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第二章 モブ山モブ生の奮闘(4)

 しんと静まり返った教室に、廊下を往く水無瀬川の足音が響き渡る。それが次第に遠くなるに従って、波が寄せるように辺りにざわめきが戻ってきた。時計を見上げれば、もう始業五分前。俺は紙パックに残った僅かなレモンジュースを飲み干して、香月の膝から立ち上がった。流石に今度の香月は俺を止めなかった。「また、放課後に」と言いながらランチバッグ片手に席を立つ。  瀧居家は水無瀬川に思うところがあるようだ。「あの口の悪さはどうしようもないな」そう口にして、自分の席に戻ってゆく。  俺は紙パックをゴミ箱に捨てた。  本田たちが心配そうに俺を見ていたので、振り返り際に笑ってみせた。そのまま席に戻り、次の授業の教科書とノートを机の中から取り出す。  モブ山モブ生の仇名は、楓陵学園に入学して三か月も経たない内に付いたものだ。付けた相手が誰だったかは忘れてしまったが、あっという間にクラス中に広まったぐらいだ。余程、俺に似合っていたに違いない。だから、俺は自分がモブ山モブ生と呼ばれることに対しては、人が思うほど気にしてはいない。思った以上に俺の仇名だけが一人歩きしている状況には驚くばかりだが、それだけだ。  ただ、この顔だ。俺は頬杖をついた。こんな印象に乏しい顔の持ち主であるところの俺が、そこに居るだけで場を華やかにする香月と友達付き合いを続けていていいのだろうか。  水無瀬川の言葉はある意味、俺に現実を突き付けた。  浮かれているつもりはなかったが、俺は矢張り、浮かれていたのだと思う。何せ俺は学園の高嶺の花に望まれて友達付き合いをしている立場にいるのだ。この特殊な状況に舞い上がらない人間はそうはいないのではなかろうか。しかも、香月にとっての一般的な友達付き合いとは一線を画した付き合いをしている。普通だったら昇天していてもおかしくはない。  そう考えると、俺は俺が思っているより神経が図太いのかも知れない。  こんなにもっさい容姿で香月と一つの食べ物を分け合ったり、膝の上に乗ったりしているのだ。客観的視点で考えると、俺と香月の凸凹コンビは釣り合いが取れないにも限度がある。それだのに、俺は香月に特別扱いされることに慣れてしまった。これは良くない。もう少し香月が友達でいてくれていることに有難みを持たなければ。  芙蓉グループの御曹司である香月一生は、俺のような普通の人間が気軽に付き合える立場の人間ではないのだから。  それで水無瀬川の溜飲が下がるかは別として、もう少し俺は香月に対して遠慮というものをすべきである。そう結論付けた俺は午後の授業が終わると同時に教室を出ることにした。毎日ではないにせよ、香月の貴重な時間を俺に割かせているのだ。もう少しスパンを空けた付き合いでもいいのではないか。そう思ったからだ。  だったら正面から断ればいいだろうと思うだろう。ところが俺は肝心な場面で臆病になるという弱点がある。あの綺麗な顔で自分の名前を呼ばれると、腰が砕けてしまうのだ。だからとにかく気配を殺すことにした。教室が賑やかな内にこっそり出て行けば香月も気付かな――。 「何処に行くんだい、奥山」  ひぃ。  声が終わり切るより先に香月の手が後ろから伸びてくる。肩をがっしと掴まれた俺は、びくつきながら香月を振り返った。 「あ、あの、今日は用事を思い出して」 「遥の言ったことなら気にしなくていい」 「気にしてないよ」 「本当に?」  有無を言わせない言葉の響きに、俺は言葉を詰まらせた。 「はい。か、いいえ。だけで答えるんだ、奥山。本当に気にしていないのかい?」  澄んだ香月の瞳が俺の姿を捉えている。ああ、無理だ。俺はがっくりと肩を落とした。こんなに麗しい存在に嘘を吐くなんて俺には出来ない。 「すみません。少し気にしました」 「矢張り」溜息を洩らした香月が、珍しくも気弱に言葉を継いだ。「遥には後できつく言っておくから気にしないでくれないか」 「うーん。でも、水無瀬川の言うことも尤もだし」 「何が、だい」 「俺、モブ山モブ生だからさ。前に言ったでしょ。俺はその他大勢だって。香月は誰にとっても主人公ポジションだからさ、そりゃあ俺が傍にいれば面白くなく感じる生徒は出るよねって」  瞬間、香月の瞳が瞬いた。 「だから言っただろう。奥山のこれは卑屈なのだと」  香月の眉が悩まし気に歪む隣で、瀧居家が溜息混じりに言い放った。  とはいえ、卑屈になっているつもりは俺にはない。だってそうだろう。生まれてからこれまでの人生を振り返れば、俺が主役になることがないのは自明の理だ。表彰歴もなければ、悪さで誰かの手を焼かせたこともない。空気のような存在。それが俺が自認モブたる所以である。  そうは言っても、今のお前はモブじゃない。俺の内心を知った人間はそう思うのだろう。  確かに、今の俺は、山も谷もなかった人生が上昇曲線を描いている状態だ。だが、これは香月一生という光あってのことだ。俺自身の輝きではない。そうである以上、この上昇曲線はいつかフラットに戻る。そう、恐らくは来年にでも。 「奥山」  肩を掴む香月の手に、微かに力が籠る。 「何?」 「確かに私は付き合う人間を選ぶ必要がある立場にいる」 「うん。そうだね」 「だが、本来、私が誰と付き合うかは、私が決めるものだろう。違うかい」 「それはそうだね」 「私は自分で君を選んだのだよ、間違いなく。この事実をなかったことにしないでくれないか」 「でも、香月」  香月が俺を選んだのは偶々そこに丁度いい普通の人間がいたからだ。そう、普通の人間を必要としていた香月は、前日に偶然腕の中に転がり込んできた俺に目を付けた。だから調べた。そして問題がなかったからこそ、俺を友達にすることを選んだ。それ以外に理由なんてない。  だが、その言葉を口にしてしていいものか。  香月との友達付き合いに異論はない。今の俺は、彼が飽きるまで彼の友達でいるつもりでいる。ならば、余計なことは口にしない方がお互いの為であるのだろう。 「……わかったよ、香月。ごめんね。変なこと言っちゃって」  俺は香月を真っ直ぐに見て言った。そして、気まずくなった空気を払拭するように続けた。 「今日はどうするの? また買い食いする?」 「ああ、そうだ。その話なのだが」  香月が花も綻ぶ笑みを浮かべる。  どことなく何かを企んでいるようにも映るが、品行方正を地で行く香月のすることである。きっと可愛らしい要望に違いない。そう思った俺は黙って香月の次の言葉を待った。 「今日は君の家に遊びに行きたいね、奥山」    わぁ。  俺は眩暈を覚えた。どう返答したものか悩む。  亘代は喜ぶことだろう。だが、我が家は良くある平凡な一軒家である。豪邸住まいの香月にとって面白いものなど何もない。そもそも、趣味までお坊ちゃんな香月と何をして遊ぶんだ? 家庭用ゲームの話題なんて香月の口から出てきたことがない。そうである以上、いつものようにお喋りをして過ごすだけになるのだが、果たして香月はそれでいいのだろうか?  そう言えば、それでいいよ。と、香月が微笑む。  うーむ。俺が想像している以上に、普通の友達付き合いというものを香月は経験していなさそうだし、きっと友達の家に遊びに行くというシチュエーション自体が大きなイベントなのだろう。だから俺は「わかったよ」と香月に向かって頷いた。

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