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01-05.ナツ

何がそんなに嬉しいのか分からない。名前なんて、呼びにくいから適当につけただけだ。 それなのにナツは、もらったばかりの名前を頭の中で何度も転がしているみたいに、しばらく黙っていた。 「……お前さ」 返事はない。 「ナツ」 呼ぶと、白い面がすぐにこちらを向いた。 「なに」 「いや、返事すんのかと思って」 「呼んだだろう」 「呼んだけど」 「用件は」 「……呼んだだけ」 「ふうん」 思ったより素直に振り向く。 なんとなく面白くなって、もう一度呼ぼうかと思ったけど、変なやつだと思われそうだからやめた。 変なのは俺じゃない。ナツ。こいつだ。 ナツはまだ川の中に立っていた。 水は膝の辺りを流れているのに、服も靴もやっぱり濡れているように見えない。 よく見れば濡れているのかもしれないけど、少なくとも水が染みた色にはなっていなかった。 「お前、なんでまだ川に入ってんの。冷たくねえの」 「わからない」 「なんでわからねえんだよ。出れば? つーか、どこに居たのお前」 「ここにいる」 「そうじゃなくて。最初からいたのかって聞いてんの」 「いた」 「じゃあなんで気づかなかったんだよ」 「お前が見てなかった」 「見てたし」 川を見た時、誰もいなかった。 飛び石も向こう岸も、それなりに見ていたはずだ。 こんな白い面をつけたやつが川の中に立っていたら、さすがに気付く。 「絶対いなかっただろ」 「いた」 「嘘つけよ」 「嘘じゃない」 短く言って、ナツは少しだけ首を傾けた。 何をそんなに不思議がっているのか、逆に分からないという顔に見える。 面をつけているから本当の顔なんて見えないのに、なぜかそんな気がした。 「……その面、なに」 ずっと気になっていたことを聞く。 近くで見ると、白い面は思っていたより古かった。 真っ白じゃない。少し黄ばんでいて、薄い傷もいくつかある。 片頬の朝顔だけが妙に濃く、藍色の蔓が頬の端まで伸びていた。 紐は見えなかった。 耳の後ろで結んでいるのかと思ったけど、髪の間にもそれらしいものはない。 顔にそのまま貼りついているみたいだった。 「面」 「それは見れば分かる」 「分かるなら何故聞く」 「そういう意味じゃねえよ。なんでつけてんの」 「つけてる」 「会話する気あんのかよ」 さっきから答えが答えになっていない。 いや、本人は答えているつもりなのかもしれない。余計にムカつく。 「暑くねえの」 「暑い?」 「顔にそんなのつけてたら暑いだろ」 「分からない」 「何が」 「暑いか分からない」 「は?」 今日は何度こいつに「は?」と言わされるんだろう。 暑いのが分からない人間なんているのか。俺なんて立っているだけで背中に汗が流れている。 「汗かいてねえの?」 「汗?」 「知らねえのかよ」 「知ってる」 「じゃあなんで聞き返したんだよ」 「お前はよく出る」 「見てんじゃねえよ」 反射的に首筋を手で拭う。掌が少し湿った。 その様子を見ているのか、白い面がわずかに傾く。 「暑そう」 「暑ぃんだよ。お前もその面外せばいいじゃん」 「外す?」 「顔洗うとか。川にいるんだし」 ナツは何も言わなかった。 川の音だけが耳の中をざわざわと揺らす。 さっきまで近くで鳴いていた蝉の声が、少し遠くなったような気がした。 「なに」 「見たいのか」 「は?」 ナツが片手を上げた。細い指が、面の端へ触れる。 面の下を。 そういう意味だと分かるまで、少し時間がかかった。 「……いや、べつに」 「見たいから言ったのではなく?」 「ちげえよ。ただ何かなって」 「ふうん」 なんだ、その言い方。 馬鹿にされた気がする。 「別に見てもいい」 「あそ。見せたいなら勝手に見せれば」 「見たら死ぬぞ」 あまりにも普通の声で言うから、一瞬意味が分からなかった。 「……は?」 「死ぬ」 「誰が」 「お前が」 「なんで」 「見たら死ぬ」 また答えになっていない。 ナツの指は、まだ面の端に触れたままだった。 「嘘つけ」 「嘘じゃない」 「顔見ただけで死ぬわけねえだろ」 「死ぬよ」 「じゃあお前、今まで顔見せたやつ全員殺してんの?」 「見せてない」 「親もいない、友達もいない、顔も誰にも見せない。お前ほんとに何なんだよ」 ナツは答えなかった。 面の奥からじっと見られている気がする。 でも、怖いというより、こいつの言うことがどこまで本気なのか気になった。 「外してみろよ」 「いいのか」 「どうせ嘘だろ」 「死ぬぞ」 「死なねえし」 ナツの指が動いた。 面の端が、ほんの少しだけ浮く。 黒い隙間が見えた。 その瞬間、反射的に目を閉じた。 「……」 何も起きない。 川の音がする。 蝉も鳴いている。 少しして、すぐ近くで小さく息が弾んだ。 笑われた。 そう気づいて目を開ける。 白い面は、元の位置に戻っていた。 「お前ッ!」 ナツは何も言わない。 でも絶対笑っている。 面の口は閉じたままなのに、さっきまで静かだった顔が、今は妙に楽しそうに見えた。 「目閉じた」 「閉じてねえ」 「閉じた」 「眩しかっただけ」 「木陰なのに」 「うるせえ」 顔が熱い。 暑さのせいだ。絶対に。 「怖かった?」 「っ怖くねえよ」 「死ぬかと思った?」 「思ってねえ」 「でも閉じた」 「反射だっつってんだろッ!」 ナツの肩が少し揺れた。 やっぱり笑っている。 助けてもらったことなんて、もうすっかりどうでもよくなっていた。 「馬鹿にしてんじゃねえぞ」 「してない」 「くそっ、別にビビってねえし。何が死ぬだよ」 「見たら死ぬ」 「うるせえな」 「ビビリ」 「ちげえって言ってんだろ!」 川の中で、ナツがまた少し笑った気がした。 さっき名前を呼んだ時とは違う。 今度は、俺をからかって楽しんでいる。 むかつく。 すげえむかつく。 でも、さっきまで帰ろうと思っていたことは、いつの間にか忘れていた。

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