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01-08.ラムネとナツ
それから何日か経ったある日、山へ入る前に駄菓子屋へ寄った。
じいちゃんの家から少し歩いたところにある、小さな店だ。
古びた看板の下に赤い自動販売機が置かれていて、入口には色の褪せたアイスの旗が垂れている。
店の中は暗く、外より少しだけ涼しかった。
棚には見たことのある菓子と、見たことのない菓子が半分ずつ並んでいた。
小銭を握ったまましばらく眺めて、冷蔵庫の中にラムネを見つける。
青みがかった瓶が、白い冷気の奥で電灯に反射して光っていた。
ラムネも知らなかったら面白えな。
気が付いたらそんな風にナツのことを考えてしまって、何となく二本手に取って手早く会計を済ませていた。
あいつは山のものなら何でも知っているくせに、麦わら帽子のかぶり方も変だったし、普通に生活していれば知っていることを妙に知らない。
外へ出ると、瓶の表面がすぐに汗をかく。
冷えたガラスが掌へ張りつき、水滴が指の間を流れた。
二本も入れた袋は思っていたより重い。一本にすりゃ良かった。
そもそも何で俺がわざわざあいつの分まで持って歩かなきゃいけねえんだよ。一回家に帰ってじいちゃんちに一本置いてくか。
……でももう買った後だし。もう一回戻るのも面倒だし。だからもう仕方ない。仕方ないから、持ってく。
鳥居の横を抜け登り坂の小道を進んでいく。
今日は道の途中でナツが見当たらなかった。
石灯籠にも、木の枝にもいない。
いつもなら適当なところから声を掛けてくるのに、川の音が近くなっても何も聞こえなかった。
「ナツ」
呼んでも返事がない。
少し進んで、もう一度呼ぶ。
「ナツ」
今度は、すぐ横から声がした。
「うるせえ」
「うわっ!」
振り向く。
ナツは太い木の幹にもたれて立っていた。
いつからいたのか分からない。
さっき見た時には、そこには誰もいなかったはずだ。
「お前、いたなら返事しろよ」
「しただろ」
「二回目じゃねえかよ。一回目からしろよ」
「まあ、聞こえてはいた」
「じゃあ何か言え」
白い面が少し傾いた。
「何度呼ぶかと思って」
「お前……」
「何度も呼ぶのがわりぃ」
「はあ? 返事しねえお前が悪ぃだろ」
ナツの肩が少し揺れる。
また笑っている。
文句を言いながら、ナツと並んで川の方へ歩いた。
飛び石がある場所より少し下流へ行くと、水が浅くなっている場所がある。
木々に囲まれているけど、川の上だけは光が差し込んでいた。
流れの中に、座るのにちょうどいい大きさの岩がいくつか並んでいる。
濡れていない場所を選んで腰を下ろし、靴を脱いだ。
靴下も丸めて靴の中へ入れる。
足を水へつけると、冷たさが一気に膝の下まで走った。
「ッつめてぇ」
何度入っても、最初だけは声が出る。
ナツは少し離れた岩に座って、足を水へ入れた。
こいつは冷たいとも暑いとも言わない。
水の中にいても濡れない時があるし、今日は裾の辺りが少し色を濃くしているようにも見える。
その違いが何なのかは分からなかった。
袋を隣へ置き、足先で水を蹴る。
小さな水飛沫がナツの方へ飛んだ。
ナツは動かなかった。
「避けろよ」
「当たってねえし」
「ちょっと当たっただろ」
「当たってねえ」
「……じゃあもっと飛ばす」
もう一度水を蹴ると、今度はナツも足を動かした。
冷たい水が脛へまともに当たる。
「お前ッ!」
「当ててやった」
「見りゃ分かるわ」
「よかったな」
「何がだよ」
仕返しに水を蹴り返す。
何度かやり合っているうちに、ズボンの裾まで濡れた。
じいちゃんにバレたら、怒られるかもしれない。
まあ、乾かせば分からないだろ。
しばらく水を掛け合ってから、ナツが袋を見た。
袋からはラムネ瓶の頭が覗いている。
「その青いやつ、なに」
やっぱり知らないらしい。
少し嬉しくなる。
「知りてえの?」
「べつに」
「じゃあ教えねえ」
袋を自分の反対側へ移す。
ナツは何も言わなかったけど、白い面が袋の方を向いたままだった。
「気になってんじゃん」
「気になってねえ」
「見てんじゃん」
「見てねえ」
「面ごと向いてるからな」
ナツはようやく顔を逸らした。
分かりやすい。
俺は袋からラムネを一本取り出した。
青い瓶の中で、透明な玉が転がって音を立てる。
光に透かすと、中の水まで少し青く見えた。
ナツがまたこちらを向く。
「なに」
「ラムネ」
「知ってる」
答えが早い。食い気味だ。
こういう時のナツはわかりやすい。
これは絶対に知らない。
