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第六章 モブ山モブ生の途惑い(3)

 放課後を迎えた俺は、時間がかかったときのことを考えて、日直から教室の鍵を受け取った上でこそこそと教室を出た。「そういう態度が問題なんだ」と、背後から瀧居家の声が響いてきたが、堂々と行ってしまって余計な注目を浴びるのは嫌だ。俺は周囲を窺いながら階段を下り、昇降口を出て中庭に入った。  今日の中庭は無人ではなかった。  美化委員と思しき何人かの生徒が植え込みの中に入って雑草を取っている。俺はほっと胸を撫で下ろした。他人の目があるところで罰ゲームや美人局もないだろう。少なくとも、穏便に済む話であるのは間違いなさそうだ。 「奥山くん」  中庭の手前のベンチに座っていた女子生徒が腰を上げる。  黒髪のショートヘアが良く似合う可愛らしい顔立ち。にこにこと愛嬌のある笑顔を浮かべながら俺に近付いてきた女子生徒に、俺は「澤井さん?」と、呼びかけた。うん。と頷いた澤井さんが、少し寂しそうな笑顔を浮かべる。 「もう忘れられちゃったかあ。仕方ないよね。同じクラスだったの、三年前だもの」 「ご、ごめんね。俺、女の子と交流ないから、名前と顔が一致しなくて……」  笑うと大きく開く口唇と並んで印象に残るくっきりとした二重。俺の記憶の扉を叩いた面差しに、俺は頭を掻きながら答えた。 「でも顔を見たら思い出したよ。澤井さん、足が凄く速かったよね」 「良かったあ。覚えていてくれたんだ」  どうやら俺の記憶は正しかったようだ。顔を綻ばせた澤井さんに安堵する。  そう、澤井さんは運動神経に優れている人だ。スポーツ全般をそつなくこなしてみせるのだが、特に陸上競技の短距離走が得意で、体育祭では毎回陸上部員が舌を巻く活躍をしている。性格は瀧居家が言っていたように明るくて朗らか。いつも周りに友達がいるような女の子だ。 「だけどどうしたの? いきなりこんなところに呼び出して」 「奥山くん、鈍い」  ええ?  澤井さんに胸をちょんと突かれた俺は焦った。これはもしかして、万が一の可能性が起こってしまったということだろうか。まさかと思いながら、澤井さんの顔を凝視する。目鼻立ちのくっきりとした顔立ちは、凄い美人という訳ではないが普通に可愛い。身長は俺に並ぶくらいだが、走るのが得意なだけあって、スカートの裾から覗く脚はカモシカのようである。こんな女性が俺に告白? いや、ないない。俺は訳がわからなくなりながら、澤井さんの言葉を待った。 「奥山くんのことが好きです。付き合ってください」 「え、え、え?」  あれだけ色々な可能性を検討し、対応も考え抜いていた割に、俺の口から出てきたのは間の抜けた声だった。 「あ、あの、澤井、さん」  動揺し過ぎて言葉がまともに出てこない。  中庭のどこかに誰か隠れているのではないかと思ったが、美化委員たちの目がある以上、それは難しそうだ。念の為にサツキの陰にも目を走らせてみるも、人がいそうな気配はない。と、なると、これは本物の告白イベント且つ現実であるということなのだが、どうして冴えないモブであるところの俺が彼女のような優れた人間に選ばれたのか。 「ど、どどどどうして」  心臓が胸から飛び出しそうになりながら、澤井さんに尋ねる。  最近になってようやく自分を変えようとし始めた俺ではあるが、それはまだまだ道半ばである。臆病で気が弱いのは相変わらずであったし、勉強だってまだまだ課題が山積みな状態だ。変わったといえば髪型ぐらいだが、その程度のことで告白されていたら、この学園はカップルで溢れ返っている筈である。 「奥山くんは覚えてないかなあ」澤井さんがとつとつと語り始める。「私、奥山くんと同じクラスになって直ぐの移動教室で、廊下に筆記用具をばらまいちゃったことがあったんだけど、そのときに率先して筆記用具を拾ってくれたのが奥山くんだったんだよね」  ……全然覚えていない。  俺は断片的な記憶を引っ繰り返した。けれども二年生のときの記憶は途切れがちだ。  クラスが変わった畑山と変わらずに親しくしていたのは覚えているが、正直、教室内でどう過ごしていたかは曖昧で、クラスメイトの顔もぼんやりとしか思い出せない。