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第八章 モブ山モブ生の苦難(1)
長かった期末テストが終わり、日曜日がやってきた。
朝の七時に起床した俺はカーテンを開いた。東の空から眩しい光が昇っている。天気予報ではこの三日間は梅雨の中晴れになる予定だ。青空には雲もそんなになく、まさに絶好のバーベキュー日和である。
香月が迎えに来るのは九時だ。そこから山口を拾いに行き、大日向の家に向かう。
バーベキューの開始時刻は十一時。大日向曰く、天気が崩れなければ十七時くらいまで庭を解放する予定らしい。「人数も多いからな。時間内ならいつ来てもいいぞ」とのことだったのだが、香月が家の都合で十五時には大日向家を辞さないとならない為、早めに行ってゆっくり楽しもうということになったのだ。
俺は着替えを済ませて洗面所に向かった。
休みの日の両親の起床は遅く、階下はまだ静かだ。物音を立てないようにしながら洗面所に入り、顔を洗って髪をセットする。最近は大分髪をセットするのにも慣れてきて、二十分ぐらいで身なりを整えられるようになった。髪を切った直後は一時間近くかかっていたので、大分成長したと感じる。
次回の美容院は七月の半ばの予定だ。どういった髪型になるのか楽しみな半面、またセットに苦労するんじゃないかと思うと不安になるけれども、これに慣れれば自分で髪型をオーダー出来るようになるだろう。自分の成長の為にも頑張って一年間通わねば。そう思いながら洗面所を離れる。
洗面所を出た俺はキッチンに向かった。
バーベキューでどのくらいの量の食材が出るのかわからないこともあり、念の為に軽く朝食を取っておくことにする。冷蔵庫の中にあったハムと卵を焼いて、棚の中にあるインスタントスープをお湯で溶き、炊飯器に残っていたご飯をよそっただけの簡単な食事。土日に友達と出掛けるときの俺や亘代は、基本的に自分たちで朝食を用意する。今日の亘代はまだ起きてこないようだ。ひとりでダイニングテーブルに着いて朝食を食べる。
八時を過ぎて亘代がキッチンに下りてきた。
「おはよう、お兄ちゃん」
「おはよう、亘代」
まだ寝ぼけまなこの亘代と朝の挨拶を交わし、お互いの今日のスケジュールを確認する。亘代はクラスメイトたちと隣町の商業施設に夏服を買いに行くようだ。「そろそろセールが始まるから」とのこと。
「お兄ちゃんはバーベキューかあ。いいなあ」
「大日向の家だぞ。どんな家が出てくるのかと思うと、お兄ちゃん、ちょっと不安だよ」
「あはは。確かに。大日向先輩の家、凄そうだもんね」
両親にはバーベキューのことは事前に伝えてある。母は手土産を持っていくよう煩かったが、美容院の件でこういうのはいいと言われてしまったこともあり、今回は感謝の気持ちだけ伝える予定だ。余所様の家の庭を借りてのバーベキューなだけに母としては収まりが悪そうだったが、参加費も出すのだからと納得させた。
「いっけない。もうこんな時間だ。急がなきゃ」
「亘代は何時に家を出るんだ」
「九時半にバス停で待ち合わせ!」
食事を終えた俺は支度に忙しない亘代を横目に、リビングでテレビを見ながら香月が迎えにくるまでの時間を過ごした。音量を小さめにして、朝のトーク番組を眺める。
本田たちもそうだが、香月や瀧居家もあまり芸能人には興味がないようだ。会話の中にテレビの話が出てくることは少ない。俺もインターネットで動画ばかり見ているので話題に乗るのが難しい。精々、バズったアーティストやアイドルの話に付き合うぐらいだ。
今だって、画面に出ている芸能人が誰なのかさっぱりわからなかったりする。俺は首を傾げながらトーク番組を見終えた。さて、次の番組はどうしようか。悩み始めた九時少し前。タイミング良く玄関のチャイムが鳴る。
「亘代、お兄ちゃん先に出るからな!」
「はーい! 行ってらっしゃい!」
テレビを消して玄関に向かう。玄関のドアを開くと、嗅ぎ慣れたシトラスの香りが風に乗って舞い込んできた。
特徴的な爽やかな香りは仄かに甘さを含んでいて、珍しい匂いのする制汗スプレーを使っているなと俺は思っていたのだが、香月に訊いたところ、どうやらこのシトラスは香水の香りであるらしい。制汗スプレーは無香料のを使っているのだとか。
「おはよう、奥山」
「おはよう、香月」
どうやら瀧居家は車の中で待っているようだ。ひとりで立っている香月に、俺は眩いものを見る目になった。
それもそうだ。よくよく考えてみれば、私服姿の香月を見るのは初めてである。
肌触りの良さそうなオフホワイトのコットンシャツに、カーキ色のスラックス。洗いざらし感のあるシャツにはうっすらとストライプの柄が入っている。足元は磨き抜かれたライトブラウンの革靴。見るからに高そうだ。
