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第六章 モブ山モブ生の途惑い(5)

「香月は俺に過保護だよね」 「そうかな」  さあさあと音を立て始めた雨のカーテンの向こう側で、プラタナスの木が雨粒で頭を重くした葉を揺らしている。少し、気温が下がったようだ。俺はうんと頷いて、また飲み物を口に含んだ。言い慣れないことを言おうとしているからか、喉が渇いて仕方がない。 「うん。優しくしてもらえるのは嬉しいけど、俺がやらなきゃいけないことまでしてくれなくていいよ。俺が自分で何も出来なくなっちゃうし」 「澤井さんのことなら、黙っていられなかっただけだよ。目に余る状態だったからね。奥山がどうといった話ではないよ」 「いや、でも、ああいうのは当事者である俺が言わないと」  香月としては見兼ねて動いたといったスタンスであるようだが、俺としては納得がいかない。そもそも瀧居家の目がある香月は、自分から動くということが少ないのだ。今日だって瀧居家は止めたと言っていた。それは当事者以外の人間が問題に首を挟むと話がややこしくなることを知っているからだ。  楓陵学園の高嶺の花である香月は、高嶺の花であるが故に快く思わない人間もいる。そういった人間に付け入る口実を与えてはならない。香月を、そして芙蓉グループを守る立場にある瀧居家としては、だからこそ、俺が絡んだ問題に積極的に関わりを持とうとする香月が危なっかしく映るのだろう。今日の午後は渋い表情を晒していた。  ここに来る最中もそうだ。  俺が香月に話したい内容に察しがついていたようで、「せめて奥山の言うことは聞け」と、いつになく険しい表情で口にしていた瀧居家。だのに香月と来た日には全く反省する様子がないばかりか、「雨の日のピクニックだね」などと話を逸らしにかかる始末。これには瀧居家も呆れ果てたようで、車窓の外を眺めながら、これみよがしに溜息を吐いていた。 「奥山は友達の助けは要らないタイプかい」  香月の言葉に俺は首を横に振った。 「そういう話じゃなくて、やる前に俺に相談はして欲しいかなって。俺がなんとかしようと思っているのに、先に動かれちゃうと、俺はなにも出来なくなっちゃうでしょ。それは俺にとって良くないからね」 「少しぐらいの手助けは許して欲しいものだけれども」  香月の手が俺の手に伸びてくる。木製テーブルの上で重なり合う手に、俺は少しどきりとした。  俺相手だと触りたがりな面を発揮する香月だけれども、水無瀬川曰く、本来の香月は他人に触られたりするのも嫌がる人間なのだそうだ。少なくとも水無瀬川と出会ったときの香月はもうそういった感じだったという。  手を繋ごうとすれば手を逃がし、腕を組もうとすれば腕を逃がす。香月のやんわりとした拒否に合った水無瀬川は、自分が香月に嫌われているのではないかと一時期は思っていたそうなのだが、観察を続けるうちに、どうやらそれが自分だけではないことに気付いたのだという。  瀧居家に訊いたところによれば、香月のそうした態度は幼稚園の頃からであったようだ。  厳格な私立幼稚園に通っていた香月は、俺の幼稚園時代とは異なり、行儀のいい幼稚園生活を送っていたらしく、幼稚園児同士でも気安くお互いに触れるようなことはなかったそうだ。とはいえ、身体的接触を持たずに幼稚園生活を送るのは難しい。だから香月はお遊戯といった身体的接触が発するプログラムでは、必ず瀧居家を隣に置いて、なるべく他人と触れないようにしていたのだという。それだけではない。他人との接触を嫌がるがあまり、子どもたちで遊ぶ輪の中に入らなかったこともあったのだというのだから徹底している。  なら、これは何なんだ。  俺は俺の指を弄んでいる香月の顔を見た。いつもと何ら変わりのない穏やかな笑顔が、俺に向けられている。 「……手助けっていうのはさ、そういったときに行動を起こす俺に同伴してくれるとか、相談に乗ってくれるとか、そういったことじゃないかな。例えば昨日みたいに、澤井さんについて知っていることを教えてくれるとかね。俺がやるべきことを取っちゃうのは違うと思うよ」  納得してくれたのだろうか。