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■2章「透とナツ」 02-10.呼応
みーんみんみんみーん。みーんみんみーん。
やっぱり暑い。それにうるせえ。うるっせえ。黙るって言葉を知らねえのか。
……いや、知るわけねえか。蝉だし。
次の年も、俺はじいちゃんの家に居た。
去年と違って、家に一人で置いておけないと心配されるような年齢でもない。
そもそも去年の時点で平気だったけど、母さんたちに妙に気遣われた結果じいちゃんちに強制送還された。
でも、今年は違う。
友達と遊ぶ予定もあるし、ゲームだって家の方が揃っている。田舎へ行ったところで、暑くて、虫が多くて、店も少ない。
加えて、父さんの出張も母さんの研修も今年はなかった。
でも何となく、気が向いた。
夏休みに入ってしばらくした頃じいちゃんから遊びに来ないかと電話があったのが、きっかけだったと思う。
別に行かなくてもよかったけど、去年じいちゃんに世話になったし、断るのもなんかアレだろ。よくねえ。
だから母さんにどうするか聞かれた時、少し考えるふりをしてから「行ってもいい」と答えた。
行きたいわけじゃない。断る理由が特になかっただけだ。それ以上でも以下でもない。……違うったら違う。
ただ、あいつが本当にまだ山にいるのか、それだけは少し気になってもいた。
去年の夏に会ったきりで、それから一度も話していない。
連絡先も知らないし、そもそも電話を持っているのかも分からない。
どこに住んでいるのか聞いても「ここ」としか答えなかった。
今年必ず行くと約束したわけでもない。「来年とか」と曖昧に答えて、「またな」と言っただけだ。
あれは普通の別れの挨拶だった。
ナツだって、もう覚えていないかもしれない。
そう考えると、少し落ち着かなくなった。
電車とバスを乗り継いでじいちゃんの家へ着くと、去年と同じ匂いがした。
日に焼けた道と、濃く茂った草と、どこかで流れている水の匂い。
家へ上がれば畳と古い木の匂いがして、開いた窓から蝉の声が遠慮なく入り込んでくる。
「背、伸びたな」
荷物を置いた俺を見て、じいちゃんが言った。
「そう?」
「去年より少しな。大きくなった」
自分ではあまり分からなかった。
制服のズボンが短くなって買い直したし、母さんにも最近よく言われるから、多分伸びているんだろう。
「腹減ってるか」
「ちょっと」
「そうめんでいいか」
「うん」
昼飯を食べながら、部屋の中を眺めた。
縁側には座布団があり、庭には白っぽい石が転がっている。
柱に掛けられた古い時計は少し遅れていて、風鈴は風が来るたびに軽い音を立てていた。
去年とほとんど変わらない部屋を眺めて、少し安心する。
食べ終わると、じいちゃんが麦茶を注ぎながら俺を見た。
「今日はどうする」
「その辺行ってくる」
「着いたばかりだぞ」
「別に疲れてねえし」
じいちゃんは何か言いたそうに俺を見た。
去年、山へ行っていたことがばれているのかもしれない。
でも結局、何も聞かなかった。
「帽子かぶってけ」
「分かった」
去年はじいちゃんの前では意地でもかぶらなかった麦わら帽子を、今年は素直に受け取った。
外は相変わらず、息をするだけで汗が滲む程暑い。
日差しに焼かれた道から熱が上がり、草むらでは見えない虫が鳴いている。
用水路を流れる水は去年と同じように光っていて、道端には知らない花が咲いていた。
歩き始めはゆっくりだった。別に急ぐ必要はない。ナツがいると決まったわけでもない。
去年と同じ場所へ行けば、同じように会えるとは限らない。
それでも、山が近づくにつれて足が少しずつ速くなった。
見覚えのある家を通り過ぎ、細い道を曲がる。
木々の影が濃くなり、その奥に古い鳥居が見えた。
