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第五章 モブ山モブ生の決意(3)
「ああ、すまないね、奥山。夜分遅くに」
ゆったりと、柔らかな声が受話口の向こう側から流れ出てくる。
これが朝、冷ややかに屋敷を切り捨てた人間と同一人物であるのだ。そう考えると、香月が普段俺に見せている顔は、香月が持っている数多の表情の一つに過ぎないのだろう。「どうしたの、香月?」俺は香月に尋ねた。
「聞きたいことが一つあってね」
「聞きたいこと?」
「屋敷のことだが、被害に合ったのは今日が初めてかい?」
ぎくり。
俺の胸の鼓動が早まる。
「初めて、だよ」
ゆっくりと区切るように言葉を吐く。
耳に響いてくる自分の鼓動が香月に伝わるのではないかと冷や冷やする。いや、大丈夫だ。俺は自分に言い聞かせた。同じ声をしていたとはいえ、バス停の生徒の顔を俺は見ていない。もしかすると声が似ているだけの他人の可能性だってあるのだ。だからこれは嘘ではない。
「本当に?」
「うん。俺、全然知らない相手だったから驚いたぐらいだし。でも、どうして?」
「いくら屋敷がああいった生徒だとはいえ、いきなりあそこまで攻撃的な手段に及ぶとは考え難いと思ってね。以前から何かあったのではないかと考えたのだが、本当に心当たりはないのかい」
「ないよ。あちこちで俺が色々言われてるっていう話は聞いてるけど、俺、その内容とか、誰が言ってるとかは知らないしね……」
「そうか」
香月は噂が俺の耳に入って欲しくないと思っているようだ。詳細を知らないと聞いて、少し安堵したような声を出す。
「迷惑をかけたね」続けてぽつりと言葉を吐く。
「何で香月が謝るの」
「私たちの問題が私たちの問題で済まなくなってしまった。謝るのは当然だよ、奥山。すまなかった」
「ううん。それはいいんだよ。けど、屋敷の父親の会社のことは、出来れば、その……」
「そこは譲れないね、奥山。私たちには私たちの戦い方がある。君にとっては遣り過ぎに感じられるかも知れないが、私たちからすれば私たちが傍についていながら、大事な友達である君を傷付けられてしまったのだよ。そう、瀧居家が言ったように、私たちは公衆の面前で面子を潰されたんだ。それ相応の報いは受けてもらわなければね」
毅然と言い放つ香月に、俺は暗い気分になる。
香月や瀧居家が生きている上流階級の世界のことを、俺は全く知らない。屋敷とてわからなかったのではなかろうか。わかっていればあんな風に挑戦的に俺に突っ込んではこなかった筈だ。屋敷としては、学園内のいざこざは学園内で処分が収まると思っていたのだろう。
だが、相手が悪かった。
香月と瀧居家は俺たちが思っている以上に大人だ。次代の芙蓉グループを牽引する人間として、そしてそれを補佐する人間として、自分の置かれている立場に自覚的であるからこそ、彼らは屋敷の小賢しい思考を見抜いている。そしてだからこそ、屋敷の甘い考えを払拭するかのように、学園を飛び越えた場に戦いの舞台を動かそうとしている。
「大丈夫だよ、奥山。私たちは自分たちの利益にならないことはしないからね」
「でも、屋敷の父親の会社が潰れるようなことになったら」
「はは。相当に怖い想像していたようだね、奥山は。大丈夫だよ。ほんの少し、会社の運営を難しくするだけだから安心するといい」
俺は目を剥いた。
さらりと言ってのけているが、全然安心出来る話ではない。
「い、いや、それも結構なことだと思うんだけど……」
「うん? そうかな。泡沫的なIT業界で資本金を増資をするぐらいには事業が堅調な会社だよ。屋敷の父親はそれなりに胆力のある人間だと思うがね。だから会社の運営が難しくなったとしても立て直せる筈だ。まあ、万が一それが原因で会社を畳まねばならなくなってしまったとしても、それはそこまでの力しかなかったということだ。だから君が申し訳なく思う必要はどこにもない。ビジネスの世界とはそういうものだからね。違うかい?」
「あの、それが当たり前みたいに言われても、俺にはさっぱり……」
