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01-09.夕立ちとまたねの約束
その日は朝から、空の色が少し変だった。
晴れてはいたけど、いつもの青より白っぽくて遠くの山の上に厚い雲が重なっていた。
風もほとんどなく、木の葉はじっと動かないまま日差しを受けている。
山へ入る頃には汗でTシャツの背中が張りついていたし、鳥居の奥も蒸していた。
湿った土と草の匂いが濃く、吸い込む空気まで温かい。
蝉の声はいつもより近く、頭のすぐ上で何匹も鳴いているみたいだった。
「あっちぃ」
何度目か分からない言葉を口にすると、少し先を歩いていたナツが振り返った。
「毎日言ってんな」
「暑いんだから仕方ねえだろ。お前も言えよ」
「暑くねえから言う必要がねえ」
「ずるくねえ?」
「なにが」
「お前だけ涼しそうでずりぃ」
「知らねえよ」
最近のナツは、何を言っても大体こんな返し方をするようになった。
最初に会った頃よりずっと口が悪い。
俺のせいだと言われたけど、勝手に覚えたのはナツだ。
今日は川へ行かず、鳥居から少し外れた細い道を歩いていた。
ナツが、上の方に大きな岩があると言ったからだ。
岩くらいならどこにでもあるだろ、と言ったら、「お前より大きい」と返された。
俺より小さい岩の方が少ないだろ、と言ってもナツは聞いていなかった。
坂道は思っていたより急で、足元には乾いた葉が積もっている。
踏むたびにかさかさ鳴り、その音に混じって、どこか遠くから低い音が聞こえた。
「今、何か鳴った?」
足を止めて振り返る。
ナツも立ち止まった。
「雷」
「晴れてんじゃん」
「向こうで降ってる」
ナツが木々の隙間へ顔を向けた。
俺も同じ方を見たけど、葉と枝の向こうには白い空しか見えない。
「分かんの?」
「まあ」
「なんで」
「雨の匂いがするだろ」
言われて鼻を動かしてみる。
土と草と汗の匂いしかしない。
「しねえよ」
「鼻悪ぃんじゃねえの」
「あ? 悪くねえよ。……どんな匂いだよ」
「雨の匂い」
「説明になってねえ」
ナツは答えず、また坂道を上り始めた。
少し進むと、空が急に暗くなった。
さっきまで白く光っていた木々の隙間が灰色に変わり、蝉の声が一斉に弱くなる。
風が吹いた。
ぬるかった空気が押し退けられ、冷たい風が汗ばんだ首筋を撫でていく。
葉の裏側が次々と翻り、山全体がざわざわと騒ぎ始めた。
「やばくね?」
もう一度雷が鳴った。今度はさっきより近い。
返事を待つ前に、大きな雨粒が頬へ落ちた。
一つ、二つと来たあと、空から大きなバケツをひっくり返したみたいに激しく雨が降り出した。
「うわっ!」
頭を庇っても意味がない。
数秒もしないうちに髪も肩も濡れ、Tシャツが肌へ張りつく。
乾いた道は見る間に色を変え、落ち葉の間を細い水が流れ始めるのが分かった。
「ナツ、どっか入れるとこ!」
「こっち」
ナツが俺の腕を掴んだ。
冷たい指だ。雨で冷えたのか、もともとなのか分からない。
引かれるまま坂を外れ、木々の間を走る。枝が肩や腕へ当たり、濡れた葉が頬を叩いた。
少し先に、大きな岩がせり出している。
下の部分が浅く窪み、二人くらいなら雨を避けられそうだった。
「ここ」
岩の下へ滑り込む。
完全に濡れないわけではないけど、まともに降られるよりはましだった。
息を切らしながら、濡れた髪を両手で掻き上げる。
水が額から鼻先へ垂れた。
「さいっあく」
「楽しそうだったくせに」
「どこがだよ」
「よく動いてた。走ってたろ」
「濡れたくねえからだろうが」
ナツはいつも通りだった。
白い面も服も、雨に打たれたはずなのに、俺ほど濡れているようには見えない。
肩や袖の色は少し濃くなっている。
髪からも水が落ちている。
それなのに、何かが違った。
普通の、そのへんにいる人間が、雨に濡れた感じがしない。
冷たそうでもないし、息も乱れていない。さっきあれだけ走ったのに、呼吸の音すら聞こえなかった。
「お前、平気なのかよ」
「なにが」
「雨。……寒くねえの」
「べつに。なんともない」
「びしょびしょじゃん」
「お前もそうだろ」
「俺は寒ぃけど」
濡れたTシャツを肌から引き剥がす。
風が吹き込むたびに冷え、腕に鳥肌が立っている。
ナツは俺をしばらく見たあと、白っぽい上着の裾を持ち上げた。
「何してんの」
「拭いてやる」
「それも濡れてるじゃねえかよ」
「お前よりは濡れてねえからいいだろ」