一年ぶりの鳥居は、思っていたより小さかった。
去年はもっと大きくて、近づくだけで少し怖いものに見えた。
今見ると、塗装の剥げた古い柱が二本立っているだけだ。
垂れた縄も、黒ずんだ文字も、草に埋もれた根元も変わっていない。
鳥居の前で立ち止まって、少し見上げる。
ここを抜ければ、あの坂道がある。
半分埋まった石段。穴の開いた大木。首のない石像。苔のついた石。赤い実の木。
その先に、川がある。
そして、多分ナツがいる。
そう思うと、急に喉が乾いた。
暑さのせいだ。
麦わら帽子の縁を持ち上げ、辺りを見回す。
誰もいない。去年と同じように、鳥居の横へ回った。
草は前より高く伸びていて、足へまとわりつく。身体を横へ向けて抜けると、枝が肩に触れた。
去年も何度もここで擦った気がする。
小道へ入ると、外の道より少し暗かった。湿った土の匂いが濃く、風が葉の間を通り抜けている。
蝉の声は途切れず続いているのに、人のいる場所から遠く離れたみたいに感じた。
最初の石段を越える。大木の洞を横目で見る。
半分埋まった石灯籠の前まで来ても、ナツはいなかった。
木の枝にも、石の上にも、道の先にも白い面は見えない。
「……ナツ」
少し小さな声で呼んだ。
返事はない。
……聞こえなかったのかもしれない。
もう少し進み、もう一度呼ぶ。
「ナツ」
去年なら、どこかから反応が返ってきた。
今日は何も聞こえない。
「………」
足を止める。
本当にいないのかもしれない。
俺が帰ったあと、どこかへ行ったのか。
あの山に住んでいると言っていたけど、それも嘘だったのかもしれない。
そもそも、去年会ったこと自体が少し変だった。
誰にも話していない。
写真もない。
持ち帰ったものもない。
俺が勝手に見た夢だったと言われたら、証明できるものは何もなかった。
「……ッナツ!」
さっきより大きな声で呼んだのに、すぐに蝉の声に吸い込まれる。
何だか重たい石でも飲み込んだように、腹の底が落ち着かない。
……別に、いなければいないでいい。
山へ来なくても、友達に土産を買ったり、川で一人で遊んだりすればいい。
今年は今年で他のことをすればいいし、つまんなかったら東京に帰れば良い。
ナツがいなくても、別に困らない。
そう思うのに、足が勝手に川へ向かってしまう。いつの間にか小走りになっていた。息が切れる。
木々の隙間から光が強くなっていくにつれて、水の音が近づく。
張り出した枝を押し退け、その先へ出た。
川は去年と同じように流れていた。日差しを細かく反射し、丸い石の間を透明な水が通り抜けている。
大きな平たい岩も、飛び石も、向こう岸の白い石も変わっていない。
でも、誰もいなかった。
「……いねえじゃん」
思わず声が出た。誰に言ったわけでもない。
期待していたわけでもないのに、妙に腹が立った。
一年ぶりに来たのに。
次の夏も来るつもりでいたのに。
「なんだよ」
川辺まで歩いて、さっき走っている間にずれた麦わら帽子の位置を直す。
背中へ汗が流れているのに、川から来る風は少し冷たかった。
ここから少し離れた川下の方へ視線を向ける。
去年は、あの辺りの岩に座ってナツと一緒にラムネを飲んだ。
そこにもいない。
「……お前が先に聞いたくせに」
誰もいない川へ向かって言う。返事はない。
また来る?って聞いたのはお前のくせに。
またなってちゃんと言ったのに。
馬鹿みたいだ。
名前をつけただけの変なやつを、一年も覚えていたのは俺だけだったのかもしれない。
ナツにとっては、俺なんて夏の間だけ山へ迷い込んだ間抜けで、帰ったらそれまでだったのかもしれない。
そう考えると、余計に腹が立った。足元の小石を拾い、川へ投げる。
別に約束したわけじゃない。でも待っててくれると思ってた。