すらすらと持論を展開する香月に、俺は感心する半面、いたたまれなさを感じた。同時に、香月や瀧居家が周囲の学生と比べて大人びて映る理由を理解する。
往くべき道が見えているのといないのとでは、これだけの差が生じるのだ。
彼らの台詞からは、彼らがもうビジネスの世界に足を踏み入れていることが窺い知れる。そこに俺は俺が知らない学外での彼らの生活の片鱗を読み取った。俺のような一介の高校生とは大きく異なる香月と瀧居家の超然とした態度の裏には、それ相応の努力や研鑽が隠れているのだ。
「奥山は正直者だね。背伸びをしないところが凄くいい」
「あ、ありがと……って、そういう話だっけ?」
「うん。話をしていると色々な気付きがある」
当たり前のように香月は話を続けるが、本題からは脇に逸れている。
けれども、俺はそれを正そうとは思わなかった。
香月の台詞からは、香月が敢えて屋敷側に逃げ道を残していることが窺える。ならば、もういいのではないか? 俺は俺に出来る援護をもうしたあとだ。バス停での件も俺一人の胸に留めている。その上で香月たちが舞台を変えるというのであれば、それはもう俺と屋敷の問題ではない。香月&瀧居家と屋敷の問題だ。
「そう思ってもらえるなら嬉しいよ、ありがとう。俺、普通であることしか取り柄がないからね。それで誰かの役に立てるなんて思ってもなかったからさ……」
「うん。ところで、奥山。もう一つ聞きたいことがあるのだけれど、時間は大丈夫かい?」
何だろう?
俺は時計を見た。時刻は二十一時半を回っている。週頭なこともあって、夜更かしは避けたい。いつも二十三時には寝ている俺としては、遅くとも日付けを超える前にはベッドに入りたいところだ。込み入った話でなければいいのだが――香月に訊きたいことを抱えている俺は、どこか落ち着かない気分で香月に尋ねた。
「大丈夫だけど、どうしたの」
「髪を大日向の通っている美容院で切ったというのは本当かい」
ひぃ。
学園で誰にも話をしていないことを香月が知っていることに驚いた俺は、スマーフォンを手にしたままその場から飛び退いた。
「な、ななななんで香月がそれを」
「大日向が得意気だったと小耳に挟んだのでね」
「ああ、うん。まあ、そうなんだけどね、ははは」
大日向のライバル心を迷惑に感じている、ぐらいの態度だった香月だが、それだけに大日向を意識しているのだろうか。変に態度や声音が変わらないのが怖い。何というか、浮気を問い詰められる男の気持ちというのはこういったものなのではないか、という気分になる。だから俺は笑って誤魔化した。
「どうして髪を切ろうと思ったんだい。私は結構、前の髪型も気に入っていたのだけれど」
けれども香月の追及は緩まない。
わぁ、大変だ。俺は冷や汗を掻きながら必死になって言葉を繋いだ。
「え、それは前に言った通りだよ。そろそろ髪型を変えたいとは思ってたんだよね。でも俺、そういうの全然詳しくないからさ。どうしていいかわからなくて悩んでたんだ。そこで大日向が俺の髪型に触れてきたから、渡りに船って感じで……」
俺は髪型を変えようと思った原因には触れずに、香月に説明を続けた。大日向が美容院を紹介してくれようとしたこと……けれども俺には通いきれる金額ではなかったこと……それに気付いた大日向がカットモデルになれるよう、美容院に掛け合ってくれたこと……それらを頷きながら聞いていた香月が、俺の話が終わるのを見計らって、「私に相談してくれれば良かったものを」残念そうに口にする。
「なんか、その、そういうのを改まって訊くのって恥ずかしくて」
「はにかみやな奥山らしいね」
ふふ。と、小さく笑う声が受話口の向こう側から聞こえてきた。
良かった。俺は胸を撫で下ろした。気分を悪くしたのではなさそうだ。
「でも、出来れば今後はそういった話も気兼ねなくしてくれると嬉しいよ。私たちは友達、なのだから」
「そうだね。そうするよ」
そこで不意に間が開いた。
訪れた沈黙に、香月の話が終わったことを覚る。今しかない。機の訪れを察知した俺は、「あの、香月」と、香月に話しかけた。
