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01-06.山が悪い
次の日も、蝉はうるさかった。
朝から木という木で鳴き続けていて、窓を閉めても少しも静かにならない。
昨日より慣れた気もするし、やっぱり全然慣れていない気もする。
朝飯を食べて、しばらくテレビを見て、ゲームをして、それから時計を見た。
まだ十時を少し過ぎたところだった。
縁側では、じいちゃんが座布団に座って新聞を読んでいた。
横には飲みかけの麦茶が置いてある。グラスの水滴が畳へ落ちそうになっていて、何となく目で追う。
「出掛けるのか」
立ち上がったところで声を掛けられた。
「その辺」
「昨日もその辺だったな」
「この辺何もねえし、どこ行ってもその辺だろ」
じいちゃんは新聞から目を上げた。
何か言われるかと思ったけど、じっと俺を見るだけだった。
昨日のことがばれたのかもしれない。
膝には擦り傷があるし、靴の先もまだ少し汚れている。ズボンの泥は洗ったけど、完全には落ちなかった。
鳥居の向こうへ行ったことがばれたら、多分怒られる。
そう思ったら、急に背中が落ち着かなくなった。
「なに」
「いや」
じいちゃんはまた新聞へ視線を戻した。
「帽子は」
「いらねえ」
「そうか」
怒られるかと思って身構えたけど、それだけだった。
少しだけ拍子抜けしながら、玄関へ向かう。
別に、昨日と同じ場所へ行くと決めていたわけじゃない。
家にいても暇だし、外へ出るだけだ。山へ行くとも決めてない。
あいつに会いに行くわけでもない。
ただ、川の近くは少し涼しかったし、暇を潰すにはちょうどいいと思っただけだ。
鳥居まで来た時もそう自分に言い聞かせた。
昨日と同じ古い鳥居が、木の陰に立っている。
塗装の剥げた柱も、黒ずんだ文字も、垂れた縄も何も変わっていない。
鳥居の柱を見上げたまま立ち止まり、少しだけ迷った。
じいちゃんには、向こうへ行くなと言われている。
昨日は事故みたいなものだ。横を抜けたら道があって、何となく進んだだけ。
今日は違う。分かっていて来ている。
行く理由は別にない。でも行かない理由も同じくらいない。
そもそも昨日だって無事に帰ってきた。危ないのは川の飛び石であって、道そのものじゃない。
もう飛び石には乗らない。川を見るだけ。
それに、もしナツがいたら、昨日のことを少し聞きたい。
どうして濡れないのかとか、どこから来たのかとか。
名前をつけたまま帰ったけど、まだ友達になったわけじゃない。
助けてくれた相手がどんなやつか確認するくらいは普通だろ。
周囲を見回す。誰もいない。
昨日は鳥居の脇から入った。
でも結局その先の小道まで行ったのだから、正面から入ろうが横から入ろうが関係ない気がする。
……関係ない気はするけど、柱の間を通る気になれなくて、また横へ回った。別にビビっているわけではない。
昨日よりも道が短く感じる。
半分埋まった石段も、穴の開いた大木も、首のない石像も、一度見てしまえばそこまで怖くない。
昨日は正体の分からないものばかりだったけど、今日は場所が分かる。
この先には川がある。
そのことを知っているだけで、少し歩きやすかった。
半分土に埋まった石灯籠の前まで来た時、上の方から声がした。
「また来たのか」
足が止まった。見上げる。
石灯籠の横に立つ太い木、その低い枝にナツが座っていた。
片足を垂らし、もう片方の膝を抱えている。昨日と同じ白い面が、真っ直ぐこちらを見下ろしていた。
「……何してんのお前」
「木の上にいる」
「それは見れば分かる」
「お前、昨日も言っていた」
「何を」
「『見れば分かる』」
なんでか、少しだけ得意そうな声だった。
昨日の俺の言葉を覚えていたらしい。自慢げだ。
「真似すんなよ」
「真似?」
「今の。俺が言ったやつ」
「使ってはいけない?」
「別にそういうわけじゃねえけど」
少し調子が狂う。
ナツは枝から軽く飛び降りた。
着地した場所には枯れ草が積もっていたのに、ほとんど音がしなかった。
「昨日、いつ帰ったの」
「ずっといた」
「は?」
「お前が帰った後も、いた」
