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真夜中のデカダンス(3)

 夜明けと共に東京を出たのに、攻が目的地に着いたのは約束の5分前だった。途中、お土産を買ったり、サービスエリアで休憩したり、のんびりし過ぎたせいでもあるが、意外と時間がかかるものだと攻にしては珍しく焦っていた。  目の前にあるのは築50年ほど経っていると思われる朽ちかけたアパート。壁や屋根はすっかり色あせ、手すりや階段は所々錆びついていた。  指定された部屋の前に立つと、すでにタバコの匂いが漂ってきた。熊谷はタバコを吸わなかったはず。ということは……。  攻がドアホンを鳴らすと、扉が開いて中から若くて背の高い痩せた青年が顔を出した。飢えた獣のような険しい目つきで攻を睨みつけてくる。  おそらく、この青年が相川流だろう。一度だけ、助手席に司を乗せてシトロエンを走らせていた時に見かけたことがある。あの頃よりも大人になってはいるが面影はあった。何よりも眼差しが熊谷と似ている。 「佐伯ですが、熊谷先生はいらっしゃいますか?」  攻が問いかけると、相川はぶっきらぼうな口調で 「いるよ。入りな」 と部屋の中を指して背を向けた。よく見ると、玄関は分別されていないゴミが詰まった袋で溢れ返っており、攻はその隙間を縫って入らなければいけなかった。  六畳一間のワンルーム。敷きっぱなしの万年床。シンクでは食べ終えた弁当の容器の山が異臭を放っていた。綺麗好きな司が見たら卒倒するに違いない。攻だって肌が粟立っている。なんとなく空気まで霞んで淀んでいるような気がした。 「……ここに二人で暮らしているのかい?」  挨拶よりも先に疑問が口をつく。すぐに相川が 「そうだ。文句あるのか?」 と敵意を剥き出しにして噛みついてきた。 「いいえ。お互い手の届く距離にいられて、うらやましいと思ったのですよ」 「俺はホモじゃないぞ!」  これ以上、相川と話をすると発狂しそうなので、攻は熊谷と向き合った。相変わらずの小汚い髭面で、絵の具が付いたジャージを着ている。背中を丸めて、下からうかがうように目を合わせてきた。 「これ、お土産です。貴方が喜ぶと弓岡君が選んでくれたものですよ」 「本当か?」  熊谷がお土産の入った手提げ袋を奪い取る。乱雑に包装紙を破くと、中身を見て顔を綻ばせた。 「おい、相川。ここのどら焼きは美味いんだぞ」  攻がいるというのに、二人してかぶりつく。そして「美味ぇなぁ」と声を合わせて笑い合った。本当は攻が適当に選んだものだったが、決して自分の手柄にはしたくなかった。  お茶も出されないまま、二人がどら焼きを食べ終えるのを見計らって、攻は話を切り出した。 「絵を横取りされたそうですね。地元の重鎮に」 「これを見ろよ」  そう言って、熊谷は攻に新聞の切り抜きを見せた。東京では決してお目にかかれない地方紙の一面記事。そこには白髪頭で眉も髭も白い老人が、油絵の前でにこやかな表情を浮かべている。ただの好々爺で無いことは鋭い眼差しが物語っていた。  記事にはこう書かれている。「白井景光、新作『真夜中のデカダンス』を発表。ゴッホを彷彿とさせる退廃美」。真夜中の工場を描いたのだろう。うねるような筆致によって、無機質なはずの機械や配管が生き物のように蠢いている。モノトーンで描かれていながら、影もあれば光も感じられて表情豊かだった。  真夜中の工場で単発のアルバイトをした時にインスピレーションを得たと、熊谷は唾を飛ばしながら熱弁を奮う。確かに白井が自分の絵として横取りしたくなる気持ちも分からなくはない。熊谷にしては奇跡のような快作だと攻は思った。 「こいつは気に入った絵を見つけるたびに、自分の絵として発表するんだ。横取りされた奴らはみんな泣き寝入りさ。逆らえば地元で絵が描けなくなってしまうからな。その後で新作を発表しても、白井を真似したと中傷される奴もいるんだ。酷い話だろ?」 「白井という男はそんなに偉いのかい?」 「ああ。かつては県議を務めたくらいだから権力はある。美術界にも顔が利くらしいからな。絵描き一人を潰すなんて容易いものさ」  攻は少なくとも東京で白井の名前を耳にしたことはない。司も同じだろう。