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第七章 モブ山モブ生の懊悩(6)
帰宅した両親とともに夕食を取り、入浴を済ませ、自室に戻った俺は机に向かった。
最来週の期末テストで、今度こそ目に見える成果を出したい。
気合だけは充分な中、参考書やら問題集やらノートやらを机の上に広げる。小中の復習はかなり進み、どこで躓いていたのかが可視化出来るようになった。それに伴って、授業も理解出来る部分が増えてきた。けれども、まだ復習が全部終わった訳ではない。小中の復習が終われば、次は去年の分だ。先の長さに途方もなさを感じるも、これまでの記憶頼りの勉強法で実績を残せなかった以上、俺に残されているのはこの方法しかない。焦らずに内容を消化していかなければ、結局は元の木阿弥である。
スマートフォンのアラームを五十分後に設定して、集中して机に向かう。
色々試してみてわかったのだが、学校の授業時間に合わせたリズムで勉強をするのが、俺には合っているようだ。休憩なしで何時間もぶっ通しという勉強法では、これまでだらけた生活を送ってきた俺の集中力が落ちてしまう。だから適度に休憩時間を挟むことにした。具体的には、五十分集中して十分休みを三セット。一セット目はこれまでの復習、二セット目は今日の復習、三セット目は宿題と予習に充て、システマチックに勉強時間と内容を管理する。来週は期末テスト前なので、もう一、二セット増やして、テスト範囲の勉強に充てる予定だ。
真面目に勉強に取り組むこと五十分。アラームが鳴る。
俺は背伸びをして、机の上を一度片付けた。次は今日の分の復習だ。教科書やノートを揃え、キッチンに下りる。そろそろ母が時期だと感じたらしく、冷蔵庫の中には麦茶が常備されるようになった。うちの麦茶は砂糖入りだ。マグカップに並々と注いで部屋に戻り、仄かに甘い麦茶を口に含む。美味い。この甘みがクセになるんだよなあ。そう思いながらふと目を落とすと、スマートフォンの画面に着信表示があるのが目に入った。
香月だ。
俺は鼓動を早めながら、折り返しの電話をかけた。きっと亘代のことだろう。そう思いながらも、鼓動は治まらない。
「もしもし、香月?」
僅か三コール。直ぐに電話に出た香月に、俺は話しかけた。
「ああ、奥山。ありがとう、折り返してくれて」
「ごめんね、さっきは。キッチンに下りてて出られなかった」
学園に居る間は他の生徒の存在もあってそこまで意識することはなかったが、一対一で話をするとなると流石に平静にとはいかない。手足に漲る緊張感。汗を掻き始めた手のひらに、俺はスマートフォンをスピーカーにして机の上に置いた。
「それは仕方がないよ。私も良くスマートフォンを家のあちこちに置いて歩くからね。連絡が付かないと瀧居家に怒られることがあるよ」
香月の柔らかくて落ち着いた声が、俺の部屋の隅々にまで響き渡る。
こそばゆい。俺はマグカップを手に取った。気恥ずかしさに顔から火が出そうだ。麦茶を飲んで気持ちを落ち着ける。
「もしかして、亘代のこと?」
「うん。奥山が自分から妹さんに話をしているとは思わなかった」
「言おうかとも思ったんだけど、なんか話すタイミングがなくて……」
「いや、いいのだよ。それを抜きにしても話をしたいとは思っていたからね」
「何の話をしたの?」
訊くか訊かないか逡巡したものの、俺は香月に亘代との会話の内容を尋ねることにした。他人の話を詮索するのは気が進まないことではあったが、そのときの話の内容や状況が聞ければ、自分の気持ちを落ち着けられるのではないかと考えてのことだ。すっかり元に戻ったように見える亘代だが、俺はまだ心のどこかで亘代が引き摺っているのではないかという疑いを消せずにいる。亘代にしても、本当に吹っ切っているものを、俺に疑われるの嫌だろう。
「うん? 奥山が家でどういった風に過ごしているとか、だね。いいお兄さんをしているのが聞けて面白かったよ」
「ええ? べ、別に、俺変わったことはしてないんだけど。そういうの、聞いて楽しい?」
「うん。私は楽しいよ」
篠邑さんに俺の去年のクラスでの様子を訊いたときもそうだったが、香月にとって、『自分の知らない時間』の俺は本当に興味の対象であるらしい。間を開けずにあっさりと言い切ってみせると、「私には今年の四月以前の奥山との思い出がないからね」と、言葉を継いだ。
