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第五章 モブ山モブ生の決意(1)

 その日の夜になっても気分が浮上することはなかった。  亘代や両親は髪を切って明るくなったばかりだった俺の変調に心配をしてくれたが、その原因を俺が三人に対して口にすることはなかった。亘代ぐらいであれば打ち明けてもいいかと思ったのだが、そこから両親に伝わると話が厄介になってしまう。香月との付き合いを釣り合いが取れていないと思っている両親のことだ。もしかすると付き合いを止めるよう言われるかも知れない。それが俺には怖かった。  俺は香月との友達付き合いを続けたいのだ。  いつかは飽きられて終わる関係かも知れない。そこに一縷の望みを託していた俺はもういない。問題は多々あれど、俺は出来る限り香月の傍に居たいと思っていたし、その為に出来ることは出来るだけしていこうと心がけてもいる。そう、俺は香月を好ましく感じているのだ。生まれも育ちも異なる世界の人間ではあるけれども、その差を縮めようと心がけてくれている。そういった香月との友達付き合いは、ずうっとモブとして教室の片隅に居た俺の後ろ向きな考えを変えてくれた。そこには本当に感謝をしている。香月が俺を選んでくれなかったら、俺は今でも教室の中で縮こまって、ただのモブとして空気のように存在するしかなかっただろう。  だから香月に言われたように、俺はあの誰かわからない生徒の言葉を気にしないことにした。  言いたい奴には言わせておこう。  そもそも俺はその誰かわからない生徒に何もしていない。誰かわからないということは接点もない。もしかすると何かの弾みに何かをしてしまった可能性も無きにしも非ずだが、俺に心当たりがない以上、それは言ってもらわなければわからない問題だ。言ってももらえないことを察しろというのには無理がある。俺は超能力者(エスパー)ではない。むしろ人の心の機微といったものには鈍感な性質なのだから。  本音を言えば、全く知らない人間に悪意を向けられているこの状況は滅茶苦茶怖い。学園に行くのだって勇気が要る。けれどもここで行かないことを選択したら、俺はモブのままだ。だから俺は翌日普通に登校した。ふとした瞬間に、あの生徒の言葉が脳裏に蘇ったりもしたが、その日は普通に学園生活を過ごすことが出来た。  次の日も、また次の日も同様だった。  もしかすると偶々タイミングが合ってしまっただけで、あの顔も知らない生徒は、俺に向かってあの言葉を吐いたのではないかも知れない。痛みが薄れ始めた俺はそう思うようになった。  その間の香月はいつも通りだった。  穏やかに佇む香月を見ていると、大日向に訊いた話が嘘のように思えてくる。本当に、この香月が小学校を退学させられそうになるほどの問題を起こしたのだろうか。真実を知りたい。けれども、あの生徒の言葉は俺の臆病の虫を騒がせてしまった。  俺は香月に踏み込む勇気が持てないまま、週末をまたいだ。  どこかでは思い切らなければならないことはわかっていたが、日を開けた分、気勢が削がれてしまっていた。どうしようと思いながら、迎えた月曜日。心の傷も癒え、元気を取り戻した俺は悩みながら学園に向かった。  ナイーブな内容なだけに、出来れば香月と顔を合わせて話がしたいところだが、機を窺っている間にまた日が過ぎていってしまいそうではある。  ならば、対面で話すことに拘らず、電話で訊いてみればいいのではないか。  それならば瀧居家の横槍も入らない筈だ。うん、そうしよう。俺は決心した。今晩、香月に電話をして、小学校のことや日曜日のことを尋ねてみる。答えてもらえなければそのときはそのときだ。嫌な過去を無理矢理ほじくり返すつもりは俺にはない。潔く諦めることにしよう。 「おはよう、奥山」  丁度、送迎車から降り立ったところだったようだ。校門を潜るより先に香月と顔を合わせる。 