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第六章 モブ山モブ生の途惑い(1)

 今日こそ、撒いてみせる。  自宅を出た俺はこそこそと辺りを窺った。朝の住宅街は閑散としていて、歩いているのは犬の散歩をしている人ぐらいだ。不審者がいれば直ぐに目に付く筈である。玄関前のステップを下りた俺は、警戒しながら大通りに出る小道に入った。  少し行ったところで背後をそうっと振り返る。  いる。  スーツにネクタイを締め、アタッシュケースを提げた若いサラリーマンが、俺の後方十メートルほど後ろを歩いている。俺はぎょっとした。家の前の道路からここまでは一本道である。と、なると、このサラリーマンは俺が道路に下りて歩き始めたあとに近所の家のいずれかから出てきたか、若しくは電柱の影などに身を潜めていて、そこから出てきたということになる。だが、ご近所さんに該当する年頃の青年はいなかったし、人が隠れられそうな場所についても先程チェックしたばかりだ。どういうことなんだ。視線を前方に戻した俺は、内心激しい焦りを覚えながら、学園への道を往った。  ここ十日ほど、俺は謎のサラリーマン風の男に尾行されていた。  ルートは決まっていた。俺の自宅近くから、学園近くのバス停まで。下校時もそうだ。バス停辺りから姿を現し、自宅近くまでついてくる。通勤しているような雰囲気を出しながら俺の跡を尾(つ)けてくる男性に、当然のことながら俺は心当たりがなかった。  とはいえ、こういったことをしそうな人間に心当たりがない訳ではない。  香月だ。  芙蓉グループの人間を使って、俺と大日向が乗る車を尾行させていた香月ならやりかねない。それに、香月は俺に隠していることがあると匂わせている――俺は足早にいつもの道を往きながら、学園最寄りのバス停を目指した。そこまで行けば、背後の男は姿を消す。わかっているからこそ先を急ぐ。  いい加減、香月にこの件について尋ねた方がいいのだろうか?  俺は悩ましさを抱えながらバス停を行き過ぎた。今しがた、バスから降りてきた生徒たちが群れをなしている。人混みの中に紛れ込んだ俺は、ほっと胸を撫で下ろしながら背後を振り返った。あの男がバス通りを横断しているのが目に入る。何処に向かうのだろう。そのまま、いつも通りにビルの影に姿を消したサラリーマンに、俺は首を傾げずにいられなかった。  十日である。  流石に偶然ではないと思うのだが、学園を前にして去ってゆくのが解せない。あのサラリーマンの目的は俺な筈だ。これはもう間違いない。けれども何の為に? 俺の調査だとしたらこんなに下手な調査もない。わざわざ俺に尾行をしていることを報せるような動きは、俺を懐疑的にさせた。  もしかして、香月は俺が話を切り出すのを待っているのだろうか、  それともこれは香月の差し金ではないのだろうか。  俺に『いずれ話す』と約束をしてくれた香月。隠していることがこれであるのであれば、頃合いを見て俺に話をしてくれる筈だ。香月を信じている俺としては、それを待ちたいのだが、あまり心臓にいい隠し事ではない。目の前に近付いてくる校門の前に、香月家の送迎車が停まっているのを目にした俺は、そこから香月と瀧居家が降りてくるのを確認して足を止めた。 「おはよう、奥山」  俺は香月の顔をまじまじと見た。  柔らかい笑み。「どうしたんだい」と、穏やかに俺に尋ねてくる香月からは後ろめたさといったネガティブな感情は感じ取れない。  うーん。俺は逡巡した。もう十日だ。流石に訊いた方がいい気がする。 「香月、俺に言うことない?」 「言うこと、かい」 「うん。ここ十日ぐらい、サラリーマン風の男性が跡を尾(つ)けてきてるんだけど」 「何だ。気付いていたのか」  声を発したのは、香月の隣に立つ瀧居家だった。 「ええ? 俺、流石にあれには気付くよ。毎日のことだもの。でも、なんで?」 「屋敷の件があったからな。一応、護衛をと思ったのだが」 「そういうのは先に言って……」  俺は激しく脱力した。  この十日間の緊張感を返してくれ。そう思いながら肩を並べている香月を見る。涼しい表情をしている辺り、香月も納得づくであったようだ。 「お前は大事(おおごと)にして欲しくなさそうだっただろう。だから、気付くまでは内緒にしておこうと一生がな」 「心臓に悪かったよ」俺は胸に手を当てた。「何が目的か全然わからないんだもの」  今はもう大分慣れたこともあって鼓動は落ち着いていたが、最初の内は酷かった。特に気付いた直後の俺の動揺は言葉で言い表せないほどだ。まさか俺のような中流階級の人間に目を付けることはないと思ってはいたが、可能性は捨てきれない。誘拐だったらどうしようと怯えていたぐらいである。いや、当初から香月の差し金なのではないかとは思っていたのだが。 「けれども、思ったよりは早く気付いていたのだね。実はもう二週間ほどになるのだよ」 「香月ぃ」俺は香月を睨んだ。  俺のことを慮ってくれたのは理解出来るが、こうした身辺に関わることはきちんと事前に話をして欲しい。これでは前回、何の為に香月と話し合ったのかわからないではないか。 「そういうことはちゃんと言って。あと、俺も男なんだから、こういうのは」 「すまなかったね。