「家帰らないの」
「家?」
「住んでるところ」
「ここ」
ナツは周囲を見た。
木、石灯籠、草、道。
どれを指しているのか分からない。
「ここってどこだよ」
「ここ」
「だから、それじゃ分かんねえって」
「分からない?」
「分からねえよ。家とかあるだろ。寝るとことか」
「『分からねえ』」
また真似しやがったこいつ。
「嘘つけ。あと真似すんな」
「真似してはいけない?」
「いけなくはねえけどムカつく」
「ムカつくのか」
「俺のことはいいだろ。お前だよ。寝てねえのかよお前」
「寝てない」
「嘘つけよ。寝ねえ奴なんていんの」
言ってから、少しだけ引っかかった。
ナツは何も答えなかった。
白い面がこちらを向いている。
昨日からずっと、こいつは何か変だ。
名前がない。親もいない。水に濡れない。暑さも分からない。眠らない。
まともに考えたらおかしい。
でも、俺と同じくらいの背丈で、普通に喋る。からかって笑うし、昨日は俺を助けた。
たぶん近所に住んでいるであろう、変な子供。
今はそれでいい気がした。
分からないことを考えても、多分ナツはまともに答えない。
「お前、ここ詳しいの」
「知ってる」
「じゃあ案内して」
「どうして」
「暇だから」
「私が?」
『私』。
聞き慣れない一人称にちょっと目を見開く。
女以外が使ってるの初めて聞いた。……いや待てよ。もしかしてわかりにくいだけで女なのかこいつ。
「お前、女なの」
「違う」
「なんで『私』?」
「…………」
ナツは少し黙った。
「なあ、なんで」
「お子様には『分からねえ』」
「はあ!?」
「……『俺』。うん、俺。俺に案内して欲しいの」
私と言ったり、俺と言ったり、どっちだよ。わけわかんねえ。あと真似すんな。
色々言いたいことはあったけど、頼んだ立場ではあるのは分かっていたから口をつぐむ。ちょっと面白くなくて、気づけば唇が尖っていた。
ナツが俺を見る。
案内が嫌なのかと思ったけど、白い面を道の奥へ向けて歩き出した。
「ついてこい」
「偉そう」
「案内してと言ったのはお前」
「言ったけどさ」
ナツは振り返らなかった。
昨日、自分一人で歩いた時よりも少し速い。
木の根を避け、滑りやすい石を踏まず、迷いなく進んでいく。
俺はその後ろを追った。
「そこは踏むな」
突然言われて足を止める。
一歩先に、苔のついた平たい石があった。
「なんで」
「怒る」
「誰が」
「石」
「石が怒るわけないだろ」
「踏めば分かる」
「じゃあお前踏めよ」
「嫌だ。怒る」
「だから誰がだよ」
「石」
それ以上ナツは何も答えず、石を避けて進んだ。
本当に何かあるのかもしれない。
そう思うと踏む気にはなれなかった。
石を跨ぐ。
少し先には、赤い実のついた低い木があった。
ナツはその前で立ち止まり、枝を一本持ち上げた。
「食うな」
「食わねえよ。毒?」
「腹が喋る」
「は?」
「うるさくなる」
「腹が?」
「そう」
絶対に嘘だ。
そう思ったけど、ナツは真面目な声だった。
「お前は食えんの」
「今日は口がある」
「いつもあるだろ。面の下に」
ナツは赤い実を一つ摘まみ、白い面の前へ持っていった。
食べるのかと思って見ていたけど、結局口へ運ばず、指先で転がしているだけだった。
「食わねえの?」
「見てる」
「何が楽しいんだよ。赤いだけじゃねえか」
「『見れば分かる』」
ナツがこちらを向いた。少し笑っている気がする。
また俺の言葉を使ったつもりらしい。
「だから真似すんなって」
「使ってはいけない?」
「さっきも聞いたな、それ」
「言っていた」
「覚えなくていいことばっか覚えんなよ」
ナツは赤い実を枝へ戻そうとした。
一度取ったものが戻るわけない。
指先から離れた実は葉に当たり、そのまま地面へ落ちた。
ナツは少し黙った。
「戻らない」
「そりゃそうだろ」
「何故」
「取ったからだよ」
「取ると戻らない?」
「普通はな」
「ふうん」
ナツは地面に落ちた実を見ていた。
声を掛けようとした時、ナツが歩き出した。
何となく気になって、俺も赤い実を見る。
何の変哲もない、小さな実だ。
取ったら戻らない。
そんなことも知らないのか。