「私は奥山の心を読むことが出来るし、それもあって、奥山がどういった考え方をするのかも大体わかっているけれども、だからこそ、それが本当に正しいのかを確かめたくなってしまうんだ。何より、好きな人のことだ。どういった些細なことでも知りたい。私が知っている奥山と、他の人間が知っている奥山に差があるのも嫌だからね」
「……香月、結構独占欲が強いタイプ?」
俺は感じたままの言葉を口にした。
「そうかも知れないね」軽い笑い声を立てた香月が続ける。「奥山の良さや面白さは、私だけがわかっていればいいと思っているし」
俺はそういった意味で香月のあれこれを知りたいとはあまり思わない。それどころか、自分だけが知っていたいとも思わない。
それは、学園の有名人である香月の噂は放っておいても俺の耳に入ったからだ。亘代然り、同級生然り。しかも実物と仲良くなってみれば、その噂に違わぬスーパースターときたものだ。これで何を詮索したものか。小学校時代の話はイレギュラーだったけれども、それだって、既に噂として広まっていたものである。
だからこそ、俺は香月が俺のことをそこまで意識していることに驚いた。同時に、僅かに鼓動が跳ね上がる。
嬉しいと感じる半面、矢張りどうしてという思いが拭えない。いや、自分がその対象だからこそ、更に『何故』が積み上がってしまう。
香月は俺の心を読んで俺を好きになったようなことを言っていたけれども、俺の考え自体に特筆すべきものは何もない。どこかには同じ考えの人間がいるだろうと予想が付くぐらいの凡庸さ。そもそも、香月ぐらいのステータスとなると、隣に並ぶ人間にも相応のステータスを求めたくなる。そうなると、俺が自慢出来るのは、自他ともに認めるモブであることぐらいなのだが、学園の高嶺の花の相手として考えた場合にここまで不釣り合いなステータスもない訳で――。
「あの、香月」
「うん?」
「香月は、いつから俺のことを……」
「この間言った理由では不満かい?」
「ええ? 不満はないけど、不思議だなあって」
「奥山は正直だね。そういうところが私は好きだよ」
「う、うう。誤魔化されてる気がする」
「そうは言われてもね」香月が少し困ったような声を発する。「奥山を好きな理由についてああは言ったけれども、恋はロジックでするものではないからね。ふと気付いたら、全部が好きだった。何より、私には奥山が可愛く見えて仕方がないのだよ。だから、どういったところが好きなのだろうとあれこれ考えたのだけれども」
「か、かわいい?」
「うん。とても」
俺は俺の顔や容姿を思い浮かべた。鏡で何度となく見た、平々凡々にも限度がある自分の顔。取り立てて他人の記憶に残る特徴のない顔や、ひょろっこいこの身体が可愛いと宣うのか。香月は先ず眼科にかかるべきなんじゃないか。そんな考えが浮かんでくる。
「奥山が男なのは理解しているし、男性相手に可愛いと言うのが失礼なのも理解しているよ。だが、私にとっての奥山を表現する言葉が他にないのだよ。奥山は可愛い。他人に渡したくないくらいに可愛いね」
ひぃ。
俺は耳まで赤くなりながら、香月の言葉を聞いた。
俺が、このモブ山モブ生が、可愛い。幼少期ぐらいにしか聞いた覚えのない言葉。それが香月の口から飛び出してきたことに、俺は大いに焦り、そして大いに照れた。
「あ、あの、その、自分で訊いておいてなんだけど、わかったから、もう、いいや……」
恋はするものではなく落ちるものだと言ったのが誰だか俺は知らないが、香月に於いてもそれは例外ではなかったのだ。俺はそう思うことにした。でなければこんな破壊力抜群な台詞を臆面なく言えもしまい。むしろこんな風に俺を想っている相手に、いつからだの、何故だの訊くのは無粋である。
「うん、そうかい? 私はまだ口説けるけれども」
「いや、その、いいです。俺の心がもたないから」
「残念」香月がクックと忍び笑いを洩らした。「奥山が動揺している姿が可愛いのに」
きっと好きな子を虐めたくなるタイプなのだ。時々、俺に対して意地悪になる香月に、俺はもう。と、口をへの字に曲げた。だのに香月は反省しない。「拗ねる奥山も可愛いね」などと、背中の毛が逆立つような台詞を吐く。
「それ、結局、全部可愛いになるんだよね」
「うん。そうだよ」
「出来れば控えてくれないかなあ、なんて」
「二人で話しているときぐらいは許してくれないかい。普段言えないことなのだから」
「まあ、二人だけのときなら……」
俺は譲歩した。