ただ屋敷の会社の件が片付くまでは、我慢をして欲しい。これ以上、奥山の身に何かあったら、私たちはご両親にお詫びするだけでは済まないからね」  俺が断るより先に言葉を被せてきた香月に、俺は言葉を詰まらせた。  確かにあんな風に背後から突っ込まれるなどという事態は、事前にわかっていない限りは避けようがない。俺が自分で気を付けるにしても限界はある。それに、こうしたことが二度も三度も続くようでは、さしもの両親も本格的に香月との付き合いを考えるように言ってくることだろう。そうした事情を鑑みると、ここは大人しく香月の厚意に甘えた方がいい。 「ありがとう、香月。それに瀧居家も。その、気を遣ってもらっちゃって……」 「感謝されることではないよ、奥山。私たちの問題に君が巻き込まれているのだから」 「そうだぞ。これは俺の手落ちでもある。だからお前は気にするな」  それにしても、二週間ということは、屋敷が俺に突っ込んできて直ぐにあのサラリーマンを手配したということである。  流石の判断力というべきか。お陰で俺は誰からも攻撃を受けることなく、今日まで平穏無事に生活出来ているのだ。有難いなあ。二人の厚意を噛み締めながら、俺は昇降口に入った。そして自分の下駄箱の蓋を開く。  何だこれは。  俺は目を剥いた。  上履きの上に、ピンクを基調としたチェック柄の封筒が乗っている。ええ? まさか。俺は助けを求めて、隣に立っている香月を見上げた。「どうしたんだい」そう口にしながら、香月が俺の下駄箱を覗き込む。 「奥山も隅に置けないね」 「の、呪いの手紙、じゃ、ないよね」 「お前……言うに事を欠いて呪いの手紙はないだろう」  香月に続いて下駄箱を覗き込んだ瀧居家が、ファンシーな封筒を目にして呆れた風に言葉を吐く。 「い、いやでも、このところの流れからして、これが好意的な内容である可能性は」 「中を見てみればいいだけの話だな」  あっさりと言い放つ瀧居家に、俺は尻込みするしかない。  だってそうだろう。俺はこれまで女性に縁のなかったモブ山モブ生である。こういった封筒を目にして、すわラブレターだなどと思えるようなおめでたい思考回路はしていないのだ。もしかすると、この封筒は俺に手を取り易くするためのデコイかも知れない。そうだそうに決まっている。俺に女性からのアプローチなどがどうしてあるものか。 「た、瀧居家、見てよ」  だから俺は瀧居家に封筒を差し出した。 「馬鹿か、お前は! その中身がラブレターだったら、デリカシーがないどころの話じゃ済まされないぞ!」 「で、でも」  俺に纏わる噂の数々。その内容を相変わらず俺は知らないままだが、髪を切ったからといって、それらの全てが止んだ訳ではないことは知っている。屋敷のように調子に乗っていると思っている人間もいることだろう。そうした連中が、何某かの行動に出てくる可能性はゼロとは言い切れない。  この可愛らしい封筒の中身が罵詈雑言だったりしたら、俺は流石に暫く立ち直れないかも知れない。けれども中身を見ないことには対処も出来ない。どうすればいいんだ。俺が決心をつけきれずにいると、見兼ねたのだろうか。香月が俺の手から封筒を取り上げた。そして昇降口に向けると、陽射しに封筒を透かした。 「剃刀は入っていないようだね」 「怖いこと言わないでよ……」 「しかし、用心することに越したことはないよ。屋敷の件もあったしね」  真顔で封筒を返してきた香月に、俺の不安がピークに達する。  怖い。  これは中身を見る前に捨てるという選択肢もありではないか。俺の脳内に消極的解決策が浮かぶ。何せ、俺は非モテで名高いモブ山モブ生である。これがラブレターである可能性など全くといっていいほどない筈だ。 「中身を見ないのかい」 「うう。だって」 「見ないことにはどうにもならんぞ」 「わかってるんだけど」俺は香月と瀧居家の顔を交互に見遣った。「捨てちゃ、駄目?」 「このど阿呆」  瀧居家の手が俺の頭を小突く。ラブレターだった場合のことを考えているのだろう。顔が怖い。 「大丈夫だよ、奥山。万が一、奥山に危害を加えるようなものだったら、あとは私が何とかしよう」 「い、いや、それはいいかな……」  険しい表情で俺を睨んでいる瀧居家の表情も怖いが、あっさりと報復を口にする香月の笑顔も怖い。これはこのままにしておいていい状況ではなさそうだ。ええい、ままよ。俺はそうっと封筒の封を留めているキャラクターシールを剥がした。中に収まっている便箋を取り出す。奥山民生くん。と、出だしに書かれている。  どうやら俺宛の手紙で間違いないようである。  俺は中身を読み進めた。女性からのものであるらしく、柔らかい筆致で、今日の放課後に中庭に来て欲しいことが書かれている。最後には澤井貴代美(さわいきよみ)との署名。困ったことに、俺には心当たりのない名前だ。 「どうだった、奥山」  万が一を考えると中身を読む訳にはいかないと思ったのだろう。便箋から目を逸らしている香月が尋ねてきた。 「ええと……呼び出し状?」 「呼び出し状」  困惑しきった声が、香月の形の良い口唇から洩れ出る。  俺はこくりと頷いた。

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