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第1話(5)
数日後、攻は紫峰家の裏手にいた。ちょうど塀を越えれば水島のいる離れがある。
司は今ごろ屋敷の中にいて、紫峰親子と話をしているところだろう。そばには召使いの女性もいるはずだ。門番の目さえ盗むことができれば、水島を攫うのは難しくない。けれども……。
「まずは、この塀を越えなければいけないな」
最近建てられた塀は、建築基準法を遵守しているのだろう。180cmの攻が腕を伸ばせば縁に手が届くくらいの高さだった。
閑静な住宅街。人通りはあまり無いが、いつ誰かに見られるとも限らない。攻は隙を見てジャンプし、塀の縁に手をかけると、腕力で自分の体を引き上げた。乗り越えると紫峰家が眼下に広がる。
「これじゃ、まるで泥棒みたいだな……」
水島を攫って、司の事務所兼自宅で匿う。そう提案したのは司だった。自分が紫峰親子の注意を引くから、その間に攻が運動能力を駆使して水島を攫ってほしい。それが司の計画である。
もちろん、捕まるリスクもあるので、その時は自分が身元引受人になるし、すべての責任を被るとも言った。計画した本人だって捕まって、これまでの輝かしいキャリアが台無しになってしまうかもしれないのに。
(私の家族に頼めば釈放だけでなく揉み消しだって出来るよ)
攻はそう言いかけて口を噤む。司の覚悟を決めたような眼差し。自分のことを真剣に心配してくれるのが嬉しかった。
「気をつけてくださいね……」
珍しく司から労わるように抱きしめてくる。攻もありったけの力で抱きしめ返した。
(大丈夫、すべてはうまく行くさ)
自分を鼓舞して、音を立てずに内側へと下りる。門番の男がいないか慎重に確かめながら、離れへと歩みを進めた。
攻がアトリエの障子戸を開けると、水島が背中を丸めてキャンバスに向かっていた。人の気配を感じて振り返るなり、驚いて声を上げようとするのを、攻は自分の口元に指を立てて遮った。
「な、何者だ!」
「静かに。ある人に頼まれて貴方を迎えに来たんだ」
「ある人?」
水島は神経質な眼差しで見つめてくる。なるべく刺激しないように、攻はのんびりとした調子で続けた。
「この前ここに来た弓岡司。もちろん、知ってるね? 彼が貴方に絵を描いて欲しいと頼んでいるんだ。紫峰探雲としてではなく貴方自身としてね」
司の名前を聞いて水島は黙り込む。どこか困ったような表情を浮かべていた。
「でも、俺は先生の真似事しかできないよ……」
「そんなことはない!」
断言するような攻の口調に、水島はハッとして顔を上げた。
「司の絵を見る目は確かだ。なんといっても、紫峰探雲の遺作を一目で偽物だと見破ったんだからね。そして、同時にこれほどの大作を描き上げてしまう貴方の才能にも惚れ込んだ」
攻は大きな手のひらを差し伸べる。
「だから我々を信じて付いてきてほしい。悪いようにはしないから」
頑なな人の心を溶かす術は、体育教師でいた頃からお手のものだった。水島は攻の柔和な微笑みに絆されたのだろう。躊躇いがちにその手を取った。
「どうやって、ここから逃げるんだい? 表から出たら門番に見つかっちまうよ」
「私に任せるんだ。貴方は心配しなくていい」
スケッチブックや愛用の画材だけをズタボロのリュックサックに詰め込むと、水島は攻と外に出た。
「さあ、私の背中に掴まって」
攻がしゃがんで促すと、水島はその背中にしがみついた。成人の男性にしては随分と軽い。普段からまともに食事させてもらえなかったのだろう。
塀の前で再びジャンプして縁を掴む。二人分を腕力で引き上げるのはどうかと思われたが、意外にも楽々と乗り越えることができた。そして、誰もいないのを見計らって通りへと降りる。
これが司だったら、あまりにもの重さに悲鳴を上げていただろう。そう考えて、笑みが零れる。今ごろ司はくしゃみをしているに違いない。
「外だ、外に出られたぞ!」
水島が子どものように声を弾ませる。
「喜ぶのはまだ早い。ここから遠く離れなきゃ」
水島の手を引いて、住宅街を駆け抜ける。鼓動が高鳴るのは走っているせいだけではない。シトロエンが待つコインパーキングまで、攻は束の間スリルを味わっていた。
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