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第四章 モブ山モブ生の春(2)
人に褒められると、気持ちが上向きになるのは勿論なのだが、きちんとしなければという意識が湧いて出てくる。自分で思っているよりも、自分が衆目を浴びている存在だと気付かされるからだろう。午前中の授業で何人かの教師から褒められた俺は、いつも以上に真面目にノートを取った。指されたときの返答もなるべく滑舌に気を付けた。教室中の視線が俺に集まっているような気がしてならなかったからだ。
半分は自惚れもあっただろうが、半分は事実でもあった。休み時間になると、普段話をしないような生徒までもが俺の席にやってきて、俺の髪型を褒めてくれた。「似合ってるよ」というその一言は、自認モブだった俺に自信を与えてくれた。少しは香月の傍に居てもいい人間になれただろうか? 見た目を気にし始めた一番の原因が、これで解決すればいいな。そういったことを思いながら昼休みを迎える。
「モブ山、髪を切ったんだって?」
ランチバッグを片手に教室に入ってきた水無瀬川が、俺の前の席に陣取る。
「ああ、いいじゃん。雰囲気変わったね。まあ、俺には及ぶべくもないんだけど」
しげしげと俺の顔を眺めた水無瀬川の顔に笑顔が浮かぶ。良かった。うっすらと化粧をしている水無瀬川は、恐らく他の生徒よりも美容意識が高い。その水無瀬川にも褒められたことが、素直に嬉しい。
「それだけ前髪切ったら、世界が変わって見えるんじゃない?」
「うん。皆の顔や表情が凄く良く見えるよ。ちょっと怖く感じるくらい」
クリアになった視界は俺に様々なものを見せてくれた。俺が認識していた二割増しで香月は格好良かったし、瀧居家の顔にしてもそうだ。三割増しで男前に見えた。水無瀬川もこれまで認識していたよりも全然可愛いかったし、本田たちも個性に溢れる顔をしていた。今まであまり見分けが付いていなかった彼らの顔が良く見えるようになったことで、俺の世界は輝いていた。前髪をカーテンにしていたままでは気付かなかったこと。そりゃあ、俺もあれこれ言われるよな。華やかな彼らに囲まれていると、この中にこれまで平然と混じれていた自分が恥ずかしいと思う。
「モブ山は臆病だよね。もっと堂々としなよ。笑えば愛嬌のある顔をしてるんだからさ」
「愛嬌がある?」
「そうだよ。子犬みたいな顔しちゃってさ。黙ってると陰気なのにね」
そうかあ。俺は水無瀬川の言葉を噛み締めた。
ぱっとしないステータスに、もっさりとした風貌。けなされることがないのは有難かったが、褒められることもなかった俺。空気に等しいその他大勢のモブ山モブ生は、そのぐらいに他人の目に留まることのない人間だったのだ。それがたったこれだけのことで、多くの人間に褒めてもらえた。水無瀬川の瞳に映っている俺のさっぱりとした顔に。これからは努めて笑うようにしよう――そう思う。
「今日一日で、一生分褒められたような気がするなあ」
「だからって怠けちゃ駄目だよ、モブ山。こういうのは持続しないと意味がないんだからね」
「うん。ちゃんと続けられるよう頑張るよ」
俺はお弁当箱を開いた。
今日のメニューはトンカツの卵とじにいんげんのおひたし、それとプチトマトの乗ったマカロニサラダだ。ごはんに染み込んだ汁 がとても美味しそうである。「いただきます」俺は母に感謝をしながら箸を手に取った。と、教室の入り口付近に立っている山際が俺を呼んだ。
「何?」
「お客さんだよ!」
俺は席を立った。
廊下に出ると一人の女子生徒が立っているのが目に入る。俺の姿を目にした瞬間、彼女の顔がぱあっと明るくなった。
「篠邑 さん、どうしたの?」
艶めいたボブヘアーの下からくるりとした瞳が覗いている。制服から覗くほっそりとした手足は抜けるように白い。一組の篠邑薫子 さんは、去年同じクラスだった俺に随分と良くしてくれた人だ。
「ごめんなさい、奥村くん。お昼休みに」
篠邑さんの母は日本舞踊の大家なのだそうだ。それもあって、所作は見事の一言。楚々とした動きは水の上を滑っているようだ。静かな中にも華がある。
「いいよ、気にしないで。それより、何かあったの?」
「奥村くんのクラス、今日『論理・表現』ある?」
「ああ、教科書? ちょっと待ってね」
「ごめんなさい。鞄に入れ忘れちゃったみたいで……」
俺は席に戻り、机の中から英語の教科書を取り出した。ついでにお弁当箱の蓋を閉めておく。
「どうしたんだい」
「教科書、忘れちゃったんだって」
香月の問いかけに短く答えて篠邑さんの元に戻る。「ありがとう。助かった」俺から教科書を受け取った篠邑さんが、裾まで愛嬌が零れ出るような笑顔を浮かべた。
