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第六章 モブ山モブ生の途惑い(4)
今年の梅雨は雨が少ない。
今日も今日とてバス停付近でサラリーマン風の男と別れた俺は、湿度が高い空気に身体を晒しながら、空の下、校舎に向かって歩いていた。香月はまだ到着していないようだ。一人で桜並木を歩んでいると、おはよう。と、方々から他の学生たちが朝の挨拶を交わしている声が聞こえてくる。
「奥山くん!」
名前を呼ばれた俺は声のした方角に顔を向けた。
「おはよ!」
数メートル離れた場所で友達に囲まれながら歩いている澤井さんが、俺に向けて手を振った。
俺はなるべく自然に見えるように微笑んで、澤井さんに手を振り返した。同時に湧き上がる歓声。な、なんだ? きゃあきゃあ。と、騒ぐ澤井さんの周囲の女子生徒たちに俺が途惑っていると、背後から「静かに見守ればいいものを」と、少し呆れ気味な香月の声がした。
「香月」
俺が振り返ると香月と瀧居家が立っている。
「おはよう、奥山」
「おはよう、二人とも。って、いうか、ど、どういうことなの、これ……」
「お前が俺たちに報告したのと同じように、向こうも友達に報告をしているということだろう」
あ、成程。
瀧居家の言葉でようやく状況を把握した俺は、どう立ち回ればいいかわからずに俯いた。正直、ここまで大事になるとは思っていなかっただけに、恥ずかしくて消え入りたい思いに駆られる。この展開は予想していなかった。早鐘を鳴らしている心臓が、俺の同様の激しさを物語っている。
「大丈夫かい、奥山」
「う、うん。ちょっと恥ずかしいけど、大丈夫。でも、ずうっとこれが続くのはやだなあ」
俺はちらと澤井さんの様子を窺った。囃し立てられる形になったのが恥ずかしかったのだろう。澤井さんも頬を染めて俯いてしまっている。
良くないなあ。俺は困ってしまった。こうなるとどう反応するのが正解なのかわからなくなってしまう。
「そのうち飽きるだろう。だから自分をしっかり持て。こうしたことに逐一反応していると身が持たんぞ」
瀧居家の言葉に頷いた俺は、香月と瀧居家の陰に隠れるようにして歩き始めた。
澤井さんの周囲の女子生徒の反応で事情を察したのだろうか。それとも、単純に好奇心を呼び起こされたのだろうか。周囲の生徒たちの視線が俺に集まっている。逃げたい。俺は鞄をぎゅっと掴んだ。けれどもここで逃げ出してしまっては、勇気を出して俺に声をかけてくれた澤井さんに失礼だ。せめて顔は上げよう。俺は正面を向いて昇降口に向かった。
「ところで今日は、角筈 と話をしなかったのかい」
「うん。毎日話をするのも悪いかなって思って」
昨日の帰途、俺は例のサラリーマン風の男――角筈さんに話しかけた。何だかんだで二週間も俺のボディーガードを務めてくれているのだ。お礼を伝えねばと思ってのことだったのだが、香月の命を受けて俺のボディガードの任に就いているからだろう。「そのようにお気を遣わず」と、恐縮されてしまった。
その際に訊いた話によると、当初、香月は自分が俺の送り迎えをしようと考えていたようだ。ただ毎日のこととなると、俺が委縮してしまい兼ねない。そう考え直して、ボディガードを付けることにしたのだという。
芙蓉グループの中核会社である芙蓉紡績株式会社勤務の角筈さんに白羽の矢が立ったのは、学生時代の空手の大会で優勝経験があるからなのだという。「いきなり会長室に呼び出されて拝命したときは驚きましたよ。私のような一般社員が会長にお会いすることは先ずありませんからね」その台詞から察するに、角筈さんを選んだのは香月の祖父であったようだ。それは即ち、香月が家族に俺のことを話しているということでもある。「私がいれば大丈夫ですから、安心して学園に通ってください」と、優しい言葉をかけてくれた角筈さんに、俺は恐縮して頭が上がらなかった。
だから今日は会釈だけにした。
香月のことを訊けたら訊きたかったのだが、角筈さんは偶に会社に姿を現す香月を目にするぐらいで、口をきいたことは数えるほどしかないのだという。そういった人に香月のことを訊いては困らせるだけだ。さりとて、三十二歳の角筈さんと十七歳の俺では共通となる話題もそうない。これ以上、余計な気を遣わせない為にも、無闇に話しかけない方がいいだろう。そう俺は判断した。
「角筈には年の離れた弟がいるそうだよ。だからそこまで気を遣わなくとも大丈夫ではないかな」
「その情報は俺が訊いても大丈夫なの?」ぽんと飛び出してきた角筈さんのプライベートな情報に俺は目を剥いた。「香月は勝手に調べたりするから心配だよ」
「うん。ボディガードを頼んだときに『弟と同じくらいの歳ですね』と言っていたそうだから問題はないよ。だから君と弟が重なったのではないかな。事情を訊いて、かなり君のことを心配している様子だったと聞いたよ」
「そうなんだ。優しい人だね」
香月の返答に胸を撫で下ろしながら、昇降口を抜けて階段を上がる。賑やかな教室に入れば香月たちとは別行動だ。俺は鞄を自分の席に置いて、本田たちの許に向かった。あっという間にクラスメイトに囲まれている香月を視界の隅に、共通の話題で盛り上がる。
そのまま、何もないままに午前の授業に突入する。
