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01-07.お前虫
それから、俺はほとんど毎日山へ行った。
別に約束したわけじゃない。
ナツも来いとは言わなかったし、俺だって明日も行くとは言っていない。
ただ、朝飯を食べて、テレビを見て、ゲームをして、それでも時間が余ると、何となく外へ出た。
じいちゃんには「その辺」と言って、古い鳥居まで歩く。
鳥居の横を抜けて小道へ入ると、ナツは大体どこかにいた。
石灯籠の上に座っている日もあれば、木の枝にぶら下がっている日もあった。
川の中に立ったまま、流れてくる葉っぱを延々と見ていることもある。
何が楽しいのかは分からない。
でも呼べば振り向いた。
「ナツ」
「なに」
名前をつけた最初の日から、返事だけは毎回早かった。
たまにわざと小さな声で呼んでも、少し離れたところからちゃんと顔を向ける。
どこまで聞こえているのか試していると、「何度呼ぶ」と少し面倒そうに言われた。
「別に。聞こえてんのかなって」
「聞こえてる」
「どのくらい離れたら聞こえなくなんの?」
「山の中なら聞こえる」
「嘘つけ」
「嘘じゃない」
いつもこんな調子だった。
ナツは山のことなら何でも知っていた。
どの木の実が食えるとか、どこに魚がいるとか、暗くなったら通ってはいけない道があるとか。
何を聞いても答えるわけじゃないけど、危ないものだけは先に教えた。
「それ触るな」
木の幹についている白い塊へ手を伸ばすと、後ろから止められる。
「なんで」
「刺す」
「何が」
「中にいるやつ」
「中って何だよ」
「触れば出てくる」
「だから何が」
ナツは答えない。
白い面を塊へ向けたまま、じっと見ている。
気になる。
すげえ気になる。
でも、刺すと言われているものを触るほど馬鹿じゃない。
伸ばした手を素直に引っ込めた。
「びびった?」
「びびってねえよ」
「触らないの」
「刺されんのが面倒なだけ」
「怖くない?」
「怖くねえ」
むっとして反射的に否定すると、ナツの肩が少し揺れた。
最近、こいつはよく笑う。
最初の頃は言葉も少なくて、何を考えているのか全然分からなかった。
今も分からないことの方が多いけど、からかっている時だけは分かるようになった。
「お前、なんか前よりムカつく」
「前もムカつくと言っていた」
「今の方がムカつく」
「そうか」
なんで少し嬉しそうなんだよ。
別の日、ナツは俺の帽子を勝手に取った。
じいちゃんに何度もかぶれと言われて、仕方なく持ってきた麦わら帽子。
かぶるのは嫌だったから、小道へ入ってすぐ手に持って歩いていた。
川辺で少し休んでいると、隣に座ったナツが急に手を伸ばしてくる。
「おい」
取り返すより先に、ナツは帽子を自分の頭へ乗せた。
白い面の上から麦わら帽子をかぶっている。
面の額に帽子の縁が当たり、少し斜めになっていた。
変だ。すげえ変。
「似合わねえ」
「そうか?」
「面と合ってねえし」
「お前よりは似合う」
「はあ? 返せよ」
手を伸ばすと、ナツは身体を反らして避けた。
「お前、いらないと言っていた」
「持ってきてんだからいるんだよ」
「かぶってない」
「今からかぶろうと思ってた」
「嘘」
「嘘じゃねえし」
立ち上がったナツを追いかける。
ナツは木の根を軽く飛び越えて、そのまま小道を走った。
普段はたまに躓くくせに、こういう時だけ妙に速い。
「待てっ!」
「遅い」
「返せっつってんだろッ!」
「取ればいい」
「っ止まれよ!」
ナツは振り返りながら走った。
面のせいで表情は見えない。
でも絶対笑っている。
後ろ向きに走っていて足元を見ていなかったのか、ナツが飛び出した根に思いきり引っかかった。
身体が前へ傾き、帽子が飛んだ。
ナツは両手をついて、ぎりぎり顔を地面へぶつけずに止まった。
「……」
「……」
俺は落ちた帽子を拾った。
少し土がついている。
「ナツ」
「転んでない」
まだ何も言ってないのに、言い訳が返ってくるのが早い。
ナツのこういうところは嫌いじゃない。ちょっと笑ってしまう。
「今のは転んだだろ」
「手をついただけ」
「それを転んだって言うんだよ」
ナツはゆっくり立ち上がり、服についた葉を払った。
「根が悪い」
「また山のせいにすんのかよ」
「今回は根」
「細かくしただけじゃん」
更に笑うと、ナツは白い面をそっぽへ向けた。
少し拗ねている。
帽子についた土を手で払い、自分の頭へ乗せた。
「ほら、俺の方が似合う」
「自意識過剰」
「負け惜しみ」
「似合わねえ」
……似合わないじゃなくて、似合わねえ?
