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第一章 モブ山モブ生の挑戦(5)
むわっとした空気がアスファルトから立ち上ってくる。空は快晴。焼け付くような陽射しを注ぐ太陽が、ぽっかりと天に浮かんでいた。
諸説あるようではあるが、ここ数年の春の陽気は異常だ。
まだ四月だというのに夏日がぽつぽつ。三十度超え予報が出た今日の陽気に、ブレザーを脱いでいる生徒も多い。俺も今日はブレザーは諦め、半袖シャツにベストで登校した。この点、うちの学園は融通が利くので有難い。がちがちに校則で縛り上げている学校などは、五月の半袖解禁日まで意地でもブレザーを着せていると聞く。そういった面では、臨機応変なこの学園の校風は俺に合っていた。
学園前の道路には送迎車がずらりと並んでいる。
名家やお金持ちの子息子女は、自らの足で歩いて登校することがない。白手袋をした運転手がドアを開いては、ひとりまたひとりと校門の前に降り立ってゆく。良家やお金持ちの家に生まれたかったという欲は俺にはなかったが、この暑い中、汗を流して歩かずに済んでいる彼らを羨ましいと感じる思いはある。俺は彼らを横目に校門を潜った。花が散り、青々と葉を繋らせている桜の木が連なる前庭を、昇降口に向かって歩んでゆく。
「おはよう」
丁度、校門前に乗っていた車が到着したのだろう。後ろから香月の声が聞こえてくる。
「おはよう」
アルトとテノールの中間といったソフトな声。それがゆっくりと俺の背後に迫ってくる。
学園の有名人は俺のようなモブとは違って顔が広い。方々から挨拶の声がかかる中、それらに律儀に応えていては先に進めないのだろう。殆ど相手にすることなく歩んでいるようだ。
「おはよう」
直ぐ背後で聞こえる香月の挨拶の声に、俺は納得がいったような気になった。優雅な所作に目を奪われていると気付けないが、昨日の体育でもきっちり間に合っていたぐらいであるのだ。香月の歩くスピードは相当に早いのだ。それが証拠に、普通に歩いている俺にどんどん迫ってきているではないか。
「おはよう」
そろそろ抜かれるなと思っていると、香月の声が頭上から降ってきた。同時にちょんちょんと肩をつつかれる。
何が起こったのかわからなかった俺は、驚きに肩を大きく揺らした。そして、周囲を見回した。近くに他の生徒の姿はあるにはあるが、俺の肩に手が届くほどの距離ではない。ということは、今のは香月がやったことということになる。
「え、あ、え? 俺?」
「そうだよ、奥山」
「あ、あ、おはよう、香月。でも、なんで……」
どういうことだ。首を動かして香月を見た俺は、続く香月の行動に度肝を抜かれそうになった。いつものように瀧居家を脇に従えた香月が、それがさも当然とばかりに俺に肩を並べてくる。
「具合はどうだい」
「具合?」
「昨日の、だよ」
その言葉で俺は合点がいった。昨日の一件で俺の身体を受け止めた側として責任を感じてくれているのだ。
聖人か。
確かに香月は悪い噂をあまり聞かない人間だ。物腰は柔らかく、話しぶりも穏やか。容姿は端麗だし、成績も優秀。常に瀧居家を傍に従えてはいるものの、彼が瀧居家に我儘を言うところや、怒っているところを見たことがない。非の打ち所がない良家の子息。こんな人間が世の中には本当には存在しているのだ――それが俺が遠巻きに見てきたこの四年間の香月一生評だ。
とはいえ、取り巻き希望者が多いからだろう。香月は人付き合いに於いてはドライな一面があるという専らの噂だ。瀧居家のお眼鏡に適った人間しか傍に置かないのもその表れ。彼は瀧居家が遠ざけた人間に、また近寄るような真似はしないらしい。
「ありがとう。全然大丈夫だよ」
「本当に?」
「うん。香月のお陰で倒れずに済んだしね」
「肩は大丈夫なのかい」
「肩?」
「右肩だよ。中等部でハンドボールをやっていたのだろう」
何故、中等部で接点のなかった香月がそれを知っているのか。虚を突かれる形となった俺はまじまじと香月の顔を見た。
「え、なんでそれを香月が知って――」
「奥山民生、十六歳。201X年5月16日生まれ。中興証券株式会社部長奥山良一を父に、豊和産業株式会社総務部奥山華子を母に持つ」
香月の隣で歩調を合わせてい歩いていた瀧居家が、右手に持っていた書類を目の前に掲げて読み上げ始める。
「え、あ、え?」
「私立かがやき幼稚園卒後、市立 水池小学校に入学。成績は中。可もなく不可もない生活を送り、一般受験を経て私立 楓陵学園中等部に入学。一年次と三年次に美化委員を務めていたが、高等部以降の委員会参加歴はなし。部活動はハンドボール部に所属。真面目に活動をしていたが、中等部二年次に右肩を故障し退部。日常生活に影響はないが、激しいスポーツは医師に禁じられている」
「え、え?」
俺は馬鹿の一つ覚えのように「あ」と「え」を繰り返した。