香月は不思議な人間だ。香月がそう言うとそれが当たり前のように思えてくる。だからといって自惚れるつもりはない。俺の自認はモブのままだ。ただ、嫌な気分ではないのだ。まるで水が染み込むように、そういう風に想ってくれる人がいるのだと自分の中に入ってくる。
俺、香月が好きなのかな。
澤井さんとは異なる角度からのアプローチに心が浮足立った俺は、ふとそんなことを考えた。実際に香月と付き合うとなったら、芙蓉グループの御曹司である。澤井興産の社長令嬢である澤井さんの比ではないくらい俺は苦労するだろう。わかってはいるのものの、脳がぼうっとする。香月の言葉はどれも心地いい。
俺は首を振った。
自分の香月に対する好意に恋心が含まれているのか、わからない。
自認モブな俺は自己肯定感が低い自覚がある。だから香月の言葉に満たされるのではないか。大きな幸せに不慣れなことも手伝って、そういった疑念が湧き上がってくる。
「ところで、奥山」
俺が黙っていると、香月が話題を変えた。
「夏休みは暇かい?」
「うん。特にまだ予定は入ってないよ」
「なら、私の別荘に来ないかい。葉山の方にあるのだけれど」
「え。それ俺が行ってもいいの?」
「うん。良くなければ誘わないよ。管理の関係で年に何度か行かなければならないのだけれど、例年、瀧居家と二人でね。奥山が来てくれると嬉しい」
いきなり香月の両親とご対面なのかと思いきや、そういった話ではなかったようだ。
俺は安堵した。
良家の子息子女が数多く通う楓陵学園では、長期休暇を利用して海外に行く生徒も多いが、平凡な家庭である我が家ではそういった豪華なイベントはない。例年、親戚の家に行って、友達と遊んで終わる。極々平凡な夏休み。今年はそこに別荘滞在が加わるかも知れない。そう思うと気持ちが高ぶる。
「親に訊いてみるよ。日程はいつ?」
「七月から八月にかけての二週間ぐらいだね。ああ、お金のことは気にしなくていいよ。車はこちらで出すし、食事はシェフを手配する。奥山は着替えだけ持ってくればいい」
「ええ? 流石にそれは申し訳ないよ」
「色々事情があってね、手放す訳にいかない別荘なのだよ。とはいえ、毎年のことだから私たちは飽きてきてしまっていてね。だから話し相手になるつもりで来て欲しい。食事などはそのお礼だよ。必要ならご両親にも説明するから、金銭的な問題を気にするのは止めてくれないか」
「わかったよ」俺は頷いた。「話し相手だね」
俺は両親にどう話を切り出すか考えた。あれもこれも香月の負担となると、親は難色を示しそうな気がする。とはいえ、香月の言葉に甘えて説得を任せてしまうのはだらしない。自分の力で説得しきろう。そう決心する。
「八月に入ったら遥も来る予定だよ。七月は父親の個展があるとかでね。自由に動けないらしい」
「へえ。なら賑やかになりそうだね」
そこから少し水無瀬川の話をする。
時々、ひやりとすることもある香月と水無瀬川の関係だが、香月としては水無瀬川を嫌いなのではないらしい。ただ、そういった意味で水無瀬川を好きにはなれないのだそうだ。「本人には申し訳ないことをしているとは思うのだけどね」と、ままならない状態を憂う言葉を吐いた。
「だから、奥山は遥のことは気にしないで欲しい。私の気持ちと遥の気持ちは別の軸の話だからね」
香月の言葉に俺は素直に頷いた。
水無瀬川に対して申し訳ない気持ちは確かに俺の中にある。ただ、あのキャラクターだ。俺が香月とどうこうなっても、愛人志望の水無瀬川はへこたれない気がする。むしろ次は自分だと奮起するのではなかろうか。
それともこれは希望的観測だろうか。
とはいえ、こうでも思い込まないと、これまで単調な人間関係を送ってきた俺は、ややこしさに押し潰されてしまう。きっと水無瀬川は大丈夫だと信じる。予想と違う展開になったらそのときはそのときだ。そう腹を決めて香月との電話を終える。
時計を見上げると、二十二時を回っていた。
期末テストが終わればバーベキューもあるし、今年の夏は思い出深いものになりそうだ。去年とは雲泥の差なスケジュールの詰まり具合に、幸せを噛み締めながら俺は早速と部屋を出た。階段を下りてゆくと、両親はまだ起きているようだ。テレビの音が聴こえてくる。
よし、頑張るぞ。
俺はリビングに足を踏み入れた。そしてソファに並んで座ってテレビを見ている両親の斜め前に座って、香月に別荘に誘われたことを話し始めた。
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