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01-02.鳥居の向こう
昼を過ぎても、何もすることはなかった。
昼飯に出されたそうめんを食べて、食後に麦茶を飲んで、それからしばらくテレビを眺めた。
知らない芸能人が知らない店で飯を食っている番組しかやっていなくて、十分もしないうちに飽きた。
ゲームを起動してみたけど、家にいる時みたいに面白くない。
友達にメッセージを返そうとして、やめた。
田舎、最悪。
それだけ送ろうかとも思ったけど、送ったところで「山行けよ」とか「川で泳げよ」とか、母さんと同じようなことを言われる気がした。
山も川もいらないっつってんのに。
充電中のスマホを畳の上に置いて、立ち上がる。
じっとしている方が暑い。
廊下へ出ると、床板が足の裏でみし、と鳴った。家の中は薄暗いくせに、開け放した縁側の向こうだけ妙に明るい。
庭の葉が照り返した光で白っぽく見えて、その奥から蝉の声が絶え間なく押し寄せてくる。
じいちゃんは台所にいた。
背中を丸めて、流しで何かを洗っている。
声を掛けるか少し迷ってそのまま玄関へ向かおうとしたら、振り返らずに言われた。
「どこ行く」
「その辺」
「暑いぞ」
「家にいても暑いし」
「帽子かぶってけ」
玄関脇の棚に、いつからあるのか分からない麦わら帽子が置いてあった。
……絶対かぶりたくねえ。
「いらない」
「倒れても知らんぞ」
「倒れねえよ」
靴を履いて立ち上がる。
引き戸へ手を掛けたところで、じいちゃんがもう一度声を掛けてきた。
「山には入るなよ」
手が止まった。
「山?」
「裏の道をまっすぐ行くと、古い鳥居がある。その先には行くな」
「鳥居まではいいの」
「揚げ足を取るな」
「取ってねえし。どこからが山なのか聞いただけ」
返事はなかった。
振り返ると、じいちゃんは相変わらず流しに向かっていた。
水の音に混じって、小さくため息をついたような気もする。
「とにかく、鳥居の向こうへは行くな」
「はいはい」
「返事は一回でいい」
「はーい」
今度はちゃんと一回だけ返してから戸を閉める。
じいちゃんは、母さんより小言が少なくてやりやすい。
足を一歩踏み出すと、むわっとした熱気が顔にぶつかった。
家の中も十分暑かったはずなのに、外は別物だった。地面から立ち上がる熱と、草の匂いと、湿った風が一度にまとわりつく。
数歩歩いただけで、背中に薄く汗が浮いた。
あっちぃ。……やっぱり出なきゃよかった。
とはいえ、すぐ家へ戻るのも負けたみたいで嫌だった。
誰に負けるのかは知らない。でも癪なもんは癪だ。
とりあえず道を歩く。
じいちゃんの家の周りには、似たような古い家が何軒か並んでいた。どの家も庭が広くて、塀から枝や葉っぱが好き勝手にはみ出している。
道路には人がほとんどいない。たまに軽トラックが通るくらいで、そのたびに乾いた埃が少し舞った。
電柱の影は細く、日差しを避ける役には全然立たない。
角を曲がると、小さな用水路があった。流れている水は思ったより澄んでいて、底の石まで見える。
横を歩くと、さっきまでまとわりついていた熱の中に、少しだけ冷たい匂いが混じった。
別に面白くはないけど、何もない道よりはまし。
そのまま進むと、家が少しずつ減っていった。田んぼの向こうに見えていた山が近くなる。遠くからはただの緑の塊に見えていたのに、濃い色の葉と薄い色の葉が重なって、ところどころ枝が黒く見える。
道の端には、名前の分からない草が俺の膝くらいまで伸びていた。
草むらの奥で何かが動く気配がして、びくっと足が止まる。しばらく見ていたけど、何も出てこない。
多分、虫かトカゲだ。熊とかじゃない。
こんな家のすぐ近くまで熊が来るわけない。
……来るわけねえよな?多分ない。ないったらない。問題ねえ。
気を取り直して歩き出すと、すぐに鳥居が見えた。
神社にあるような真っ赤なやつじゃない。朱色だったらしい塗装はほとんど剥げて、くすんだ茶色になっている。
柱の根元には苔が生えていて、片方は少し傾いて見えた。
鳥居の向こうには、細い登り坂が続いている。
人が通るために作られた道なのか、ただ木が生えていないだけなのか、よく分からない。
土の上にところどころ石が見えて、その上を木の根が這っている。
『古い鳥居がある。その先には行くな』
じいちゃんの声を思い出して、手前で立ち止まった。
別に行くつもりはない。
先に進むなと注意はされたけど目の前まで来るなとは言われてないし。
見るだけなら問題ねえだろ別に。
鳥居を見上げる。
近くで見ると、上の方に細いひびが入っていた。
何か文字も彫ってあるけど、黒ずんでいて読めない。柱の脇には細い縄が垂れていて、その先に紙がついていたような跡だけが残っている。
風が吹いた。
汗ばんだ首筋に触れた風は、生ぬるいのに少しだけ気持ち良い。