ここ最近の俺は、小中の復習が進んだからだろう。学んでいることの繋がりが少しずつわかるようになってきていた。積み重なった知識が、暗記では出来ない理解を押し進めてくれる。こういう知識がどこに活かされているのかを知れば、もっと学びが身近になるのにな。そんなことを考えながら午前中を終える。
昼休み、珍しく香月が中座した。
トイレかと思いながら俺が水無瀬川や瀧居家と話をしていると、十分ほどで戻ってきた。その背後には澤井さんの姿。何で? 俺は香月の思いがけない行動にぎょっとしながら、澤井さんが教室に入ってくるのを見守った。
「奥山くん、朝はごめんなさい」
水無瀬川の隣、俺の斜め前に立った澤井さんが頭を下げる。
「どういうこと?」
「彼女の友達に静かに見守るように、お願いをしてきたのだよ」
どうやら香月は四組に行って、朝の件について澤井さんの友達と話をしてきたようだ。俺の隣の席に腰を落ち着けると、悠然と脚を組んで言ってのける。「ええ? それなら澤井さんが謝ることじゃないでしょ」驚いた俺は慌てて澤井さんを振り返った。それでも澤井さんの気持ちは晴れないようだ。でも――と、肩をすぼめる。
「私の友達が迷惑をかけたんだし」
「ごめんね。俺、ああいうの慣れてないから驚いちゃって」
「ううん。あれは舞子たちが悪いの」
確かに、話をする相手を選んで欲しかったという気持ちはあったが、萎れている澤井さんの様子からしてわざとではなかったのだろう。
それに、そもそも俺だって不安に駆られて香月たちに相談をしているのだ。女の子である澤井さんはもっと不安であったに違いない。それだけに、喜びもひとしお。結果を友達に報告したくなる気持ちはわかる。そういった意味で俺と澤井さんはおあいこだ。そこまで気にすることではない。
「そんなに気にしないでよ、澤井さん。ただ、みんなには静かに見守って欲しいって伝えてもらえると嬉しいな」
だから俺は澤井さんに笑いかけた。それに澤井さんが深く頷く。
「うん。わかった。私からもちゃんと言っておくから。ね、奥山くん。これからも私と話をしてくれる?」
「勿論だよ」
「良かったあ」
安堵した表情を浮かべた澤井さんが「じゃあ、私、教室に戻るね」と俺のクラスを出てゆく。入ってきたときとは大分様子が異なり、落ち着いた足取りだ。
澤井さんの姿が廊下の向こう側に消えてゆくのを見送った俺は、顔を香月たちの方に戻した。恐らく香月が中座した理由を知っていたのだろう。俺と澤井さんが話をしている間中、平然と弁当を食べていた瀧居家が、そこでようやく顔を上げた。「俺は一応反対したぞ」開口一番言い訳めいた台詞が飛び出してくる辺り、瀧居家は香月の行動を持て余しているようだ。
俺は何と返せばいいのかわからずに、宙に視線を彷徨わせた。
香月は俺に対して過保護過ぎる。
優しいのは嬉しいのだが、俺も男の端くれではある。自分のことぐらいは自分で何とかしなければという気持ちはある。それを香月は先回りして潰しているような気がするのだ。大日向の件然り、屋敷の件然り、そして澤井さんの件然り。これでは俺はいつまで経っても、香月に隣に立っていい人間にはなれない。
ううん。俺は悩ましさに小さく溜息を吐いた。
これはもう一度、香月と話し合う必要がありそうだ。そんなことを考えていると、「モブ山はいいなあ。一生に守ってもらえて」水無瀬川が、心底羨ましそうに口にした。その言葉にはっとなる。香月の塩対応に慣れている水無瀬川からすれば、俺は確かに恵まれている。
俺は視線を水無瀬川に戻した。中性的な可愛らしい顔。性格が顔を裏切っている水無瀬川よりも、ビビりで陰気な俺は香月からすると危うげに映っているのだ。その事実に少しばかり落ち込む。
「遥は強いからね」
「まあ、それはそうなんだけどね。俺はモブ山みたいに言われっ放しとか耐えられないし……」
尤もである。
水無瀬川のように達者な口を持っていない俺は、どう対応していいかわからないとその場を遣り過ごしてしまう癖がある。今朝の件もそうだ。自分から香月のような行動を起こそうとは考えもしなかった。とはいえ、だからといって、香月に守られていることに甘えてしまっていい理由にはならない。香月の為に強くなると決めた以上は、こうした事態も一人で対処出来るようにならなければならないのだ。
よし、今日は話し合いだ。
俺は弁当を勢いよく掻き込んだ。そしてお弁当箱を空にしたところで香月に向き直った。今日の放課後が空いているか香月に確認すると、空いているという。俺は香月に約束を取り付け、お弁当箱を仕舞った。そうして午後の授業の時間を使って、香月にどう話をするかを練った。とはいえ、伝えたいことは一つだ。俺を甘やかさないで欲しい。
場所はどうするか悩んだが、雲行きが怪しいので、いつ雨が降ってきてもいいように市立公園の東屋にした。ここなら学園の中庭と違って知っている人間が通りかかる可能性も少ない。俺はコンビニで飲み物を買って、香月と東屋に陣取った。
瀧居家は駐車場に停めた送迎車の中で待っている。
いつも席を外させて申し訳ないと思いながら、俺は買ってきた飲み物のキャップを開けた。先ずはひと口。喉を潤わせた俺は、ぱらぱらと降り始めた雨にけぶる景色をバックに微笑んでいる香月に話を切り出した。
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