この機会を逃せば、臆病な俺は何だかんだと理由を付けて、香月に話を訊くのを先延ばしにしてしまう。そしてまたうじうじと同じところを回り続けるのだ。それは幾ら何でもみっともなさ過ぎる。俺はだから腹に力を入れた。気兼ねなく香月と友達付き合いをする為にも、この問題をクリアにするのは必要なことだ。そう自分に言い聞かせながら口を開く。
「話を長引かせるようで悪いんだけど、俺も香月に訊きたいことがあるんだ」
「うん、何かな」
「その、香月の小学校の時の話を聞かせてはもらえない?」
矢張り、香月にとっては触れられたくない過去なようだ。スマートフォンの向こう側で、一瞬、香月が言葉を詰まらせたのが感じ取れる。
俺は気まずい沈黙に息を詰めて香月の様子を窺った。
だが、そこは流石の御曹司。俺なんかとは心臓の出来が違う。直ぐに気を取り直した様子で、いつもと変わらずに言葉を吐いてくる。
「話の出所は篠邑か大日向といったところかな」
「う、うう、まあ、そんなところ……」
勘の鋭い香月の言葉にドキリとするも、誤魔化しようがない。何せ香月には体系不明な調査力がある。俺は情報源が篠邑さんと大日向であることを素直に認めた。
「奥山は本当に嘘が吐けないね」
「あ、でも、二人を責めたりしないでね。二人は俺を心配してくれただけだから」
俺は香月に念を押した。
何せ香月は、俺に教科書を借りに来ただけの篠邑さんを呼び出して、俺の去年の様子を尋ねるというよくわからない行動を取っている。しかも先程の会話からして大日向に対しても対抗心があるようだ。そうしたところに触れられたくない過去を暴露されていたとくれば、思い切った行動に出ないとも限らないだろう。
「ああ、そこは大丈夫だよ。奥山は放っておけないオーラがあるからね。二人が心配するのも無理はない」
請け合う香月に安堵した俺は、つい口を軽くする。
「そんなに俺、頼りないかなあ」
「はは。それも奥山の魅力の一つだと思うがね」
「それならいいんだけど、俺も男だし、ちょっとは頼られる存在になりたい気持ちがあったり……」
「少なくとも私は奥山を頼りにしているよ。君の存在は大きな示唆を与えてくれるからね」
「そうだと嬉しいな」俺はスマーフォンに向かって笑いかけた。「ありがとう、香月。自信になるよ」
香月のような優れた人間に頼りにされていると言われるのは、お世辞とわかっていても嬉しい。
空気のような存在だった俺は、頼り頼られといった関係を構築するのが苦手だった。何事もなくそこに居られればそれだけでいい。これまでそうとしか思っていなかった俺が、こうも大きく変わろうとしている。
その原動力は間違いなく香月の存在にある。本当に有難い。俺は胸の内で再度、香月に感謝した。
「ところでさっきの質問だが、今日はもう遅いし明日にしないかい。時間のかかる話だからね。ゆっくり話せた方が奥山にとってもいいと思うのだけれど」
「本当に話してくれるの?」
スマートフォンを掴んだまま身を乗り出す。
瀧居家や篠邑さん、大日向の態度からして、香月がすんなり話そうとするとは思ってもいなかった。それだけに、もしかすると明日に延ばすことで、話さずに済むよう遣り過ごしているのではないか。そういった疑念が湧き上がる。
「うん。奥山には打ち明けておいた方がいいと思うからね」
けれども香月の声は、時間稼ぎをしている人間からは程遠かった。柔らかで、落ち着いた物言い。さらりと口にした香月に、俺の胸の鼓動が早まる。
「じゃあ、明日……の、放課後?」
「ああ、そうしよう。場所は中庭がいいかな。瀧居家には席を外させるから、安心するといい」
「うん。じゃあ、今日はこれで」
「ああ。おやすみ、奥山」
「おやすみ、香月」
短い挨拶を交わして俺は通話を切った。
どうしよう。ベッドに身を投げ出して天井を見上げる。
自ら聞き出すような真似をしておきながら、まだ不安が心の隅にこびりついている。本当に聞いていい話なのだろうか。期待と不安がないまぜになった心を抱えながらベッドに入る。目が冴えて眠れそうにない。俺はそこからたっぷり二時間ほど、まんじりともしない時間を過ごした。
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