きっとハンドボールを辞めた記憶が強過ぎるのだろう。中等部時代で俺が明瞭(はっき)りと思い出せるのは、ハンドボール部のことばかりだ。 「私がお礼を言ったら『いいよ、じゃ』って凄いクールだったの、奥山くん。だから仲良くなりたいな、って思いながらも声がかけられなかったんだけど……」  それはクールに振舞ったというより、女性に慣れていないからなだけだと思う。  自分の性格から自分の行動をそう分析した俺は、澤井さんの告白に頭を掻いた。そう、俺には人見知りの気がある。慣れない相手だと、どう振舞えばいいのかがわからなくなって素っ気なくなってしまう。特に女性が相手となるとそれが顕著だ。 「ご、ごめんね。俺、女性に不慣れだから、人見知りが発動しちゃって」 「ううん、いいの。そういうのも含めて奥山くんってミステリアスだよね」  ひぃ。  な、なんかこそばゆいぞ。  生まれてこの方一度も言われたことのない言葉が飛び出してきたことに、俺は大いに驚き、そして照れた。それはそうだ。いるかいないかわからないという言葉なら何度も聞いた。聞き飽きるぐらいに聞いた。それが一足飛びにミステリアスである。照れない方がどうかしている。 「でね、私、そこからずっと奥山くんのこと見てたの。大人数と付き合うのは苦手そうだったけど、親しい友達の中にいる奥山くんは凄く生き生きとしていたし、辞めなければならなくなっちゃったけど、ハンドボールに打ち込んでいたのも凄いなあって思ってた。ただクラスが離れちゃったから、余計に声がかけられなくなっちゃって」 「あの、ありがとう。でも、なんで今になって」  頬どころか、全身が熱い。なんとなく額が涼しく感じるのは、気恥ずかしさに汗を掻き始めたからだ。  俺は完全にテンパってしまっていた。  澤井さんの気持ちはとても有難い。こんな風に自分のことを想っていてくれている人がいるとわかったのだ。しかも三年もである。嬉しくない筈がない。ただ、それだけに、何故今になって――という疑問が湧き上がってくる。  いや、それこそが恋心であると言われれば、それはそうだろうと俺としては頷くしかないのだが、今年に入ってからとかく色々と起きているのが俺の身辺だ。その一連の流れの根底に同じものが流れているのではないかと疑いたくなるのは仕方あるまい。そう、香月一生。水無瀬川や大日向と親しくなったのも、屋敷にえらい目に合わされたのも、香月一生という人間と交流を持つようになったからだ。 「奥山くん、髪の毛切ったら格好良くなっちゃったでしょ。このまま何もせずに他の女子に取られたりしたらやだなあって思って」  うっすらと頬を染める澤井さんからは、冗談を言っているような気配は感じられない。 「そっか。ごめんね。つまらないこと訊いちゃって」  俺は安堵した。  香月の傍にいるのに相応しい人間になろうと思って切った髪だったが、それは俺の想像を超えた範囲で好意的に受け止められているようだ。そう、屋敷にとっては調子に乗っているように映った俺のイメチェンも、澤井さんにとっては自分を突き動かすきっかけとなるぐらいの高評価だったのだ。それがわかった俺は、澤井さんがくれた言葉を素直な気持ちで受け入れた。俺の世界は確実に変わっていっている。その手応えに、勇気を出して髪を切って良かった――改めてその気持ちが湧き上がってくる。 「駄目かな」  ややあって、澤井さんがぽつりと口にする。 「え?」 「奥山くんと付き合うの」  その言葉に、俺は自分が全く答えを口にしていないことに気付く。  告白されたことに満足してしまっていたが、本来はここからがスタートである。とはいえ、澤井さんが俺のことをずっと見てくれていたのに対して、俺は澤井さんを表面的な部分しか知らない。まともな口をきくのが初めてな相手と、告白されたからといって直ぐに彼氏彼女というのは違う気がする。だから俺は当初の予定通りに話を進めることにした。 「あの、澤井さん。俺、澤井さんとこうしてちゃんと話をするの、これが初めてでしょ。だからその状態で付き合うって、逆に澤井さんに失礼だと思うんだ。だって俺、澤井さんのこと、顔を見るまで思い出せなかったぐらいだし」 「うん」 「だから、その、お友達から……って、いうのは無理かな。