俺の言葉に香月が深く頷く。 「俺、ちゃんと助けが必要なときは香月に言うからさ。そういったときに助けてくれると嬉しいな」 「本当に助けを求めてくれるかい、奥山」 「うん」 「なら、もう一度訊くのだけれど、屋敷の件について私たちに隠していることはないかな」  思いがけず掘り返された話に、俺の鼓動が跳ね上がる。  こうして訊いてくるということは、香月は屋敷がああいった行動に出たからには出ただけの理由があるという自論を捨てていないのだろう。そう考えた俺は、だからこそ困惑した。あるにはあるが、それを口にした結果、屋敷に対する対応が厳しくなってしまおうものなら。他人の人生を左右するかも知れないような証言を迂闊に口にはしたくない。俺の気持ちは変わらなかった。 「ないよ」 「本当に?」 「うん」  香月から笑顔が消える。同時に、俺の手に重なっている香月の手に僅かに力が籠められる。  俺を凝視(みつ)めてくる香月の瞳からは、何の感情も読み取れなかった。  何を考えているのだろう。耳を打つさあさあとした雨の音に、俺が気まずさを感じていると、ややあって、「以前、いずれ話すと言った話があるのを覚えているかい」目を伏せながら香月が口を開いた。 「うん。俺、ちゃんと待ってるよ。香月が話をしてくれるの」 「その話をしてもいいかな」 「え、いいの?」 「うん。話さないことには話したいことも話せないからね」  香月の視線が東屋の外のプラタナスに向けられる。初めて香月とここに来たときに咲き誇っていた花は、とうに散ったあとだ。青々を繁るばかりとなった葉は、雨で頭を重くしていた。  あれからまだ二か月程しか経っていない。だのに俺はもう香月の秘密に迫ろうとしている。  いいのだろうか。  俺の耳に入ってこなかったところから鑑みるに、香月は小学校時代の話ですら、周囲にひた隠しにしていたようだ。それを上回るだろう秘密を打ち明けられるという現実に、俺は喜びよりも胸のざわめきを感じた。俺なんかが本当に訊いてしまっていい話なのだろうか。迷いが消えないなか、香月がゆっくりと口を開く。 「まだ母に抱かれている頃から、私の耳には不思議なものが聴こえていたんだ。絶え間ない声。それを私は母が私に語りかけているものだと思っていた」  静かに語り始めた香月に俺は視線を注いだ。絶え間ない声とはどういうものなのだろう。意味がわからないまま、香月の話に耳を傾ける。 「声が途切れるようになったのは、母から離れる時間が増えた三歳の頃だった。静寂が怖くなった私は良く泣いて母を呼んだ。母にくっついている間、私の耳は賑やかだったからね」  香月の母は陽気な人なようだ。だから香月は物静かな人間に育ったのだろうか。そんなことを考える。 「その内に私は気付いた。誰かに触れていると、その人の声が自分の中に流れ込んでくる。面白くなった私は色々な人間に積極的に触れた。祖父に祖母、父に瀧居家。そして更に気付いた。その絶え間ない声は、どうやら彼らの思考であるらしい」  俺はどきりとしながら、香月の手が重なったままの自分の手を見た。やんわりと握り込まれた手に感じる香月の温もりは、雨の所為もあるのだろうか。俺よりも一段階冷たく感じる。 「皆にもこの声が聴こえると思っていたのだよ。幼稚園に入るくらいまでは」  俺の視線を追うように、香月もまた重なった手に視線を落とす。ぽつりと洩らすように呟かれた言葉は、淡々としていながらもどこか寂しげだった。 「その、それって、今でも聴こえるの」 「うん、聴こえるね」  顔を上げた香月が、赤ん坊の頃は良かった――と、しみじみ口にした。 「殆どが自分に向けられる愛情だったからね。だから、誰の心の声を聴いても穏やかでいられた。けれども成長してゆくに連れて、外の世界の人間との付き合いが増えていくだろう? しかも私自身、言葉をどんどん覚えてゆく時期だ。それまでわからなかった言葉の意味がわかるようになった私は、そこでそれらの声が決して自分に対する好意だけでは出来ていないことに気付いてしまった」  ああ、だからなのか。俺は納得した。