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第1話(6)

 水島蛍(みずしまほたる)。紫峰探雲が生涯で唯一弟子にした男。いつも影になって、師匠に甲斐甲斐しく尽くしていた。人前に出るのを好まなかったこともあり、画壇でその名を知る者はまずいない。  熊谷と同じくらいの年齢だったが、劣悪な環境で絵ばかり描いていたからだろう。もっと年を取っているように見えた。 「……俺がここにいて大丈夫なのでしょうか?」 「今ごろ、紫峰家は大騒ぎだろうね」  なんと言っても、司に遺作を提供する約束をしているのだ。描き手がいなければ大弱りだろう。 「だからと言って、警察に通報することはしないと思いますよ。偽物を作っていたのがバレてしまいますからね」  司はあくまでも冷静だ。自分だって、いつ危ない目に遭うか分からないというのに。 「水島さん、貴方には1ヶ月で私が要求する絵を2枚描いていただきます。1枚は『金雲摩天楼図』とまったく同じもの。そして……」  水島がゴクリと喉を鳴らすのが聞こえる。 「もう1枚は、貴方の描きたいものを自由に描いてください」 「それは無理だ!」  水島が目を丸くして立ち上がる。それでも、司は動じない。 「1ヶ月で2枚描くのは困難だとでも? 1年で7枚の偽物を作ってきた貴方なら出来るはずです」 「違う、そんなんじゃない。俺は、自由に絵を描いたことが無いんだ……」  水島が自身の両手を見つめる。かすかに指先が震えていた。 「どうやら、複雑な事情がありそうだね」  攻が差し向けると、水島は訥々とこれまでの経緯を語り始めた。  水島は幼い頃に紫峰と出会った。誘われるがままアトリエへ遊びに行き、絵を教わるようになった。体を密着させながら筆遣いを教わる日々。そして、いつしか二人は一線を越えて肉体関係を持つようになっていた。 「先生は、俺が上手に真似ると喜んでくれた。いつしか、俺は先生の真似をするのが生きがいになったんだ」  水島の指先には何層にも重なった絵の具が染み付いている。紫峰探雲の一部になろうとして、自分自身を消してしまった男。  晩年になると、紫峰は自力で絵を完成させるのが難しくなり、水島の力を借りていた。けれども、そんな日々は紫峰の死によって終わりを迎える。 「あの親子が命令してきたんです。おまえは紫峰の筆使いが出来るのだから、代わりに成りすまして絵を描き続けるのだと。俺はどこにも行く当てがないし、蓄えも無いから従うしかなくて……」  それからは食事も睡眠もまともに摂れないままキャンバスに向かっていたという。攻は、あの親子への腹立たしさに唇を噛んだ。 「貴方の人生はまだまだ長い。これからは紫峰先生の真似事ではなく、自分の絵を描かなければいけないよ」 「でも、どうすれば……」  司は顎に指を当てて考え込む。だが、すぐに結論は出なかったらしい。 「ひとまず『金雲摩天楼図』を描いてください。完成してから次を考えましょう」 「どうしてもですか?」  水島はあくまでも弱気だ。 「もう君のための展示会を予定している。今さら変更はできないよ。もし描けないというなら莫大な賠償金を払ってもらうまでだ」  冷たい眼差し。それで水島は逃げられないと悟ったのだろう。力なく頷いた。 「もちろん、必要なものはこちらでいくらでも用意します。食べたい物があれば自由に頼めばいい。この家の中なら何をしても自由です。全部この人が世話をしてくれますからね」  そう言って司は攻を指差す。思いがけない展開に、攻はいつもの冷静さを失う。 「わ、私が世話をするのかい?」 「ええ、僕は仕事で忙しいですから。もちろん、その分の報酬は払いますよ」  金の問題では無い。こんな曰くつきの男を世話しなければいけないなんて、攻には荷が重かった。それでも、司の命令なら喜んで従うしかない。 「約束を果たしてくれたら、水島さんには当面生活できるだけの報酬を支払いましょう。……そうですね。300万はいかがでしょうか?」  そう言って司は、かばんから札束を3つ取り出し、テーブルに置く。 「さ、300万!」  水島と攻の声が重なった。普段は「ど」が付くほどのケチなのに、出す時は大胆だ。 「ね、決して悪い取引ではないでしょ?」 「300万……俺の自由……」  現金を目の前にして、水島の瞳に光が宿ったのを攻は見逃さなかった。

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