「へえ。じゃあどうやって飲むか知ってんの」
「飲めばいいだろ」
「どうやって」
「口から」
「瓶の開け方、わかんの」
ナツは黙った。
笑いそうになるのを我慢して、瓶を差し出す。
「ほら。開けてみ」
ナツが受け取り、瓶を眺めはじめる。
上下をひっくり返す。
底を見て、口を見て、瓶の中のビー玉を揺らす。
からん、と涼しい音がした。
「この丸いやつ、邪魔だ」
「取れば?」
「………」
「取り方教えてやろうか? ほーら、頼んでみろよ。お願いしますってさ」
「……いらねえ。割る」
ナツはすぐ横に落ちていた石を拾った。
「まてまてまて!」
慌てて瓶を取り上げる。
「何すんだよ!」
「割る」
「瓶ごと割ったら飲めねえだろ!」
「中身は出てくる」
「ガラスも入るだろ!」
「避ければいいじゃねえか」
「無理に決まってんだろ! 貸せ!」
ナツは納得していないようだったけど、石を置いた。
「知らねえくせに知ってるふりすんなよ」
「知ってる」
「今割ろうとしただろ」
「開け方がちょっと違っただけだろ」
「それを知らねえって言うんだよ」
瓶の口についていた包装を外して、中から出てきたプラスチックの押し蓋をナツへ見せる。
「これ使うんだよ」
「結局割るなら一緒じゃねえか」
「割る為のものじゃねえよ。押すの」
瓶の口へ押し蓋を乗せ、上から掌を当てる。
「ちゃんと押さえとけよ」
「何を」
「瓶。倒れんだろ」
ナツが両手で瓶を支えた。
その上から手を重ねるようにして、押し蓋へ力を込める。
少し固い。
もう一度強く押すと、ビー玉が落ちた。
ぽん、と軽い音がして、瓶の中から泡が一気に上がってくる。
「うわ」
ナツが少し身を引いた。
「早く押さえろっ! 溢れる!」
「何した? なんで煙幕?」
「開けただけ!」
泡が瓶の口まで上がってきたけど、ぎりぎり溢れずに収まった。
炭酸の細かな音がする。
得意になって、もう一本も開けた。
今度は一人でやる。
最初よりうまくいった。
ふとナツの方を見ると、瓶の中を覗き込んでいた。
泡が下から次々と上がり、ビー玉の周りを通り抜けている。
「生きてる」
「生きてねえよ」
「動いてる」
「炭酸」
「たんさん」
「飲めば分かる」
言ってから、少し迷う。
ナツは面をつけたままだ。
「……お前、それで飲めんの?」
「飲める」
「どうやって」
「口で」
「だから面あるじゃん」
「まあ、あるな」
「外すの?」
「外さねえよ」
「じゃあ無理だろ」
ナツは瓶を面の口元へ近づけた。
閉じた唇の形へ、ガラスの口が触れる。
そんなところへ当てても飲めるわけがない。
そう思って見ていると、ナツが瓶を傾ける。
途端に、瓶の中の液体が減った。
喉が動いたようには見えなかった。面も少しもずれていない。
でも、確かに飲んだ。
「……どうなってんの、それ」
答える代わりに、ナツの肩が跳ねた。
「ッ、……けほっ、」
顔を背け、何度か咳き込む。
「うえ、何だこれ」
一瞬呆気に取られて、それから笑いが込み上げた。
「炭酸だっつってんだろ。やっぱ知らなかったのかよ」
「舌が痛え」
「痛くねえよ」
「喉も刺す」
「刺さねえって」
「毒か」
「毒持ってくるわけねえだろ」
腹を抱えて笑う。
ナツは白い面をこちらへ向けた。
絶対に不満そうな顔をしている。
「笑うな」
「だってお前、毒って」
「痛え」
「最初だけだって。もう一回飲んでみ」
「いやだ。毒だろこれ」
「びびった?」
「びびってねえ」
「怖い?」
「怖くねえ」
「じゃあ飲めよ」
最初に会った時と同じようなやり取りになった。
ナツは少し黙ってから、もう一度瓶を面の口元へ運んだ。
今度は慎重に傾ける。
一口飲んで止めた。
「どう」
「……痛い」
「でも飲んだじゃん」
「甘い」
「うまい?」
ナツは答えなかった。
代わりに、もう一口飲んだ。
「気に入ってんじゃん」
「気に入ってねえ」
「飲んでるくせに」
「毒か確かめてる」
「何回確認すんだよ」
ナツは瓶の中のビー玉を眺めた。
傾けるたび、玉が瓶のくびれへぶつかって音を立てる。
「これは何」
「ビー玉」
「何のために入ってる」
「蓋」
「今は蓋じゃない」
「押したからな」
「……出すか」
また石へ手を伸ばした。
「だから割るなって言ってるだろ!」
その手を掴んで止める。
ナツの指は、川の水より少しだけ冷たかった。
掴んだあとで、ふと最初の日のことを思い出す。
川へ落ちそうになった俺の腕を、ナツが掴んだ。
あの時も冷たかった。
「そういやさ」
「なんだよ」
「最初に会った時、お前どこにいたんだよ」
「どこにでもいる」
どこでもいいだろ、じゃなくて?