なんだよ。……なんだよ。くそ。
石は水面を一度だけ跳ねて沈んだ。
「下手くそ」
すぐ後ろから声がして、身体が跳ねた。
「………っ」
振り返ると、ナツがいた。
去年と同じ白い面。
少しくすんだ上着と、薄い藍色の半端な丈のズボン。
黒い髪も、細い手足も、何一つ変わっていない。
俺だけ少し背が伸びたのに、ナツは去年と全く同じ姿で立っていた。
「……お前」
声がうまく出なかった。
ナツは俺を見上げるようにして、少し首を傾ける。
「なに」
「いたのかよ」
「いた」
「じゃあ返事しろよ!」
「何度呼ぶかと思って見てた」
「はあ?」
こいつ、また人を試したのか。去年と同じことを言いやがって。
腹が立つのに、ナツが姿を現した安堵で、その苛立ちすらすぐにほどけていきそうになる。
その事実がめちゃくちゃムカつく。
ナツに苛立っているのか自分に腹が立っているのか、そのどちらもか、よくわからない。
むしゃくしゃした気持ちのまま、ナツの肩を押す。
「ふざけんなよお前、折角来てやったのに」
「はあ? 来てやったのは俺だけど」
「俺だよ」
「俺だろ。お前が3回も呼ぶからわざわざ出てきてやった」
「数えてんじゃねえよ。そんな暇あるならとっとと出てこいよ!」
ナツの肩が揺れた。
笑っている。これも去年と同じだ。
声も、言い方も、俺をからかう時の肩の揺れ方も、何も変わっていない。
「また来たのか」
続けて、ナツが言った。
去年、二日目に山へ来た時と同じ言葉だ。
「あ? 来ちゃ悪いかよ」
「悪くねえ」
返事が早い。
ナツは少しだけこちらを見上げたまま、動かない。
「……なんかお前、縦に伸びてねえ?」
「まあ」
「なんで」
「知らねえよ、成長期だからじゃね」
「ふうん」
去年は同じくらいだった目の高さが、少しずれている。
ナツは俺の頭から足元まで眺めた。面をつけているのに、見られている感じがする。
「お前は変わってねえな。同じじゃん。背も、服も、その面も」
「わりぃかよ」
「悪いとは言ってねえだろ。ただ変わらねえなって思っただけ」
「お前だけ勝手に大きくなった」
「勝手って何だよ」
ナツの声は少し不満そうだった。
俺が大きくなったことに文句を言われる筋合いはない。
「じゃあお前も大きくなればいいだろ。伸ばせよ背」
「やろうと思えばできる」
「嘘つけ」
「嘘じゃねえ」
「じゃあやってみろよ」
「してえの?」
「………」
「お前がしたいなら、してもいい。する?」
本当に何でもないようにナツが言うから、一瞬言葉に詰まる。
ナツはじっと俺を見ている。蝉の声が煩い。
意味が分からない。
なんだよ、俺がしたかったら背を伸ばすって。そんなこと出来るわけねえだろ。
そう思うのに、何でかうまく言葉にならない。
「……いらねえ」
「あそ」
漸くそれだけ言うとナツは興味を失ったように、背を向けた。
飛び石の場所から少し下流へ歩いていく背中を追う。
ナツはそのまま、浅瀬に並ぶ岩の一つへ座って足を水へ入れる。
俺も隣の岩へ腰を下ろした。靴と靴下を脱ぎ、川へ足を入れる。
冷たさが一気に肌を上がってきて、思わず息が漏れた。
「つめてえッ」
「去年も言ってたな」
「覚えてんの?」
「毎日言ってただろ」
ナツは何でもないことみたいに答えた。
俺が帰ったあとも、去年のことを覚えていた。
それを知っただけで、少し機嫌が良くなった。我ながら現金だ。……別に嬉しかった訳じゃなくて。
ただ、俺だけナツのことを覚えてんのは不公平だし。
なんとなく、去年同じ場所でラムネを飲んだことを思い出した。
「お前さ」
「なに」
「ラムネの瓶、まだ持ってんの」
「あるよ」
「どこに」
「誰にも見つからねえ場所に置いてある」
「割ってねえだろうな」
「割ってねえよ」