井の中の蛙。そんな言葉が頭に浮かんだ。 「貴方が描いたと証明できるものはないのですか? サインとか……」 「サインは入れたが、上から塗り潰されちまった。サインのために絵の具を削るのは難しいし、そうはさせてくれないだろ?」  熊谷の言うとおり、油絵は上塗りされた絵の具を剥がすと、その下のサインも一緒に剥がれてしまう。プロの修復士に頼めば出来ないこともないが、それは白井が許さないだろう。 「先生、あの絵の下には違う絵が描かれているんだろ? それが証明できれば……」  横から相川が口を挟んできた。 「違う絵?」 「……ああ。どうしてもすぐに表現したくて、すでに絵が描かれていたキャンバスに上書きしたんだ」  すぐに表現したいというより、キャンバスを買う金が無いから上書きせざるを得なかったというのが本当のところだろう。こんな狭い安アパートに二人で暮らすくらいだから、生活は苦しいに違いない。攻はため息をついて提案した。 「それなら『赤外線リフレクトグラフィー』と言って、赤外線を使って下絵を透視する方法がありますよ。金はかかりますがね」  おそらく、熊谷が懇願すれば司はポンとそのための金を出すだろう。悔しいが、だからと言って攻のポケットマネーを使うのは絶対に嫌だった。 「先生。それで汚名を晴らそうぜ。白井の鼻を明かしてやるんだ!」  さっそく相川が食いついてきた。その割に熊谷の表情は冴えない。 「でも、金がかかるんだろ? 俺たちにそんな金は無ぇよ」 「きっと、弓岡なら出してくれるって。先生のこと好きなんだからさ」  攻は思わず相川を握り拳で殴ってやろうかと思った。けれども、それより早く熊谷が首を横に振る。 「ダメだ。そんなこと、あいつにはさせられねぇ」  何かがおかしい。熊谷は自分の絵を横取りされて悔しいと手紙を送ってきた。なのに、攻が赤外線で下の絵を見られると提案した途端、消極的になった。 「ちなみに『真夜中のデカダンス』の下には何が描かれていたんですか?」  熊谷は少し考えて 「ただの落書きだよ……」 とだけ呟いた。攻はこれ以上話しても埒が明かないと思い、立ち上がった。それを相川が咎める。 「なんだよ。もう帰るのか?」 「ええ。事情は分かりましたから、後は弓岡君に話して、どのような対応をするか考えたいと思います」  そして、最後に熊谷へ目を向けた。 「熊谷先生、私たちは貴方の名誉を取り戻すために、惜しみなく協力するつもりです。気が向いたら、いつでも連絡をください」  隠すつもりならとことん暴いてやるまで。攻は自分のポケットマネーを使うことになっても惜しくないと思った。 「……無理しなくていいんだぜ?」  相川の喜びようとは裏腹に、熊谷は最後まで後ろ向きだった。 *  見送りも無いまま攻が外に出ると、シトロエンに誰かが乗っているのが見えた。慌てて駆け寄ると、助手席にはいつもの黒いスーツを着た司がいる。運転席に滑り込むなり、矢継ぎ早に問いかけた。 「こんなところで何をしてるんだい? 仕事は? どうやってここに?」 「居ても立ってもいられなくて、リスケして新幹線で追いかけてきたのです。合鍵を持っていて助かりましたよ。結構待ちましたからね」  そう言って、司は攻から渡されていたスマートキーを見せる。攻はお手上げのポーズをして呆れてみせた。 「まったく、君の行動力には驚かされるよ。東京で大人しくしていると思った私が大間違いだった」  司がクスクス笑う。それが可愛らしくて、攻は唇を奪った。司が慌てて体を離す。 「熊谷先生に見られます!」 「心配いらないよ。今ごろ私が買ってきたお土産のどら焼きに舌鼓を打っているだろうからね」  決して、相川と一緒に暮らしているとは言えない。司を傷つけてしまうから。自ら熊谷に会おうとしなかったのが幸いだった。 「さあ、早く君の実家へいこう。こんな不潔なところ、君には相応しくないからね」  エンジンがかかるなり、攻はアクセルを踏み込んでハンドルを切った。タイヤが軋む音がする。司が声を上げる暇もなく、シトロエンは熊谷と相川のアパートから逃げるように遠ざかっていった。

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