「おはよう、香月。それに瀧居家」 「ああ、おはよう」  香月の隣に陣取る瀧居家の表情は今日も厳めしい。それもその筈。香月が姿を現しただけで、周囲は賑やかになるのだ。これでは瀧居家としては警戒せざるを得ない。 「毎朝、大変だよね。香月も」 「はは。これが当たり前だからね。大変と思ったことはないよ」  俺は方々から香月にかけられる朝の挨拶を聞きながら、二人と肩を並べつつ、青々とした葉を繁らせている桜並木を往った。 「あのさ、香月」 「うん?」 「香月の電話番号もらったでしょ。あれってかけてもいいの?」 「ああ、勿論だよ。その為に教えたのだからね」 「良かった。ちょっと不安だったんだよね。これってかけたら本当に香月が出てくれるのかな、って」  よし。俺は気合を入れ直した。  確認は取れた。あとは今晩、香月に電話をかけるだけだ。  そもそも、この秀麗な顔を間近にして真面目な話をするなど、土台無理な話だったのだ――俺は左側に立つ香月の整い過ぎた顔を窺った。完成された芸術作品のような気品がある香月の美しさは、未だに俺を気後れさせる。そう、俺は香月と友達になって一か月が経つというのに、全く香月の顔に慣れていなかった。どうかすると魂を奪われそうになってしまう。そういった意味で、顔を見ずに済む電話でのコミュニケーションは、俺と香月がじっくり話をするのには適しているのかも知れない……そんなことを考えていると、いきなり背中にどんと衝撃が走った。 「……っ!」  誰かが肘から俺の背中に入ってきたようだ。「奥山!」鈍い痛みを感じながら前につんのめった俺の腕を、さっと香月が取って引き上げる。同時に険しい表情を浮かべた瀧居家が背後を振り返った。 「すみませんねえ、先輩。急いでいたもんで」  聞き覚えのある声に、冷や汗が浮かぶ。バス停であの言葉を発した生徒だ。  腹側まで突き抜けてきた圧迫感にげほげほと咳き込みながら背後に視線を向けると、ツンツンと毛先を逆立てた短髪の生徒が立っている。緩めたネクタイにボタンが外れ切ったブレザー。楓陵学園の生徒にしてはガラが良くないが、校章の色は間違いなく一年生のものだ。だが、当然と言うべきか。俺には全くその顔に覚えがなかった。 「知り合いか?」  挑発的な薄ら笑いを浮かべている生徒の顔に、眼差し鋭く瀧居家が視線を注いでいる。俺は香月に背中を撫でられながら首を横に振った。  狭い人間関係の中で生きている俺には積極的に後輩と仲良くするという選択肢がない。部活動絡みの付き合いはあるが、それも数えられる程度だ。彼らの知り合いにこういった毛色の変わった生徒がいるのを見たこともない。つまり、俺にとってこの生徒は面識がない相手になるのだが、ただぶつかってくるだけではなく、肘を立ててくるとはどういうことなのか。 「ということは、俺ということだな。なあ、屋敷岳人(やしきがくと)」 「さあ、どうですかね、瀧居家先輩。俺は急いでいただけなんで」  へらへらと笑い続けている屋敷は、瀧居家を目の前にしても怯む様子がない。それを不安要素と取ったのだろうか。俺から手を離した香月が、俺を庇うように俺の前に立つ。 「瀧居家」 「株式会社パラドックスの代表取締役社長を父に持つ一年四組の生徒だ。お前に声をかけてきたのは中等部のときだな」  凛と通る香月の声は、ただ名前を呼んだだけだというのに、瀧居家にその目的を察させたようだ。すらすらと相手のプロフィールを暗唱してみせた瀧居家に、「成程」と、香月がうっすらと笑っているような声を発する。 「そう言われて思い出したよ。当時は楓陵学園の校風にそぐわない生徒だと思ったものだが、今も、なようだね」 「生憎、俺は勉強が出来るんですよ、香月先輩」  まだ薄ら笑いを浮かべているようだ。調子づいたような声が、香月の背中越しに聴こえてくる。 「――世の中、勉強が全てだと思っているようでは先がない」  俺が初めて聞く声だった。  