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第二章 モブ山モブ生の奮闘(2)
放課後になっても収まることを知らない熱波がアスファルトから立ち上っている。世界が春であることを忘却してしまったかのような陽気だ。昨日に引き続いて、とにかく暑い。
今からこれでは先に待っている夏が思いやられる。そんなことを考えつつ香月家の送迎車から降りた俺は、涼しかった車内との気温の落差に眩暈を起こしそうになりながら、スーパーのビニール袋を手に先を往く香月と瀧居家の後を追って歩いていた。
ここは市立公園だ。
今日は平日とあって人けはまばらだが、市民の憩いの場として機能しているこの公園は、無料で駐車場や遊歩道、そしてアスレチック設備が利用出来るとあって、土日ともなれば家族連れでごった返すくらいには人気のあるレジャースポットだ。
「あまり遠くまで行くと溶けるんじゃない?」
俺は香月に言った。
香月が手にしているビニール袋の中にはアイスクリームとジュースが二人分、それとコンソメのポテトチップス、そしてペットボトルのお茶が一本入っている。イメージ通りと言うべきか、意外と言うべきか悩むところだが、瀧居家は甘い物が苦手なのだそうだ。「食べられなくはないが、胸焼けがする」とのことで、アイスクリームは遠慮されてしまった。
「そうだね。丁度東屋もあるし、あそこにしようか」
俺の言葉で、手にしているビニール袋の中身がアイスクリームであることを思い出したのだろう。公園に繁る木々を愛でながらゆったり歩んでいた香月が、遊歩道を折れて芝の中に足を踏み入れてゆく。
プラタナスが花を咲かせている中にひっそりと建つ東屋は、三人では席が余るぐらいに広い。これならのんびり出来そうだ。俺は西日を背中に受ける席に腰を下ろした。正面に香月、その脇に瀧居家が座る。
中央のテーブルにビニール袋の中身を出した香月が、「ふふ、少しワクワクするね」と微笑む。俺は自分の分のアイスクリームとジュースを取った。瀧居家もペットボトルを手にする。
「ありがとうね、香月。奢ってもらっちゃって……」
「気にしなくていいよ。私が誘ったのだから」
ポテトチップスの袋を手にした香月が、そこではたと動きを止めた。
「これはどうやって開けるんだい」
流石は芙蓉グループの御曹司、規格外の富豪だけはある。きっと自分で袋を開けるような生活をしていないのだろう。だから俺は香月からポテトチップスの袋を受け取った。いつもやるように背中を開く。
「へえ。そうやって開けるのだね」
「覚える必要はないぞ、一生」
感心した様子の香月に、表情を苦くした瀧居家が言う。
「いや、人生何があるかはわからないからね。こうしたことも出来るようになっておかないと」
俺はアイスクリームのカップの蓋を開けた。「いただきます」溶け始めているアイスクリームをスーパーで貰った木製スプーンで掬う。暑さもあるのだろう。ひんやりと口の中で溶ける甘みがいつもよりも味わい深く感じられる。
「香月も早く食べた方がいいよ。今日は暑いから溶けちゃう」
うん。と、頷いた香月がアイスクリームのカップの蓋を開ける。木製スプーンは使い慣れないようだ。たどたどしい手付きで口元に掬ったアイスクリームの塊を運んでゆく。
しかし、やりたいことがこれだとは。俺はアイスクリームを食べながら、なんだか不思議な気持ちでいた。
堅苦しくしないでも付き合える――とは言われたものの、俺は半信半疑だった。何せ、相手はあの香月である。俺とは基準が違うのではないか。そう思っていた。それが俺が良くお菓子を買いに行くスーパーに立ち寄ったものだから驚いたのなんの。しかもそこでやれアイスクリームだジュースだポテトチップスだ、である。たった一個のアイスクリームを何にするか悩む香月を目にした人間なんて、学園広しといえども俺しかいないのではないか。
勿論、全て香月の奢りである。