俺にとっては二重の意味で信じ難いことだが、香月が他人に触れたがらないのは、触れた他人の心の声が聴こえてしまうからなのだ。  その中に、香月は人間の本性を見てしまった。  当然だ。誰が聴いているとも思わないからこそ、人間は自分の思考を誤魔化すことはそうはしない。咄嗟に出てしまった自分の醜さに驚いて考えを修正したりすることはあるが、万人がそうかと聞かれると、それは恐らく違う。世の中には自らの欲望に正直に生きている者が少なからずいる。彼らの心の中には剥き出しの欲望や悪意が渦巻いていることだろう。 「そうだよ、奥山」物言わぬ俺に香月が答える。「有象無象の声の中には、綺麗ではないものもある。それが私にはとても怖いことに感じられたのだよ。しかもどうやらそれらの声は自分にしか聴こえないものであるらしい。だから私は他人に安易に触れることをしなくなった。そうでないと、どちらの声も同じボリュームで聴こえる私は普通に生活が出来ないからね」 「今の反応からすると、俺の心の声も聴こえてるってことだよね」 「うん。聴こえているよ」  ということは、俺に頻繁に触れてくる香月は、俺の心の声を都度訊いていたということになる。けれども、今まで香月はそういった態度をおくびにも出さなかったではないか。  いや、違う。一度だけあった。  俺は中庭での一件を思い出した。タイミング良く香月が、『遠慮はしないでくれないかい』と言葉を吐いたあのとき。俺の考えが読まれているように感じられて、俺は少し怖かったのだが、あれは実際に俺の心の声を香月が聴いていたからだったのだ。 「そういうことだよ、奥山」俺の手を香月がぎゅっと握り込んでくる。「だから私に嘘は吐かないでくれないか。屋敷にはバス停で酷いことを言われたのだろう」 「う、うう……」俺は呻いてしまった。  何かの弾みに香月が俺が屋敷について考えているのを読んでいるのは間違いない。何せわざわざ『バス停で』と口にしているぐらいだ。当て推量で言っているのではないことが窺える。  だが、ここで俺がそれを認めてしまうのは――いや、この考えも香月に読まれているのだ。そうである以上、これはもう認めてしまったのと同義ではないか。えーと、えーと、エトセトラ。俺は香月の気を逸らすべく、違うことを考えようとした。だが、急にはそう気の利いた考えなど浮かんでこない。精々今日の晩御飯は何かな。ぐらいである。  晩御飯か。俺は考えた。  ――あー、焼き魚が食べたいな。大根おろしをたっぷりとかけたサンマが食べたい。けれども旬の時期まではまだ数か月もある。というか、今年のサンマはお手頃価格になるのだろうか。ここ数年、不漁だなんだで高騰が続いているし、一体、庶民の味方はどこに行ってしまったのやら。俺、母さんが渋い顔をしながらサンマを焼いているのを見るのはもう嫌なんだよなあ。だからどうか景気を良くしてください、神様仏様国会議員様……っていうかこれでいいのか? 本当にこんなくだらない考えを香月に読ませていいのか、俺。  俺は心の中で白旗を挙げた。モウユルシテクダサイ。そう思いながら香月を見る。と、香月が肩を震わせながら俯いているのが目に入った。 「あの、香月?」 「君は本当に面白いね、奥山」 「ぜ、全部読まないで欲しいんだけど」 「そうは言われても」香月が俺の手を取り上げる。「この状態ではね」 「そ、そろそろ離して欲しいなあ、なんて……」 「嫌だね」  珍しくも明瞭(はっき)りと拒否の意を示した香月が、俺の指の合間に指を滑り込ませてくる。「あ、あの」俺は焦った。いつもと同じ穏やかな表情が、何だか意地悪に映るのは、俺がそういう気持ちで香月を見ているからなのだろうか。 「奥山の考えは本当に面白いのだよ、私にとって。そうだね……ラジオを聴いているようだと言えば伝わるだろうか。身を任せているととても心地がいいんだ」 「あ、ありがと。でも、俺の気持ちや考えが香月に筒抜けなんだよね」 「うん。触れている間はね。だから奥山、屋敷の件の詳細を教えてくれないかい。私は私が触れている間に君が考えていないことは把握出来ないのだよ」

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