冷ややかに言い放った香月が「奥山、保健室に行こう」と、俺を振り返って俺の手首を取った。その表情も口調もいつもの香月だ。だのに怖い。俺はぞっとするものを香月に感じ取った。こんな風に香月が他人を切り捨てるのを目にするのも初めてだ。 「そいつのどこがいいんですかね、先輩! そいつ、俺よりも格下じゃないですか! 俺が駄目なのにどうしてそいつはいいんです!」  香月が俺の腕を取った瞬間、屋敷が声を張り上げた。即座に瀧居家が屋敷と香月の間に身体を滑り込ませる。それが面白くなかったようだ。屋敷が盛大に舌打ちをする。  瞬間、香月の顔から表情が消えた。  だが、こういったときですら香月は香月だ。ゆったりとした所作で瀧居家を振り返ると、「瀧居家」と、その名を呼ぶ。 「株式会社パラドックスはITバブルの時代に設立された会社だ。資本金も五百万ほどだな。バブルが弾けて統廃合が進む業界で生き残れるかは難しいところだが」 「今は積み上げて一千万だ!」  自分の父親の会社を過小評価されたからだろう。屋敷が更に声を張り上げる。それに対して香月は、ふむ。と、頷いただけだった。  空気が震えた。  続けてくっくと嗤い声を揚げた瀧居家が、「引くなら今だぞ」と、屋敷に向かって忠告めいた言葉を吐く。それに対して、ただ瀧居家を睨みつけるだけの屋敷。そして俺は――といえば、阿吽の呼吸で話を進めてゆく香月と瀧居家に頭が追い付かずにいた。  恐らく屋敷は、数多の生徒同様に香月に近付こうとして瀧居家に追い払われたのだ。そこまではわかる。それで香月が自ら友達にした俺に腹を立てた。それもわかる。その結果、実力行使に出てしまった。それも間違いない。だが、香月と瀧居家は何をしようとしている? それが屋敷の父親の会社に関わることだということまでは理解出来るが、その先が俺にはさっぱりわからない。わからないが、このまま放置しておいていいような話ではない気がする。 「あ、あの、俺もう大丈夫だよ」 「お優しいことだな、奥山」俺に背を向けたまま、瀧居家がはははと笑う。「だが、公衆の面前で面子を潰した人間を許してやれるほど、俺も一生も優しくはないぞ。芙蓉グループに立てついた分はきっちり支払ってもらう」  死ぬほど楽しそうな瀧居家の声に、嫌な予感が最高潮に達する。もしかして、この二人はとんでもないことをしようとしているのではなかろうか。そう、屋敷の父親の会社を潰すといった――……それに気付いた瞬間、背中に悪寒が走る。屋敷も同じことを考えたのかも知れない。顔がうっすら青褪めている。 「いや、でもこれは俺が受けた被害で」 「お前はどこまで甘いんだ。元は俺が追い払った生徒だぞ」  瀧居家の返答に、俺はう。と、言葉を詰まらせた。  確かに俺は痛い思いをした。肩甲骨の下辺りに肘鉄を食らったのだ。咽るほどの衝撃に、何も反撃せずに終われるかという思いがある。  だが、それはこういった形で叶えていいものではない筈だ。何より生徒同士の諍いである。親の会社を巻き込むなど、受けた被害に懲罰の重さが見合っていないではないか。 「奥山、大丈夫だよ。これは私たちの問題だ」俺の手首を掴む香月の手に力が籠められる。「さあ、保健室に行こうか」  言うなり踵を返し、俺を引っ張ってゆく香月に俺は言葉を返せない。ただ黙って香月の跡をついてゆくだけだ。 「まあ、楽しみにしてるんだな。一生の友達に手を出すとどうなるか、きっちりわからせてやるさ」  俺に追いついた瀧居家が不敵な笑みを浮かべながら、物騒な言葉を吐く。  それを嗜めもしない香月に、俺はそっと肩を並べた。そしてその横顔を窺った。見慣れた筈の香月の笑顔が顔に張り付いているように映る。  どうなってしまうんだろう。  俺が振り返ると、その場に呆然と佇む屋敷の姿が残るばかりだった。

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