そう、篠邑さんは滅茶苦茶可愛い。日本人形のような髪に、リカちゃん人形のような顔。しかも、俺のような人間にまで気を遣って声をかけてくれる。女子生徒ととは殆ど親交のない俺が、廊下で擦れ違ったときなどに挨拶を交わす唯一の女子生徒。それが篠邑さんだ。
「髪の毛、切ったのね、奥村くん。見違えちゃったからびっくりしちゃった」
「おかしい?」
「ううん、凄く似合ってる。長い前髪も良かったけど、今の方が格好いい」
「ありがとう。褒めてもらえて嬉しい」
ついさっき水無瀬川に言われた『笑えば愛嬌のある顔』という言葉が胸に浮かんでくる。そうだ、笑顔だ。俺は意識して笑顔を浮かべた。褒めてもらったら、ちゃんと笑う。照れ臭いけれども、こういったところから始めていかなければ。
「でも、思い切ったね。何かあった?」
教科書を胸に抱いた篠邑さんが、俺の顔を下から覗き込んでくる。
急なイメチェンというものは、周囲の疑惑を招くものであるらしい。若しくは、女性ならではの感覚なのかも知れない。香月も言っていたではないか。女性は失恋すると髪を切る生き物だと。恐らくそうした発想をしたに違いない。髪を切った理由を尋ねてくる篠邑さんに、そう思いながらも俺はどきりとせずにいられなかった。
「ううん。別に」
「本当?」
「うん。前髪伸ばすのにも飽きたなあって」
「そっかあ」ほっとしたような表情を篠邑さんが浮かべる。「香月くんと親しくしているみたいだから、ちょっと心配だったの」
「い、いや。大丈夫だよ」
篠邑さんが噂の件について言っているのだと思った俺は、慌てて篠邑さんの言葉を否定した。篠邑さんを信用していない訳ではないが、今は昼休みだ。自由に生徒たちが教室を出入りしているこの状況では、どこで誰が耳をそばだてているかもわからない。香月の耳に髪を切った理由が入るのだけは、俺としては避けたかった。
「あんまり無理しちゃ駄目だよ。奥村くんのこと、香月くん気に入ってるみたいだし」
「気に入ってるのかなあ」
俺は首を傾げた。
始まりが始まりだっただけに、香月が俺をどう思っているのかはあまり良くわからない。どちらかというと、付き合いのない階級の人間を面白がっているような気もする。ただ、いずれにせよ、香月が俺を友達として大事にしてくれているのは間違いない。でなければ、大日向と出掛けた際に、ああも頻繁に電話を寄越しもしないだろう。
「気に入ってると思うよ。香月くん、わかり易いから……」
「そうなの?」
「うん。私、小学校から香月くんと一緒だから、その辺わかるんだ」
小学校?
俺は篠邑さんの表情を窺った。先程から、何だか引っ掛かる物言いをしているけれども、小学校時代の香月に何かあったのだろうか――俺はふと瀧居家の言葉を思い出した。『前に券を使われたときもそうだった』あのときの香月は、瀧居家にその詳細を語られるのを嫌がっている風だった。もしかするとそれは、小学校時代のことではなかったか?
何せ香月は学園の有名人だ。望む望まざるとに関わらず噂が耳に入ってくるほどの。
もし香月が問題を起こしたのが楓陵学園に入学してからのことであったとしたら、それは噂となって俺の耳に入っている筈である。しかし俺は、生憎とそういった話は知らない。筋金入りの香月ファンである亘代からも聞いたことはない。と、なると、矢張り香月が問題を起こしたのは小学校時代の話になるのだろう。
「篠邑さん、香月と小学校一緒だったんだ」
「そう。だから、あんまり無理しないでね」大きな瞳を瞬かせながら篠邑さんが言う。「奥村くんは気が弱いから、あんまり自分の意見をはっきり言えないでしょ。でも、嫌なことはちゃんと嫌だと言わないと駄目だよ。香月くんはそうしないとわかってくれないから」
「え、あ、うん」
篠邑さんの表情は真剣そのもので、俺は頷くばかりだ。
俺に関わってくる事態であるかも知れないだけに、正直、とても気になる。一体、香月は何をしたのだろう。穏やかで優しい篠邑さんにこれだけ警戒させるなんてただ事ではない。
「あ、あの、篠邑さん。その」
だから俺は篠邑さんにその出来事を尋ねようとした。
「じゃあ、私行くね。教科書、放課後に返すから」
けれども篠邑さんは詳細を語る気はなさそうだ。俺の言葉をさらりと流すと、優しい笑みを浮かべてみせる。
直後、濡れた黒髪が静かに揺れる。宙を舞うようにふわりと俺に背を向けた篠邑さんを、俺は見送ることしか出来なかった。
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