これが物凄い高級品で俺では手が出ないような品だったら諦めがつくが、たかが数百円である。払うよと言った俺に対して、香月はにべもなく。「私が付き合ってもらうのだからね」と、クレジットカードを出すとさっさと会計を済ませてしまった。
「美味しいかい、奥山」
「うん。今日は暑いから格別だね。香月は?」
「甘みが強めだね。あっさりとした味わいだ」
スーパーで売っているようなアイスクリームを食べるのは初めてらしい。うんうんと頷きながら香月が口にする。
「いつも香月はどんなアイスを食べてるの?」
「お前が聞いてもわからんかも知れんぞ」
瀧居家の言葉に「それもそうか」と、俺は頭を掻いた。
俺としては滅多に食べられないハーゲンダッツやゴディバの名前を連想するところだが、世の中は広い。俺の知らないブランド名が飛び出してくる可能性だってある。そうなってしまっては聞いたところで何もわからない。いや、亘代に教えてやれば喜ぶのか? あいつ「香月先輩のプライベートって謎に包まれてるから」なんて言ってたよな。
「その時々で色々なアイスクリームを取り寄せているみたいだけれども、私はピエール・マルコリーニが好きだね。チョコレートだけでなくアイスクリームも美味しいのだよ、あそこのブランドは」
「へえ。高いんだろうね」
「どうかな。私はその辺りのことは良く知らないからね。出されたものを食べているだけで」
ひぃ。
俺は仰け反りそうになるのを寸でのところで抑えきった。流石は御曹司。自分でスーパーにお菓子を買いに行く俺とは格が違う。
「ちょっと調べてみてもいい?」
俺はスマートフォンを取り出した。ピエール・マルコリーニで検索をかけてみる。手が届く値段だったら亘代に一個ぐらいプレゼントしてやろうと思ってのことだったのだが、一番安いセットでも四千円を下らない。しかも小さいカップが六個入りでである。
これは無理だ。俺は引き攣った笑いを浮かべた。
「やっぱり高いね……」
「食べてみたいかい?」
「うーん。味の想像がつかないや」俺は空になったアイスクリームのカップをビニール袋に収めた。「きっと凄く美味しいんだろうけど、俺が食べていい値段には思えないよ」
「謙虚だね、奥山は」
「身の丈に合った生活ってあるからね」
ふむ。と、手に口を当てた香月が考え込む。
「なら、今度届けさせよう」
「え? な、ななな何で。今の話の流れで何でそうなるの?」
俺は驚きに口を開けた。
六個の小さなカップで四千円である。一個辺りの価格は七百円ほどで、高校生が付け届けにするのにはかなり高額だ。それをあっさりと届けさせると言い出した香月に俺は慌てた。
住んでいる世界が違うのは承知の上だが、昨日友達になるのを了承したばかりである。昨日の今日でそんなとんでもないものを受け取る訳にはいかない。いや、今日だろうが明日だろうが駄目なものは駄目だ。そういった付き合い方を覚えてしまおうものなら、俺の金銭感覚が壊れてしまう。
「一生」
流石にこの流れは良くないと感じたのだろう。瀧居家が咎めるように口を開く。
「大丈夫だよ、瀧居家。同じ轍は二度踏まない」
「そうじゃない。いや、それも心配だが、奥山が驚いているだろう。お前とは住む世界が違うんだ。そこは相手に上手く合わせろ」
俺は瀧居家の助け舟に、これ幸いと乗っかった。
「そ、そうだよ、香月。そんな高いものを贈られても、お返しが……」
「そういったものは要らないよ。私に付き合ってもらうお礼の品だ。だからそれなりの物を届けさせようと思っていたのだが、何にすればいいか悩んでいてね。君が興味があるものの方がいいだろう? だから気にしなくていい」
だが香月は引く気はないようだ。頑固にも俺にお礼の品を届けるつもりであることを重ねて言ってくる。
そういう問題じゃない。
これは明瞭 りと言わないと。俺は腹に力を入れた。
上流階級の友達付き合いがどういったものか俺は知らないが、少なくとも香月は俺のフィールドまで下りてきているのだ。今日のアイスクリームにジュース、ポテトチップスはそういう意味だ。だとしたら、他の部分でもきちんと俺たち普通の人間の世界の常識に合わせてもらわなければ。
「香月」
俺は香月の顔を真っ直ぐに捉えてその名を呼んだ。