「……お前、今なんて言った?」
「似合わねえ」
「その言い方」
「なに」
「そんな喋り方してなかっただろ」
ナツは少し首を傾けた。
「している」
「してねえよ。もっと『似合わない』とか、『違う』とか、変に丁寧じゃん」
「変?」
「なんか変だった」
「お前に言われたくねえ」
「ほら、それっ!」
指を差す。
ナツは俺の指先を見て、それから少し考えるように黙った。
「お前がそう言う」
「俺?」
「うつった」
「はあ? 俺のせいにすんなよ」
「お前のせい」
「勝手に真似してんのお前だろ」
「勝手じゃねえ」
「じゃあ何だよ」
「聞こえるから覚えた」
当たり前のことみたいに言う。
少し変な気分になった。
俺の言葉を、ナツが覚えている。
何度も聞いて、そのまま使っている。
別に大したことじゃない。
人と喋っていれば、言い方が似ることくらいある。
でも、ナツには他に友達がいない。
誰にも呼ばれないと言っていた。
名前もなかった。
そう考えると、何となくむずむずした。
「……口悪くなったな」
「お前ほどじゃねえ」
「俺のせいみたいに言うな」
「お前が悪い」
「なんでだよ」
ナツは楽しそうに笑った。
その言い方まで俺に似ている気がして余計に腹が立つのに、口許が勝手に緩む。
ニヤけてんじゃねえよ、俺。
違う日に、虫を捕まえようと言い出したのは俺だった。
最初に母さんから田舎には虫がいると聞いた時は、何が楽しいんだと思ったのに。
実際今でも虫が好きなわけじゃないけど、山の中には見たことのないやつが多かった。
色の変な蝶とか、角のやたら長い虫とか、木の枝と区別がつかない細いやつとか。
都会で見るものより大きくて、少し気持ち悪い。
ナツは、そういう虫がどこにいるかも全部知っていた。
「そこ」
ナツが木の上を指した。
見上げても、葉しか見えない。
「どこ」
「枝の裏」
「分かんねえ」
「いるだろ」
「見えねえって」
ナツは少し背伸びをして、低い枝を引っ張った。
葉の裏に、緑色の大きな虫が張りついていた。
「うわっ」
思わず一歩下がる。
「いた」
「っ急に近づけてんじゃねえよ!」
「見えないと言った」
「だからって目の前に出すな!」
虫は細長い脚を動かして、葉の裏へ回り込んだ。
ナツが、逃がさないように枝を傾ける。
「これ何」
「雨の前に鳴くやつ」
「名前聞いてんだけど」
「雨の前に鳴く」
「それ特徴だろ。名前じゃねえよ」
「名前はない」
「あるだろ。虫には大体あるだろ」
「お前がつければいい」
「何でも俺につけさせんな」
ナツは虫と俺を交互に見た。
白い面が少し傾く。
「お前に似てる」
「は?」
「よく鳴く」
「鳴いてねえよ」
「うるさい」
「喋ってんだよッ!」
「乱暴にうごめく」
「悪口じゃねえか!」
「『お前虫』」
「名前つけんなっ!」
ナツの肩が揺れた。
「お前虫」
「二回言うな」
「似てる」
「どこがだよ」
「うるさいところ」
「お前がムカつくこと言うからだろうがッ!」
俺が反応すればする程、ナツは楽しそうに肩を揺らす。
虫はその間に枝から落ち、羽を広げて飛んでいった。
「あ」
ナツが空を見上げる。
「逃げた」
「お前がくだらねえこと言ってるからだろ」
「お前がうるさいから」
「俺のせいにすんな」
「お前がわりぃだろ」
『わりぃ』。
まただ。また、ナツの口調が崩れてる。
「……悪ぃ?」
思わず反復するとナツが黙った。