鳥居の向こうで、葉が揺れる。
かさり、と音がした。
誰かいるのかと思って目を凝らしたけど、木と影しか見えなかった。
「……んだよ」
誰に言うでもなく呟く。
蝉は相変わらず鳴いている。
家の周りで聞いていた声とは少し違って聞こえた。数が減ったわけじゃない。むしろ、近い。
木の幹や葉の裏から、俺だけに向かって鳴いているみたいに音が集まってくる。
鳥居のすぐ手前まで一歩近づく。
まだくぐっていない。
ここまではいい。
つま先だけ、影の中へ入る。
「…………」
何も起きない。
当たり前だ。
じいちゃんも大袈裟なんだよ。
危ない場所があるなら、そう言えばいい。道に迷うとか、崖があるとか、蛇が出るとか。
何も説明せずに行くなと言うから、余計に気になる。
目の前にある道は斜面に沿って奥へ続いている。曲がりくねっていて、どこに繋がっているか見えない。
誰も使っていないようには見えるけど、歩けないほど荒れているわけでもない。
少し進んで、危なそうなら戻ればいい。
俺は柱の横に回り込んだ。
くぐるなとは言われたけど、横を通るなとは言われていない。
一度思いついたらやらない方が馬鹿らしくなった。
鳥居の脇には、草の薄いところが少しだけあった。柱と木の間へ身体を滑り込ませる。
枝が肩に当たり、葉の裏に溜まっていた水滴が首へ落ちた。
「つめたっ」
思わず声が出た。
振り返る。古い鳥居は、すぐ後ろにある。
まだ戻れる。
たった一歩入っただけだ。別に何も変わっていない。
肩についた葉を払い、細い道を歩き出す。土は見た目より柔らかく、靴底が少し沈んだ。
両脇には太い木が並び、その根が道の上まで張り出している。
気をつけていないと足を取られそうだった。
ところどころに平たい石が埋まっていて、よく見ると階段みたいに続いている。
昔はここを誰かが通っていたのかもしれない。
石の表面には苔がついていて、踏むと少し滑った。
「うわ」
腕を広げて体勢を戻す。
誰も見ていないのに、何となく周りを確認した。
もちろん誰もいない。
少し先には、半分土に埋まった石灯籠があった。
笠の部分が斜めにずれていて、穴の中には枯れ葉が溜まっている。
その横には、大人二人でも抱えきれなさそうな木が立っていた。
幹の真ん中に大きな穴が開いていて、中は真っ暗。ひたすらに黒くて、俺のいる位置からは何も見えない。
覗こうとして、やめる。
虫とかがいたら嫌すぎる。
しゃがんで眺めるだけにして立ち上がる。
その時、少し先で水の音がした。
川。
母さんが言っていたのを思い出す。
じいちゃんの家の近くには川がある。
こんなところにあるなら、家からは見えないはずだ。
もう少しだけ行けば見えるかもしれない。
少しだけ。川を見たら戻る。
そう決めて、俺はさらに奥へ進んだ。
道は先ほどまでと違って、今度は緩く下っている。
木の葉が重なって、さっきまで肌を焼いていた日差しが細くなった。
涼しいというほどではないけど、外の道よりはましだ。湿った土と、青い葉と、古い水の匂いがする。
足元で、小さな何かが跳ねた。
「………ッ」
今度こそ声が出そうになったけど、ただの蛙だった。
「……っびびらせんなよ」
蛙は返事もせず、草の中へ消えた。その先に、首のない石像がある。
子供みたいな小さな身体だけが、道の脇に立っている。
手を胸の前で合わせていて、首から上は割れたのか、最初からなかったのか分からない。
足が止まる。
少しだけ、帰ろうかと思った。
川の音は近い。
木々の向こうに、明るい場所も見えている。
ここまで来て戻るのも、なんとなく悔しい。
石像から目を逸らし歩き出した途端、踏み出した足の下で枯れ枝が乾いた音を立てた。
ぱきん。
妙に大きく響くその音に少し肩が跳ねる。
同時に、あれだけうるさかった蝉の声が止んだ。
「……え」
立ち止まる。
耳が変になったのかと思った。
風で葉が擦れる音はする。少し先の水音も聞こえる。自分の息も、服が肌へ張りつく音さえ分かる。
でも、蝉だけが鳴いていない。
一匹も。
振り返ると、木の向こうに鳥居は見えなかった。
そりゃそうだ。これだけ進んだんだから見える筈もない。道だって曲がってくねってる。別に消えたわけじゃない。
そう分かっているのに、喉の奥が少し乾いた。
……帰ろう。
そう思った瞬間、どこか遠くで一匹だけ蝉が鳴いた。
それを合図にしたみたいに、周囲の木々から一斉に声が戻ってくる。
さっきまでと同じ、耳を塞ぎたくなるほどの鳴き声。
「……んだよ、もう」
胸のあたりに入っていた変な力を、息と一緒に吐き出す。
別に怖くない。
ただ急に静かになったから驚いただけ。
川を見たら戻る。
今度こそ本当にそう決めて、木々の向こうの明るい場所へ進んだ。
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