「何で友達付き合いにお礼が必要になるの。そこは対等でいいんだよ。そういった意味だったら今日のこれでもう充分だよ。いい? 明日からは俺、ちゃんと自分の分は払うからね」
俺の言葉を聞いた香月の目が微かに開かれる。
言い方が強かったか――直後に下りた沈黙に、俺はどうすればいいか迷った。温い空気が風となって俺たちの間を吹き抜け、プラタナスの木がささめきながら小さく揺れる。
香月の表情は何だか苦しそうだ。
何か過去にあったのだろうか。『同じ轍は二度踏まない』と口にした香月。瀧居家もそれを心配している様子だった。だったらその過ちを二度と繰り返させないようにしなければ。
「あ、あの」
俺は再度口を開いた。けれども上手く次の言葉が出てこない。というより、思い浮かばない。
そもそも、香月に友達になろうと言われたのは昨日のことなのだ。昨日の今日で香月の過去について尋ねるのは時期尚早過ぎる。亘代にはデリカシーがないと言われる俺だが、そのぐらいの気を回すぐらいは出来た。
訊くのは、今じゃない。
「奥山」
「な、何」
ややあって、香月が俺の名を口にする。と、その手がテーブルの上に置いていた俺の手に重ねられた。
「怒ってるかい」
「怒っては、ないよ」
仕方のないことなのだ。
俺は香月の住んでいる世界のことは正直言ってわからないし、想像しようにもとっかかりすらない有様だ。ただ、俺と香月ではかなり常識が違う。今の遣り取りでそれだけは理解出来てしまった。
その差を埋めるのには努力が必要だ。そう、俺も頑張らなければならないが、香月も頑張らなければならないのだ。
お坊ちゃん育ちの香月にとって、それはもしかすると厳しい道程かも知れない。何せ、俺の常識が香月に通用しないのと同じように、香月の常識も俺には通用しないのだ。そう、それは例えれば異文化コミュニケーションだろう。手探りでお互いの妥協点を探ってゆく、気の遠くなるような作業。けれどもそこを乗り越えてもらわないことには、俺は香月と対等な友達にはなれない。
「本当に?」
探るような香月の眼差しが俺に向けられている。俺はこくりと頷いた。
「うん。香月は俺たち普通の人間の友達付き合いが良くわかってないんでしょ。それは仕方がないよ。香月と俺は住む世界が違うんだから。だから俺、今ちゃんと説明したよね」
「ああ」
「少しずつでいいから合わせてくれる? そうじゃないと俺は香月と友達付き合いが出来ないよ。お礼はいいって言われても、そういう訳にはいかないんだから」
「わかったよ、奥山」香月の手が離れた。「対等に、だね」
「そうそう。友達なんだから、気を遣うのはなしっこ」
俺は香月に笑いかけた。同時に香月の口元が緩む。
その笑顔はもういつもの香月一生のものだ。どこか大人びていて、余裕めいたものを感じさせる。そして、飲み込まれそうになるほどに美しい。
よかった。俺は胸を撫で下ろした。
さわさわと鳴り響く葉擦れの音が、どこか心地いい。言うべきことを言って、きちんと理解してもらえた。その充実感がむっとした陽気を和らげる。
「案外やるじゃないか、お前も」感心した風に瀧居家が言葉を吐いた。「とても昨日逃げた男と同一人物とは思えん」
「い、いや、だって、あんな高い物、腰が引けるでしょ」
「ははは。普通の人間らしい台詞だ」
厳めしい顔つきを緩めた瀧居家に、もしかすると、瀧居家はほんの少しだけ俺を認めてくれたのかも知れない。そう思った俺ははたと正気に返った。どんどん距離を詰めようとしてくる香月に焦って少しきつい物言いをしてしまったけれど、それが逆の効果を発揮してはいないか?
わぁ。
俺は今更に先程香月に触れられた手を見た。俺、香月との友達関係を認めるような台詞を吐いちゃったよ。その事実に気付いて愕然とする。飛んで火に入る夏の虫ってこういうことを指すのでは。内心焦るも、時既に遅し。その後の香月は俺でもそうとわかるくらいに上機嫌だった。
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