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第1話(7)
水島がこの家に来てから半月が経とうとしていた。「金雲摩天楼図」はすでに出来上がり、リビングの壁に立てかけられている。それは、攻が宝田の画廊で見たのと寸分違わぬものだった。むしろ、こちらのほうが筆使いや色使いが生き生きしているように見える。
そして、今は真っ白なキャンバスとにらめっこしていた。何を描けば良いのか、まだ思い浮かんでいないらしい。
「貴方の心に渦巻く感情を、存分に表現すればいい。それだけで立派な絵になりますよ」
司は腕組みをしながら、その様子を眺めていた。
「でも、それではただの落書きになってしまう……」
「その絵が落書きだと決めるのは、貴方じゃありません。何らかの価値を見出して、お金を出す顧客だって必ずいます」
そう言って、司は本棚から一冊の画集を取り出した。水島の前で開いて見せる。
「ジャクソン・ポロックはご存じですか? この絵とか一見、無造作に絵の具を散らしただけに見えるでしょう。それでも、唯一無二だと言って高く評価したり、高額で買ってくれたりする人がいるんです」
少なくとも、攻から見ると何が良いのかさっぱり分からない。感じ方は人それぞれ。司は、価値を見出してくれる顧客を見つけるのが抜群に巧かった。
「だから、絵なんて自由でいいんです。肝心なのは、貴方が何を表現したいのか。それが人の心を動かすのです。今の自分が置かれた状況でもいいですし、紫峰先生との想い出でもいいですし、キャンバスにぶつけてみてください」
「先生との想い出……」
水島がじっとサイドテーブルに並べられた絵の具のチューブを見つめる。その中から紫色を取り出すとパレットへ大量に広げ、油で溶かし始めた。
「このままじゃ明る過ぎるな」
次に黒色の絵の具を絞り出し、パレットナイフで少しずつ紫色と混ぜる。次第に夕闇にも似た暗い紫色が出来上がってきた。それを太い筆で、キャンバスに塗りつける。初めは遠慮がちに、やがて叩きつけるように埋め始めた。
「先生の俺に対する想いはこんなもんじゃない。もっと大きくて強くて……」
筆では表現しきれないと思ったのか、水島は紫色を両手のひらで掬うと、キャンバスに塗りたくった。
それは攻にとって見覚えのある景色だった。7年前、司の自画像を描いていた熊谷の姿が蘇る。思いの丈をぶつけるかのように、アクリル絵の具を乱暴にキャンバスへぶつけていた。自らが汚れるのも構わず。司に目を向けると、寂しげな表情を浮かべて、水島の一挙一動を見守っている。
「司。絵を描く邪魔になるよ。一人にしてあげよう」
やんわりと両肩に手のひらを乗せる。そして、有無を言わさぬ強さでがっしりと掴んだ。
「このままじゃ君が汚れてしまうからね」
何か言いたげな司に気づかぬふりをして、リビングから連れ出す。事務所に入ると、ありったけの力で抱きしめた。
「何を考えていたんだい?」
尋ねてはいけないと分かっていても、口をついて出てしまう。嫉妬するなんて自分らしくないと攻は思った。
「別に、何も……」
司は腕の中で呼吸を止めているように見えた。攻の体臭を嗅いでしまえば、過去の幻影が塗り潰されると怖れているのだろうか。司から漂う、冷たく理知的なベチバーの香りさえ、今はひどく弱々しく感じられた。
「君は私のものなんだよ」
呪詛のような言葉に、これじゃまるで催眠術をかけているみたいだと、攻は心の中で苦笑する。司は変わらずそばにいてくれるのに。どうしても、熊谷のことになると取り乱してしまう。
「分かっていますよ」
攻の頬に手のひらを当てた司は、微笑みながらもいつもの冷たい眼差しをしていた。
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