山のことは何でも知っていそうなのに、変なところで何も知らない。
「こっち」
少し先から呼ばれた。
赤い実から視線を離して、ナツの後を追う。
ナツが案内したのは、大きな木の根元だった。
地面から太い根が何本も盛り上がり、その間に水が溜まっている。
よく見ると、石の隙間から少しずつ湧き出していた。
「ここは飲める」
「ほんとに?」
「飲める」
「腹、喋らねえ?」
「これは喋らない」
しゃがんで水へ手を入れる。
川より少しぬるいけど、十分冷たい。
掌ですくって口へ運ぶと、味はほとんどしなかった。少し土みたいな匂いがするだけで、普通の水だ。
「うまい?」
「普通」
「ふうん」
「お前は飲まねえの」
「今日は喉がない」
「さっき口はあるって言っただろ」
「口と喉は違う」
「意味分かんねえ」
「違うだろ」
「そういう問題じゃねえよ」
ナツは自分の言っていることが当然だと思っているらしい。
説明する気もなさそうだった。
俺はもう一度水を飲み、濡れた手をズボンで拭いた。
面をこちらへ向けたナツが、道の先を指す。
「向こうに穴がある」
「穴?」
「大きい」
「さっきの木?」
「違う。もっと大きい」
少し得意そうだった。
何となく、見せたがっている気がする。
「行く?」
「まあ、暇だし」
「ふうん」
「何だよ」
「別に」
またその言い方だ。
先に歩き出したナツを追いかけようとした瞬間、目の前を進む足が木の根へ引っかかった。
身体が前へ傾く。
両手をつく寸前で何とか踏み止まったけど、白い面が枝へ軽くぶつかった。
バシッ、と乾いた音がした。
「……」
「……」
しばらく沈黙する。
ナツは何事もなかったみたいに姿勢を戻し、そのまま歩き出そうとした。
「今、転んだ?」
「転んでない」
「躓いたじゃん」
「山が悪い」
なんだ、山が悪いって。転んだのお前じゃん。
堪えきれずに笑った。
ナツが止まる。
「なに」
「いや、山が悪いって」
「悪い」
「お前が足元見てなかっただけだろ」
「見てた」
「じゃあなんで躓くんだよ」
「地形が悪かった」
「急に規模でかくなってんじゃん」
笑いながら言うと、ナツは不満そうにこちらを見た。
面のせいで本当の顔は分からない。
でも、絶対に拗ねている。
「笑うな」
「笑ってねえよ」
「笑ってる」
「笑ってねえって」
「嘘」
「嘘じゃねえし」
昨日のやり取りと逆になっていることに気づいて、また笑った。
ナツはますます不機嫌そうに顔を逸らした。
それでも帰れとは言わない。
何となくそれが嬉しいような気がする。なんとなく。ちょびっとだけ。ほんとにちょっと。
しばらくすると、また先を歩き始めるから、俺もその後を追った。
その日、ナツは大きな木の洞と、変な形の石と、夕方になると振り返ってはいけない坂を教えた。
どうして振り返ってはいけないのか聞いても、「ついてくる」としか言わなかった。何が、と聞いても答えない。
全部本当なのか、半分くらい嘘なのか分からない。
相変わらず、本人は説明する気がなさそうだった。
それでも、昨日までただ暗くて気味が悪かった小道が、今日は少し違って見えた。
赤い実は食べるな。
木の根元の水は飲める。
苔のついた石は踏まない。
ナツが教えたものを一つずつ覚えていくと、知らない場所だった道に、少しずつ目印が増えていった。
帰り道、鳥居の手前で振り返る。
ナツは少し離れたところに立っていた。
「明日も来るのか」
急に聞かれた。
「知らねえ」
「ふうん」
「暇だったら来る」
「そう」
それだけ言って、ナツは白い面をこちらへ向けている。
待っているとは言わない。来いとも言わない。
でも、何となく明日もいる気がした。
鳥居の横を抜け、人のいる道へ戻る。
家へ向かう途中、さっきナツが躓いた時のことを思い出して、また少し笑った。
昨日までは、どこを見ても知らないものばかりだった。
今日は、帰ったら誰かに話したくなることが一つだけあった。
話す相手はいないけど。
ナツのことは、何となく誰にも言わない方がいい気がした。
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