「ビー玉取ろうとしてたじゃん」
「もう取らねえ」
「やっと諦めた?」
「瓶のままの方が音がする」
ナツが手を軽く動かした。
今は瓶を持っていないのに、からん、と鳴らす仕草だけが残っている。
「また持ってきてやろうか」
口から出てから少し得意になりすぎた気がしたけど、ナツは特に気にしていないようだった。
「別にいらねえけど」
「じゃあ持ってこねえ」
「……持ってくるなら飲んでやる」
「どっちだよ」
「お前が持ってきたいなら仕方ねえから飲んでやってもいい」
「お前その上から目線やめろ。腹立つ」
ナツが笑った。何だか怒ってるのも馬鹿らしくなって、俺もつられて少し笑った。
一年ぶりなのに、昨日もここで遊んでいたみたいだった。
何を話せばいいのか考えてきたわけではない。
学校のことや友達のことを話しても、ナツにはよく分からないだろうし、わざわざ説明するのも面倒だった。
それでも、話すことは次々出てきた。
去年帰ったあとに背が伸びたこと。
コンビニでラムネを見つけたこと。
友達が買った炭酸を一気に飲んでむせたこと。
学校で育てていた虫が逃げて、教室中が騒ぎになったこと。
ナツは大体「ふうん」としか言わなかった。
でも俺が話し終える前に別のことを始めたりはしなかった。
分からない言葉があると、そのたびに聞き返した。
話しているうちに、去年の続きへ戻っていく。
一年という空白は確かにあったはずなのに、川の水と蝉の声に挟まれると、少し薄くなった。
「今年はいつまでいんの」
ナツが聞いた。
「二週間くらい」
「二週間」
「去年よりちょっと短い」
「毎日来る?」
「毎日は分かんねえよ。用事あるかもしれねえし」
本当は、特に予定なんてなかった。
でも毎日来ると言うのは、何となく負けた気がする。
「ふうん」
ナツは川を見た。
少しだけ機嫌が悪くなったように見える。
「……暇だったら来る」
「あそ」
「多分、まあ、結構暇だと思うけど」
「なら来いよ」
「偉そうに言うな」
「今日だって来たかったから来たんだろ」
「じいちゃんの家に来ただけだし」
「着いた日に山に来た」
「暇だったから」
「ふうん」
またその言い方だ。
全部分かっているみたいで腹が立つ。
「お前だって待ってたんじゃねえの」
言うと、ナツがこちらを向いた。
「待ってねえ」
「嘘つけ」
「待ってねえよ」
「じゃあ何でここにいたんだよ」
「いつもいる」
「俺が来るって思ってた?」
「べつに」
「顔逸らすなよ」
「逸らしてねえ」
面ごと川へ向いている。
分かりやすすぎる。
「待ってたんじゃん」
「待ってねえ」
「待ってた」
「うるせえな」
ナツが足で水を蹴った。
冷たい飛沫が膝へ掛かる。
「お前!」
仕返しに蹴り返す。ナツがもう一度水を飛ばす。
去年と同じように、何度も掛け合った。
笑い声と水音が、蝉の鳴く山の中へ混ざっていく。
『着いた日に山に来た』
そういえばあいつ、なんで俺がじいちゃんちに来た初日に山に入ったの知ってたんだろ。
帰り際に今日の会話を思い返して少し気になったけど、ナツに会えたことでなんだか胸がいっぱいになって寝る頃にはもう忘れていた。
その日から、朝飯を食べて鳥居へ向かい、ナツを呼ぶことが、また俺の日課になった。
石段を越え、石灯籠の前を通り、川へ向かう。
「ナツ」と呼べば、どこかから返事が来る。
たまにわざと返事をしない日もある。
そういう時は、見つけるまで何度でも呼んだ。
来年も同じように会えるとは、まだ考えていなかった。
ただ今年もナツがいた。
俺が呼べば、ちゃんと振り向いた。
それだけで、この道を一年ぶりに歩いた意味は十分だった。
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