うん、わかっていたけど、高校生らしくない。
俺はドギマギしながら玄関を出た。制服姿も格好いいけれども、私服姿はその上をゆく。こういったある意味普通のスタイルを着こなせてしまうのは、香月の素地がいいからだ。俺が同じ格好をしたら顔が浮いてしまうだろう。そんなことを考えながら香月に続いてステップを下りてゆく――と、いつもと異なり、サイズの大きい送迎車が停まっているのが目に入った。
リムジンだ。
テレビでしか見たことのない高級車の登場に、俺は緊張しながら運転手さんの開いたドアに身体を滑り込ませた。わぁ。我が家の車とは比べ物にならないくらい車内が広い。しかも、対面で座れるだけでなく、カウンターまで付いている――テレビでしか見たことのないリムジンの車内に緊張と興奮が同時に湧き上がってくる。
「おはよう、奥山」
車内では瀧居家が書類を片手に待っていた。
白いTシャツの上から水色のダンガリーシャツを羽織り、黒いテーパードを履いている。紙一重で高校生らしさは残っているが、瀧居家の顔立ちが顔立ちなだけに、こちらも社会人ぽさを感じる。靴は黒いローファー。薄いグレーの靴下がズボンの裾から覗いている。
「おはよう、瀧居家。てか、それは何?」
瀧居家の対面に座った香月の隣に腰を落ち着けながら、俺はなんとはなしに感じる嫌な予感を払拭すべく瀧居家に尋ねた。
まさか山口の調査書、なんてことはないだろう。祈るような気持ちで返事を待つ。
「今日のバーベキューの参加者全員の簡易調査書だ」
「ごめん。想像していたよりも酷いものが出てきたよ……」
俺は項垂れた。
確かに大日向があれだけ大っぴらに参加者を募っていた以上、そして彼らに友達を連れて来てもいいと言っていた以上、思いがけない生徒が参加している可能性はある。そこを瀧居家が警戒するのは仕方がない。しかし、だからといって、大日向の友達繋がりである。全員の調査をするというのは大袈裟に過ぎないだろうか。
そんなことを考えていると、瀧居家が笑い声を上げた。「お前も世話になっておきながら何を言う」その言葉から察するに、どうやら例のスマートフォン情報網を使って情報を集めたようだ。
「うん、まあ、そうでした……」
そこを指摘されては、俺としては返す言葉がない。頭を掻きながら顔を上げる。
と、視界の端に映り込んだ香月の顔が俺を向いていることに気付いた。「何、香月」尋ねると、「何か飲むかい」と、俺の左側に設えられているカウンターを指差してみせる。
「俺が飲んでもいいの?」
「今日は大したものは置いてないけれどもね」
「いつもは違うんだ」
「両親が使うときはお酒も置くのだが、今日は私たちが使うだろう。だからお茶や紅茶、ジュースなどを揃えたよ」
俺は座席を離れてカウンターを覗き込んだ。香月がさらりと言ってのけたので、急ごしらえ的にペットボトルでも入れたのかと思いきや、そこは流石の億万長者 だけはあった。初めて目にする瓶が並んでいる。
「これ、本当にお茶や紅茶なの?」
「うん。家で軽く飲むときはこれだね。茶葉から淹れるのは時間がかかるからね。さっと飲めるので重宝しているよ」
「そうなんだ。どんな味が想像が付かないや」
「好きなものを選ぶといい。その為に揃えたのだから」
「じゃあ、紅茶をもらおうかな。香月と瀧居家も飲む?」
揃って頷いた二人に、俺はカウンターからグラスを取り上げた。
揺れたら零れそうとは思ったが、もう走り出している筈の車の振動は全くと言っていいほど感じない。危なげなくグラスに紅茶を注いだ俺は、二人にそれぞれグラスを渡してから、自分もまたグラスを手に座席に戻った。いただきます。と、口にして先ずはひと口。俺が普段飲んでいる紅茶とは違って、すっきりとした苦みの中に仄かな甘みを感じる。
「飲み易いね、これ。美味しい」俺は香月に笑いかけた。
「セイロンだからね」
「この紅茶の瓶一本で、お前が普段飲んでいるペットボトルが二十本は買えるぞ」
「ひぇ」俺はグラスから身体を離した。
紅茶はもっとお財布にフレンドリーな飲み物だったような気がするのだが、それは俺の思い込みだったのだろうか。俺はしげしげとグラスの中身を眺めた。濁りのない透明な輝き。確かにペットボトルの紅茶とは色からして違う。
「大丈夫だよ、奥山。飲んでもらう為に用意したものだからね」
「そ、そういう問題ではなく」
「味の違いがわかって良かったな」
「そういう問題でもなく」
これは大日向はさておき、香月には手土産を用意すべきだったのではないか。思いがけず高い飲み物を飲むことになってしまった俺は焦った。「あの、いいの? 俺が飲んじゃって」香月を見上げながら尋ねる。
「うん? 勿論だよ。家にあったものを積んだだけだからね」