自分の詳細なプロフィールを読み上げられて驚かない人間などいないだろう。一体、いつ調べたんだ? 彼らに昨日まで認知されていなかったと思い込んでいた俺は、大いに途惑い、そして慌てふためいた。
「な、なんで知ってるの、それ」
「一生の傍に置く以上、調べるのは当然だろう」
「そ、傍に置く!?」
続く瀧居家の言葉に俺は飛び上がらんばかりに驚いた。
傍に置くというのは、文字通りであれば、香月の傍に侍らせられるということだ。
本当に? 俺は目をぱちくりとさせた。モブ山モブ生と呼ばれ、自他ともにモブと認めているこの俺が、香月の傍に? 意味がさっぱりわからない。わからないが、ややこしい事態になったことだけは明瞭 りと理解出来た。
「いや、あの、ど、どういうこと?」
「友達付き合いがしたいのだそうだ」
まるで忌々しいものを見るような眼差し。額に深い皺を刻んだ瀧居家が、直後、深々と溜息を吐く。
どうやら瀧居家としては、俺と香月の付き合いは歓迎せざるものであるらしく、「こんな毒にも薬にもならない人間に興味を持つなど」などとぶつぶつごち始めるものの、香月は慣れているのだろう。涼しい表情でそれらの言葉を聞き流している。
「あの……本気で言ってるの、香月?」
何か裏があるのではないか。そう思った俺は恐る恐る香月に聞いた。
うん。と、香月が頷く。
「嫌かい」
「嫌っていうか、その、俺、普通の人間なんだけど」
「そうだね。プロフィールを聞く限り、特筆すべきことのない普通の人間だ」
あっさりと俺の言葉を肯定した香月に、そうだろうと俺は深く頷いた。
平凡な家庭に生まれ、平凡に生きてきた。ハンドボールでの挫折体験は人生山あり谷ありでいえば谷だが、こういった話はスポーツをやっていればごまんと聞く。むしろ日常生活は問題なく過ごせるのだ。運がいいとしか言いようがない。
そこに降って湧いたようなドラマティックな出来事が起きようとしている。
普通なら喜ぶべき展開なのだろう。だが俺は違った。怖い。怖くて仕方がない。何せ相手はあの香月である。芙蓉グループの御曹司にて、学園の高嶺の花。俺のようなモブが彼の傍に侍るようになったら、学園内にいる彼の数多のファンが黙ってはいまい。いや、ファンだけではない。彼の取り巻きとて心中穏やかではいられないだろう。
「でしょ。だからいいんじゃないかな。普通の人間でももっと色々いるんだし、何もモブである俺に白羽の矢を立てなくても」
だから俺はそう答えた。足が震えそうになるのを抑えながら。
「モブ?」
だが、育ちのいい香月はモブという言葉自体を知らないようだ。首を傾げると、俺の返事を待つような姿勢をみせる。
「端役にもなれないその他大勢ってこと」
「おかしなことを言うね。君の人生の主人公は君だろうに」
「香月は主人公だからなあ」
俺は香月の顔を見上げた。
高嶺の花と言われるだけはある甘いマスク。焦げ茶色の瞳の中に、俺の顔が映り込んでいる。こんな経験、この先の人生でも二度とないだろう。俺はぼんやりと浮かんできた陶酔を、けれども即座に打ち消した。
ただ立っているだけでもその場が華やかになる香月の容姿は、けれどもそれだけにいざこざの元になり得るのだ。
「意味がわからないが、面白い考えだ」
「卑屈と言うんだ。こういうのは」
うっすらと笑みを浮かべた香月に、呆れた風に瀧居家が返す。
「卑屈だったらここまであっけらかんとは言えないだろう。私には奥山が独自の世界観を持っているように思えるよ」
「それはお前がこういった人間と付き合いがないからだろう」
「そうかな」
「そうだ。お前の知らない普通の世界には、こういった考えの人間もそれなりに居る。そこに足を突っ込みたいなど正気の沙汰に思えん」
今だ。
逃げるなら今しかない。
俺は会話を繰り広げている香月と瀧居家を尻目に両手に鞄を抱え込み、勢い良く爪先で地を蹴った。「じゃ、じゃあ、結論が出たということで、俺は行くね!」それだけ口にして、昇降口に駆け込む。
急いで上履きに履き替え、階段を駆け上がる。途中でちらと背後を振り返ると、咄嗟には反応出来なかったようだ。香月の姿も瀧居家の姿もない。
そのままの勢いで教室に駆け込んだ俺は、鞄を机に置いて、即座に本田たちが作っている輪の中に混ざり込んだ。これなら香月も俺に声をかけられはしまい。その俺の読みは当たったようだ。後から教室に姿を現した香月は、困った風に眉を顰めつつも、衆目の下で友達になりたいとは言えないのだろう。自分の席に鞄を置くと、いつも彼を囲んでいる面子と談笑し始めた。
そうこうしている間に予鈴が鳴る。
亘代のことを考えると、折角向こうから話しかけてくれたのだ。写真のことだけは頼んでみても良かったかも知れないと思ったりもしたが、こういった局面で欲目を出していい展開になるようなことはまあない。それについてはこれまで通り、瀧居家の隙を突くことにしよう。そう考えながら、俺は自分の席に着いた。
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