「そういう問題かよ」
ナツは俺の返事を聞かず、濡れた髪へ裾を押しつけた。
ごしごしと乱暴に擦られる。
「ッいってえな!」
「おい、動くなよ」
「拭き方下手くそか」
「あ? わざわざ拭いてやってんだろ」
「もっと優しくやれよ」
「注文多いな、お前」
文句を言いながらも、ナツは手を止めなかった。
顔に垂れていた水が少し減る。
上着の裾はやっぱり濡れているはずなのに、押しつけられたところから冷たさが消えていく気がした。
「もういい」
「まだ濡れてる」
「お前の服まで濡れるだろ」
「別に俺はいい」
「風邪ひくぞ」
言ったあと、ナツが動きを止めた。
白い面が、すぐ近くでこちらを向いている。
「風邪?」
「知らねえの? 身体冷やしたら熱出たり咳出たりすんの」
「お前はなんの」
「なる時はなる」
「死ぬ?」
「風邪くらいで死なねえよ。多分」
「多分」
ナツはその言葉を小さく繰り返した。
「お前は?」
「ならねえ」
「何で」
「なったことねえし、多分ならねえ。そういうものだから」
いつもの要領を得ないナツの答え方だ。
聞いても答えないのは、もう知ってる。
雨はますます強くなっていた。
岩の外は白く霞み、少し先の木までしか見えない。
空から落ちてくる水が地面を叩き、川でもない場所に流れを作っている。
雷が鳴るたび、辺りが一瞬だけ白く光った。
「なあ、これすぐ止む?」
「そのうち止むんじゃねえの」
「いつ」
「止む時」
「何も分かってねえじゃん」
「はあ? 分かってっけど」
「じゃあ何分後だよ、言ってみ」
「分じゃ分からねえ」
「使えねえ」
「あ? 文句あんならお前もうここから出ろ」
「やだよ」
ナツがしゃがんだので、俺もその隣に座り込む。
岩の下は狭く、肩が少し触れた。
ナツの身体はやっぱり冷たかったけど、雨で冷えた俺にはその冷たさが妙に落ち着く。
しばらく黙って外を見ていると、雷が山の向こうで大きく鳴った。
白い光が岩の下まで入り込む。
その一瞬だけ、隣にいるナツの輪郭が薄く見えた。
服の向こうに木々の影が透ける。
顔の白い面だけが暗がりへ浮き、その周りの身体は雨と影の間に溶けていた。
「……ナツ?」
呼ぶと、すぐ横から返事がした。
「なに」
声はいつも通りだった。
次の瞬間には、ナツは普通にそこへ座っていた。
白っぽい服も、薄い藍色のズボンも、濡れた黒い髪も、全部ちゃんと見える。
「今、なんかお前」
「なに」
「お前、薄くなってなかった?」
「なってねえ」
「でも今」
「雷で目がおかしくなったんじゃねえの」
「そんなわけ、」
言い返しかけて、やめた。
もう一度見ても、何も変じゃない。
俺の肩に触れている腕も、膝の横に置かれた手も、ちゃんとそこにある。
「消えたりしねえよな」
口から出てから、何を聞いているんだと思った。
ナツは少しだけ首を傾ける。
「消えねえよ」
「……ならいいけどよ」
「怖かった?」
「怖くねえ」
「消えると思った?」
「思ってねえよ」
「でも聞いたろ」
「確認しただけ!」
ナツの肩が揺れた。また笑っている。
「うるせえ」
腹が立って肩を押すと、ナツは岩へ身体をぶつけた。
「痛え」
「お前も痛いとかあんの?」
「あるに決まってんだろ」
「暑いの分かんねえくせに」
「お前に押されたのは分かる」
「じゃあもう一回押すか」
「やめろ」
今度はナツが押し返してきた。
狭い岩の下で肩をぶつけ合い、そのうち二人とも少し笑った。
外ではまだ雨が降っていたけど、雷の音は遠ざかり始めていた。
しばらくすると雨脚も弱くなり、白く霞んでいた木々が少しずつ姿を戻していく。
葉から落ちる水滴が、あちこちで大きな音を立てていた。
岩の下から出ると、空気が変わっているのが分かった。
雨に洗われた土の匂いが濃く、濡れた葉が光を反している。
道の窪みには水が溜まり、小さな虫が葉の裏から這い出していた。
雲の隙間から日が差す。
濡れた山全体が、少し眩しいくらいに光った。
「帰らねえと」
服はまだびしょびしょだった。
これはさすがに乾かして誤魔化せそうにない。
じいちゃんに何を言われるか考えると面倒だった。
「明日も来る?」
ナツが聞いた。
「あー……服乾いたら?」
「明日には乾くだろ」
「じいちゃんに怒られなかったら来れる」
「まだ怒られるの怖えの」
「怖くねえって言ってんだろ」
「ふうん。でも怒られたら来ねえの?」
「っ行くよ!」
反射的に返すと、ナツがこちらを見た。
白い面の奥で笑っているのが分かる。
「……暇だったら」