分からなくて眉を寄せる。
「は? 答えになってねえ」
「見えたから、見せただけ」
「何を?」
「俺を」
ナツは何でもないことみたいに言った。
掴んでいた手を離す。
俺が理解していないのが分かったのか、付け足すように言葉を続ける。
「姿を見せないと触れられねえから、仕方なかった」
「……なに言ってんの? よくわかんねえんだけど」
ナツは瓶を軽く揺らした。
ビー玉が、からんと鳴る。
「お前が間抜けだったせい」
「はあ?」
「そのままの意味。姿を見せないと、お前を掴めなかったってだけ」
川の音がする。
木々の間から落ちてきた光が、水面で細かく揺れていた。
ナツはそれ以上、何も言わなかった。
俺も少しだけ黙る。
姿を見せないと触れられない。
言葉の意味は分かる。
でも、どういうことなのかは分からない。
「わっかんねえ。それまでは俺から見えないとこにいたってこと?」
死角にいたのか。
木の上とか、岩の影とか。
そう思って聞いたのに、ナツは口を噤む。
少しだけ、間が空いた。
「……まあ、そうじゃねえの」
「何で本人が曖昧なんだよ。覚えてねえの?」
ナツは答えなかった。
合ってるのか、合ってないのか、教えてくれない。
いつもの、それ以上説明する気はなさそうな時のナツだ。
代わりに、川の方を向く。
面を被っているから、本当に見ているのかは分からなかった。
「お前が川に落ちそうになるような間抜けじゃなかったら、こんな面倒なことにならなかったのに」
「面倒ってなんだよ」
「お前のこと」
「はあ!?」
さっきまで少し真面目に聞いていたのが馬鹿みたいだ。
「助けてくれって頼んでねえし」
「助けなかったら落ちてただろ」
「泳げるし」
「靴履いたまま?」
「泳げる!」
「溺れんじゃねえの」
「溺れねえよ!」
ナツの肩が揺れた。
そのまま瓶を岩の上へ置く。何となく、俺も自分の瓶を隣へ置いた。
また笑っている。何だこいつ。
人が少し真面目に聞いてやったのに。
腹が立ったから、足で水を蹴った。
飛沫が、またナツの服へ掛かる。
今度は少し濡れたように見えた。
「まあ、大体お前が悪いよ」
「あ? 何でだよ」
「間抜けだから」
「うるせえ!」
ナツも水を蹴り返す。
しばらく、さっきより激しく掛け合った。
ラムネの瓶が倒れそうになって、二人で慌てて押さえた。
「おい」
「あっぶねえ……」
「俺のラムネが零れるだろうが」
「それ買ったの俺だからな」
「もう俺のだろ」
「勝手に自分のにすんな」
瓶を取り返そうとすると、ナツは両手で抱え込んだ。
「やらねえ」
「俺が買ったんだって」
「渡しただろ」
「返せよ」
「嫌だ」
「気に入ってんじゃねえか」
「気に入ってねえ」
「じゃあ返せ」
「嫌だ」
意味が分からない。でも、楽しそうだった。
俺も、多分同じくらい楽しかった。
帰る頃には、二本とも中身がなくなっていた。
ナツは空になった瓶を光へ透かし、何度も傾けてビー玉を転がしていた。
「それどうすんの」
「もらう」
「瓶持ってても飲めねえぞ」
「音がする」
からん。
もう一度鳴らす。
「欲しいの?」
「べつに」
「じゃあ捨てる?」
「捨てねえ」
欲しいんじゃん。
俺は笑いながら、自分の空き瓶も拾った。
山の古い道も、食える実も、触ると怒る石も知っているのに、ラムネ一本開けられない。
炭酸も知らない。
ビー玉を取り出すために瓶を割ろうとする。
ナツは物知りなのか、何も知らないのか分からなかった。
でも、知らないものを見せた時の反応は面白い。
次は何を持ってこよう。
アイスは山へ着く前に溶ける。
焼き菓子なら大丈夫かもしれない。
花火は昼間じゃ見えないし、火を持って山へ入ったらじいちゃんに怒られそうだ。
鳥居へ向かいながら考える。
気づけば、明日何をして遊ぶかではなく、次にナツへ何を見せるかを考えていた。
「明日も何か持ってくる?」
後ろから聞かれた。
振り返ると、ナツは空き瓶を持ったまま立っていた。
「知らねえ」
「ふうん」
「……何かあったらな」
「そうか」
返事はそれだけだった。
でも、空き瓶を持つ手が少し上がった。
からん、とビー玉が鳴る。
鳥居を抜けたあとも、その音だけはしばらく耳に残っていた。
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