鹿にならない。  貧相な身体つきの俺は、体力がそこまでないのだ。しかも香月に助けられるというハプニングで、俺の精神ポイントは滅茶苦茶削れてしまっている。その所為だろう。午後にもなると、もう眠くて眠くて仕方がなくなった。ちょっと油断すると頭が直ぐに船を漕ぎ始めてしまう。教師も気付いているようだ。わざとらしく俺の席の近くを回ってきては、机をこんこんと叩いてくる。その都度、はっとなって目を覚ますも、ノートは酷い有様だ。同じ場所にミミズがのたくった字が重なっている。  散々である。  仕方がないので手の甲を抓ることにした。中受の受験勉強でよくやった眠気覚ましだ。少し眠くなっては抓り、また少し眠くなっては抓り……繰り返していると、少しずつ眠気が醒めてきた。そのまま、どうにか午後の授業を乗り切る。 「モブ山、じゃあまた明日な!」 「明日は寝るなよ!」 「体育がなければ寝ないよ!」 「どうだか!」  俺は部活動に向かう本田たち揶揄されながら、そそくさと学園を出た。  中等部ではハンドボール部などというハードな部活動をしていた俺だったが、いかんせん弱小過ぎた。試合にぎりぎり出られるくらいの部員数。しかもそういった状態であるのに、二年の半ばに肩を痛めてしまった。日常生活を送るのには問題ないのだが、激しいスポーツはもう無理との診断だった。  だから引退した。  ハンドボール部の顧問はマネージャーに転向するよう勧めてくれたのだが、俺自身が耐えられなかった。一緒に練習してきた仲間が晴れ舞台に立つのを見るのが辛くなってしまったのだ。それから、俺はどこの部にも所属せず、放課後になると真っ直ぐ家に帰る生活を続けている。 「お兄ちゃん、お帰りなさい」  家に帰ると、亘代はもう帰ってきていたようだ。玄関まで出迎えに出てくると、しなを作りながら俺に凭れかかってくる。 「何か言うことなぁい?」 「言うこと?」 「惚けちゃってえ。あたしたちの情報網(ネットワーク)舐めないでよね。お兄ちゃん、香月先輩と何かあったんでしょ?」  ひぃ。  恐るべし、香月一生のファンの連帯。  俺は亘代から飛び退いた。やぁん。と、言いながら亘代がよろめく。「危ないでしょ、お兄ちゃん」俺は鞄を両腕に抱え込んで、階段を一気に駆け上がった。そして自分の部屋に飛び込んで、ドアを身体で塞いだ。 「ちょっと、お兄ちゃん!」  ドアをドンドンと亘代が叩くが、知ったことか。  やっと高等部二年生の学園生活が軌道に乗ってきたのだ。トラブルに巻き込まれるのは御免だ。 「大丈夫だから! あたし、お兄ちゃんを怒ったりしないから!」 「嫌だ。俺は普通の学園生活を送るんだ」 「何言ってんのよ、もう! 大丈夫だからここ開けてよ!」  亘代の言葉に恐る恐るドアを開く。 「もう、お兄ちゃん! その変なところで臆病になる癖、直しなよ!」  そうだ。俺は怖いのだ。香月とお近付になった結果、彼のファンだのなんだのに色々言われるのが。そりゃあそうだ。何せ俺はモブ山モブ生である。自他ともに認めるモブ顔の俺が、あんな華やかなステータスの持ち主の傍にいてトラブルにならない筈がない。  どう考えても釣り合いが取れていないのだ。  香月の周りには、彼と同じように華やかなステータスを持つ者が集う。当たり前だ。あの瀧居家が選別しているのだ。そりゃあ、俺なんかじゃ足元にも及ばないような名家や富豪の子息子女ばかりが集まるに決まっている。そこに仮に俺が混ざれたとして、彼ら――或いは他の生徒たちはどう思うだろう。  珍獣扱いならまだいい。嫉妬ややっかみの標的にならないとどうして言えたものか。 「いや、そう言うけれどもな、亘代。お兄ちゃんはお前たちも他の生徒たちも怖いんだよ」 「大丈夫だって。お兄ちゃんにやっかむほど、あたしたち無軌道じゃありませーん。事故だったんでしょ?」  どうやら亘代は詳細な事情まで把握済みなようだ。俺の顔を下から覗き込んでくると、どこか楽しんでいる風な様子で尋ねてくる。 「まあ、他の生徒が突っ込んできて、それで倒れて、受け止めてもらったっていうか」 「てゆーか、お兄ちゃん。肩は大丈夫だったの?」 「左肩にぶつかられたからな。こっちは大丈夫」  俺は右肩を撫でた。  それで安心したのだろう。「それなら良かった」ずかずかと俺の部屋に入ってきた亘代が、ベッドの端に腰掛ける。俺が他の生徒とぶつかったと聞いて、先ず心配してくれる辺りは流石は俺の妹だ。俺は妹が欲に目をくらませなかったことに安心して、鞄を机の上に置いた。 「で、何だって?」 「写真、頑張ってよ。そこまでお近付きになれたんだから」 「お近付きじゃないだろ。ハプニングだろ」 「クラスメイトなんだよ? いけるって!」  俺は廊下で俺を見て微笑んだ香月の、春の陽射しのような柔らかい表情を思い出した。同時に、彼に抱き留められた瞬間に薫ったシトラスの匂いが鼻の奥に蘇る。こういったハプニングが重なればワンチャン、口をきくぐらいの仲には……いやいや、自惚れてはいけない。俺は微かな期待をしてしまった自分を即座に戒めた。  距離的には最接近したが、関係値は相変わらずだ。ハプニングがあったからといって、何が変わる訳がない。香月の傍には相変わらず瀧居家がべったりだったし、俺は俺で眠気との戦いでそれどころではなかった。放課後だってそうだ。香月がいつ教室を出て行ったか俺は知りもしなかった。もしかすると俺が教室を出た時にはまだ残っていたかも知れなかったが、さっさと家に帰りたかった俺は全く気にしていなかった。  勿論、挨拶など交わしはしない。  その程度なのだ。 「いや、写真は撮るよ。瀧居家の目を盗んで撮ってみせる」  俺は言った。 「本当に?」 「うん。そこは約束する」  可愛い妹の頼みである。それだけは絶対に叶えてみせる。  だが、その為に香月と友達になるなどといった積極的行動は絶対に取らない。無人島にふたりきりとなったら流石に考えるが、俺は生粋のモブ――モブ山モブ生なのである。そういった俺に煌びやかな人間関係など不釣り合いだ。香月だって迷惑に決まっている。 「ただ、友達にはならないぞ」  俺は亘代に念を押した。 「写真さえ手に入るのなら、そこはいいの。お兄ちゃんもあたしも香月先輩の傍に居られる人種じゃないし」  俺から確約を聞けて安心したようだ。口元を緩めた亘代が、「じゃあ、お兄ちゃん。宿題教えて!」と、ベッドを下りた。 「リビングで待ってるから来てね!」 「ああ、直ぐ行くよ」  ぱたんと閉じたドアを横目に、俺は鞄の中から自分の分の宿題を取り出した。そして机の棚から参考書を選び取る。  正直、中の中な成績である俺は、亘代の家庭教師としてはどうにか及第点といったところなのだが、そこはそれ。二歳年上のプライドが黙ってはいない。しっかり役目を果たさなければ。俺は宿題と参考書と筆記用具を抱えて、階下にあるリビングに下りて行った。

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