付け足しても、もう遅かった。
ナツは何も言わなかった。ただ、先を歩く足取りがどこか機嫌が良さそうに見えた。
その年、山へ行けたのは、それから数日だけだった。
父さんの仕事が予定より早く片づき、母さんの研修も終わったらしい。
週末には迎えに来ると聞かされた時、最初に思ったのは、ようやく帰れる、ではなかった。
ナツに言わなきゃ。
そう思ったことが、少しだけ気に入らなかった。
……なんであいつに言う必要があるんだよ。別に約束してたわけじゃない。ただの暇つぶし。
そう、夏の間の暇つぶし。それだけ。
それだけだったのに、何となくそれだけで終わらせたくないと思っている自分もいた。
なんとなく。ほんとに、なんとなく。
だからちゃんとナツに言うことに決めた。
決めて、でも中々言い出せなくて。結局最後の日になった。
その日も山はいつもと変わらなくて、蝉が鳴いて、草の匂いがして、川の水は冷たかった。
「明日帰る」
川辺で言うと、ナツは少し黙った。
「……お前のじいさんの家じゃなくて?」
「うん」
「どこに?」
「家。東京」
「とうきょう?」
初めて聞くみたいな、反復だった。
「遠い?」
「まあ、遠い」
「明日は来ねえの」
「来れねえよ」
「明後日は」
「来れねえって」
ナツは空になったラムネの瓶を持っていた。
あの日からずっと持っているらしい。
傾けると、からん、とビー玉が鳴った。
「……また来る?」
「多分」
「いつ」
「来年とか」
「来年」
「すぐだろ。一年くらい」
ナツは何も答えなかった。
一年という長さが分からないのかもしれない。
それとも、俺よりよく分かっているのかもしれなかった。
「……今日ももう帰る。じゃあな」
何となくこれ以上残ると帰れなくなりそうで、鳥居の前で手を上げる。
いや、違う。名残惜しいとかじゃなくて。ナツがなんとなく寂しそうだったから。気が咎めた。それだけ。
ナツは少し離れた場所に立ったまま、白い面をこちらへ向けていた。
何も言わず、空き瓶を一度だけ傾ける。
からん、と音がした。
「……またな、ナツ」
別に言う必要もなかったのに、自然と次の約束の言葉が口から出た。
なんだこれ。わけわかんねえ。普通だろ。友達と「またな」って言って別れる。別に特別なことじゃない。
それなのに何でこんなに、気恥ずかしくて、少し苦しいんだ。
「うん」
ナツの返事はすぐだった。
「うん」たったのそれだけ。でも、何だかよくわからない色をした「うん」だった。
そのままナツと別れて、次の日にはもう東京にいた。
あんなに煩かった蝉の声は、都会だと少し違って聞こえる。
鳴いている数が少ないわけではないはずなのに、山で聞いていた声より遠い。
窓の外には木より建物が多く、風が吹いても土や川の匂いはしなかった。
友達と遊び、ゲームをして、学校の宿題を片づける。
帰る前はあれほど嫌だった田舎のことを、誰かに話そうとは思わなかった。
山へ入ったことも、白い面をつけた変な子供に会ったことも、何となく口にしたくなかった。
話したら、作り話だと笑われるかもしれない。
信じられても、それはそれで嫌だった。
ナツは俺が見つけた。俺が名前をつけた。
誰にも言わない方がいい。俺の、少し変わった友達。
俺だけが知っているナツ。
何日か経った頃、友達とコンビニへ寄った。
冷蔵棚にラムネが並んでいて、何となく近付く。
青い瓶を見た途端、石を拾い上げたナツの姿を思い出した。
開け方を知らないくせに知っていると言い張って、瓶ごと割ろうとした。
炭酸を飲んでむせて、毒だと言った。
「何笑ってんの」
隣にいた友達が聞いた。
自分が笑っていたことに、その時初めて気づいた。
「べつに。なんもねえよ」
そう答えながら、もう一度ラムネを見る。
買おうかと思ったけど、やめた。
一人で飲んでも、多分あまり面白くない。
コンビニを出ると、建物の隙間から夕方の光が差していた。
道路はまだ昼間の熱を残し、遠くで蝉が鳴いている。
ふと、ナツは今もあの山にいるんだろうかと思った。
石灯籠の上に座っているのかもしれない。
川の中で葉っぱを見ているのかもしれない。
空になったラムネの瓶を傾けて、音を聞いているのかもしれない。
そう考えると、また少し笑えてくる。
来年になったら、今度は何を持っていこう。
その時の俺は、もう次の夏にも山へ行くつもりでいた。
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