「そ、そっか。家にあるよね。なら、飲みます」
俺はこくこくと紅茶を飲んだ。
俺と居るときは、俺の生活レベルに合わせてくれている香月だけれども、本来はこうした品が家に普通に並んでいる家庭の人間であるのだ。となると、わざわざ俺の為に庶民レベルの飲み物を揃えた方が香月にとっては出費になってしまう。
そこまでしろとは流石に言えない。むしろ香月としては、俺の腰が引けないように気を遣ってくれたまであるぐらいだ。
俺はちろりと香月の顔を窺った。微笑ましそうに俺を見詰めている香月と目が合う。
「奥山は可愛いね」
ひぃ。
当たり前のように口にした香月に、俺は思い切り香月とは逆側に身体を逃がした。
「あ、あの、香月」
「ああ、すまないね。つい」
つい、で口にしていい言葉ではないと思うのだが、香月は全く悪びれる様子がない。それどころか俺をより真っ直ぐに見詰めてくると、俺が膝の上に置いていた手に自らの手を重ねてきた。
「あ、あの、香月……?」
「大丈夫だよ、車の中だからね」
「いや、あの、瀧居家が」
「俺のことは気にするな。空気と思え」
書類に目を落としている瀧居家が、ひらひらと手を振った。
これは瀧居家と三人でいる際の香月の辺りを憚らない態度に度肝を抜かれた俺が、香月を問い詰めた際に判明したことなのだが、恐ろしいことに香月は、俺の告白をした翌日には瀧居家にその事実を告げていたのだそうだ。しかも例のわがまま券をちらつかせてである。とはいえ、頭の固そうな瀧居家は、意外とその辺りはフランクに物事を捉えているらしく、「人の恋路を邪魔する奴はなんとやらだ」と、わがまま券を使わせることはなかったのだとか。
「で、でも、気まずくない……?」
「嫌ならそう言え。俺は最初に言ったぞ。一生はこうすると決めたら凄いとな」
「た、確かに……」
それは即ち、落とすと決めた相手は絶対に落とすということだ。そして、瀧居家では止められないということでもある。
うう。ど、どうすれば。
俺は俺の手を弄んでいる香月の顔を見詰めた。意識を奪われてしまいそうになる整った顔が俺を向いている。これが、俺を好きだと告白してきた二人の内の一人であるのだ。その事実と向き合う度に、俺の中に『世の中どうなってるんだろう』という考えが湧いて出る。
胸の高鳴りが止まらない。
香月に告白されてからというもの、俺は加速度的に『変』だ。それまでも香月の美しさに見蕩れることはあったし、胸が高鳴ることもあったが、事あるごとに香月が俺に告白してきたことを意識させられているからだろう。この頃は、香月とその先に進むことの現実を真剣に考えるようになってしまった。
手を繋ぐのは大丈夫。キスもまあ、出来るだろう。
ただ、問題はその先である。
実際のところ、浮世離れした存在である香月に生身の人間らしい欲があるとは俺には思えないのだが、一部の性的志向の人間を除いては、それこそが恋人関係のひとつの到達点である。そういった欲を持っていないとは断言出来ない。そうである以上、いつかはそういった意味で迫られることもあるのだろう。
そうなったときに、俺が『出来ない』ではお話にならない。俺が悩んでいるのはそこだ。
なら、澤井さんはどうなのかと問われると、これもまた判断に困るのだ。
まだ付き合うとも決めていない女性相手にそういったことを考えるのは、何だか性的消費をしているようで申し訳なくなってしまう。それはもしかすると、俺が元来そういった欲が薄いからかも知れない。何せこの年齢になるまで好きになった人が一人しかいなかったぐらいだ。だからこそ、手を繋ぐにしても、キスをするのにしても、先ずは目先の告白を処理してから考えるべき問題である――となってしまう。そうなると、何故香月については考えてしまうのかとなるのだが、こうも積極的にスキンシップを取ってこられる以上、その標的 であるところの俺としては考えずに済ますとはいかない訳で。
「なら、試してみるかい」
耳元にふわりと降りてきた低い囁き声に、どきりと胸が跳ねた。
「な、なななな、何?」
「何って、言葉通りの意味だよ」
俺は焦った。
くっくと嗤う香月に、揶揄われているのだと覚るも、一度跳ねた鼓動は簡単に収まりそうにない。その動揺が手を通じて伝わってしまうのではないかと冷や汗を掻く。同時に、自分が考えていることが筒抜けであることに対する気恥ずかしさが湧いて出る。
「あ、あの、そういうのは、ちゃんとしてから……」
しどろもどろになりながらやんわりと否定すると、空気でいると言った割には聞いていたようだ。「何の話をしているんだ、お前らは」と、呆れた表情を晒した瀧居家がうんざりとした声を放った。
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