それできちんと澤井さんのことを知った上で答えを出したい」  小川のせせらぐ音が響く中、さわさわと吹く風が若葉の匂いを運んでくる。  俺は澤井さんの様子を窺った。返事を待たせてしまうだけに、反応が怖い。だが、澤井さんは意外にも気分を害したりはしていないようだ。口元を緩ませると、瞳をうっすらと細める。 「奥山くんは、やっぱり、私が思ってた通りの人だね。ちゃんとしてる」 「そ、そうかな」 「うん。自分を誤魔化さないだけじゃなく、私にしっかり向き合ってくれてる」  頷きながらそう口にした澤井さんが、俺に向かって一歩を踏み出してきた。直後、差し出される手。よろしくお願いします。と、頭を下げた澤井さんに、「こちらこそよろしくお願いします」俺は自分も頭を下げ返しながらゆっくりとその手を握った。 「これから奥山くんを見かけたら挨拶するね」 「うん。俺も澤井さんに話しかけるよ」 「返事は急かさないから、ゆっくり仲良くなっていこ」 「うん。いっぱい話をしないとね」  幸せそうに笑う澤井さんに、笑うと愛嬌があるという水無瀬川の言葉を思い返しながら俺は笑い返した。  世の青少年の中には、誰でもいいから付き合いたいと思っている人間もいるらしいし、この楓陵学園でも、それを裏付けるようにイベント前になると急にカップルが増えたりする現象がみられているのだが、俺はそういうのは嫌だ。やっぱり相手を良く知って、きちんと自分の中の好意を確かめてからにしたい。 「じゃあ、私、部活があるから今日はこれで」 「うん、じゃあまた明日」 「うん、また明日ね」  俺は俺の我儘を受け入れてくれた澤井さんに感謝をしながら、部活に向かう彼女を見送った。  校庭に向かうようだ。教科棟の陰に澤井さんの姿が消える。  俺は彼女が去っていった方角に背を向けて、昇降口に向かうべく、学年棟を回り込んだ。同時に立ち並ぶ長躯が二つ目に入る。香月と瀧居家だ。俺の心配をして様子を見に来てくれたのだろう。俺の姿を見るなり、「どうだったのかな」と香月が尋ねてくる。 「怖い話じゃなかったよ」 「そうか、良かった。で、奥山はどうするんだい」 「正直、俺は澤井さんのことを何も知らないからね。お友達から始めようかなって」 「ほう。しっかりしてるな」  感心した様子の瀧居家に、俺は頭を掻いた。「そうじゃないと失礼だもんね」そう口にしながら昇降口に足を向ける。  香月たちも教室に戻るつもりなようだ。俺と一緒に昇降口を上がってくる。 「朝はどうなるかと思ったけれども、無事に話が済んで良かったよ」 「何せ呪いの手紙、だったしな」  余程取り乱した朝の俺の姿が滑稽だったのだろう。ははは。と、瀧居家が声を上げて笑う。 「そ、それはもう忘れてくれると嬉しいな……」  俺は小さく縮こまった。  ラブレターを呪いの手紙だの、自分へのクレームだのと思ってしまったことは、澤井さんには内緒にしたい。何より彼女は俺に俺の価値を気付かせてくれた大事な女性(ひと)だ。モブでもすべきことをきちんとしていれば、誰かはちゃんと見ていてくれる。そうした彼女に、俺の臆病であるが故に悲観的になり易い部分は知られたくない。  とはいえ、いずれはこうした面も直さなければ。  そう、俺には壮大な目的があるのだ。香月の傍に居ても遜色ない人間になるという。  その為には改めなければならないことが山ほどある。成績にしてもそうだし、性格にしてもそうだ。もっさい見た目だってこれからは整え続けていかなければならない。それはちょっとやそっとの努力や心がけでは追い付かないだろう。けれどもそれは俺にとって苦痛ではなかった。俺の世界にこうして光が差すようになったのは、紛れもなく香月のお陰だ。その香月の為なら俺は頑張れる。  俺は隣に立つ香月の横顔を窺った。  彫刻のように端正な面差し。未だにこの顔を目にするのは緊張する。  だが、これこそが俺の友達の香月一生なのだ。それに密やかな陶酔を覚えながら、俺は教室に向けて、香月たちと一緒に階段を上がっていった。

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