少し経ってから、澄ました声が聞こえる。
「悪い」
言い直しやがった。
「今、『悪ぃ』って言った」
「言ってない」
「言った」
「言ってねえ」
「言ってんじゃん」
ナツは少し黙った。
それから、白い面の奥で息を弾ませた。
「うつった」
「嬉しそうに言うなよ」
「わりぃの?」
「悪くはねえけど」
言ってから、何となく負けた気がした。
「いや、悪い。口悪くなるからやめろ」
「もう遅い」
「何が」
「覚えた」
ナツはそう言って、先に歩き出した。
「忘れろ」
「忘れねえ」
「だからそういう言葉覚えんなって」
「お前は使うだろ」
追いかけながら文句を言う。
ナツは振り返らない。
でも、歩く速さが少しだけ遅くなった。
俺が追いつくのを待っているみたいに。
その日は、結局一匹も捕まえられなかった。
ナツは虫がどこにいるか知っているくせに、捕まえる気がない。
見つけるたびに俺の顔の近くへ持ってきたり、急に背中へ乗せようとしたりする。
一度、本当に肩へ何かが落ちた。
首筋を硬い脚が這う感覚がして、変な声が出る。
「うわっ、なに、何ッ!?」
手を振り回しながらしゃがみ込む。
ナツは少し離れたところで、肩を揺らしていた。
虫はとっくに飛んでいなくなっている。
「っお前、今やっただろ」
「何を」
「虫乗せやがったな……!」
「乗せてねえ。置いただけ」
「はあ? それを乗せたって言うんだろうがよ」
「知らねえ」
すっとぼけやがって、こいつ。
「おい、笑ってんだろ」
「笑ってない」
「肩揺れてんじゃねえか」
「地面が揺れた」
「山どころか地面のせいにし始めやがって……」
とうとう我慢できなくなって、近くに落ちていた枯れ葉を掴み、立ち上がりざまにナツへ投げた。
葉っぱはひらひら飛んで、ナツの胸元に当たる前に落ちた。
「下手くそ」
「うるせえ!」
今度はもう少し大きな葉を投げる。
ナツは避ける。俺はまた投げる。
そのうち虫取りなんてどうでもよくなって、二人で葉っぱや細い枝を投げ合った。
もちろん太いやつや石は使わない。
怪我するからだ。
ナツはそういう加減だけは何も言わなくても分かっていた。
俺が本気で嫌がる虫はすぐ逃がしたし、転びそうになれば手を伸ばした。
でも俺が怒るのは面白いらしく、ぎりぎりのところまで何度もからかってくる。
すげえムカつく。ムカつくのに、毎日楽しい。
気づけば日が傾き始めていた。
木々の隙間から入る光が少し黄色くなり、蝉の声に別の虫の音が混ざっている。
「帰らねえと」
そう言うと、ナツは川の方を見た。
「……もう?」
「じいちゃんに怒られる」
「怒られるの怖えの」
「怖くねえよ。面倒なだけ」
「ふうん」
またその言い方だ。
「明日は網持ってくる」
自然と、明日の約束が口から飛び出ていた。
ナツがこちらを向く。
「来るの」
「虫捕まえてねえし」
「お前虫ならいる。目の前」
「俺は虫じゃねえ」
ナツの息が少し弾む。多分笑ってる。
「明日な」
「うん」
返事はすぐかえってきた。
鳥居を出たあとも、しばらく「お前虫」が頭に残っていた。
ムカつく。
明日は絶対に何か捕まえて、あいつの顔の前へ持っていってやる。
面で見えないけど。
そう考えながら歩いていると、家へ着く頃には、明日持っていく網をどこで探すかばかり考えていた。
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