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02-11.夏祭り
遠くから祭囃子と拡声器の割れた声が風に乗って聞こえてくる。
ここへ来てから毎日聞いていた蝉の声に、今日は別の音が混じっていた。
じいちゃんの家の前を、浴衣を着た子供が何人か通っていた。
走るたびに下駄が乾いた音を立て、持っていた団扇がばたばた揺れているのが見えた。
今日は祭りの日だ。
昼間の日差しを吸い込んだ道が足元から熱を返している。
少し家を出ただけで首の後ろへ汗が浮いたのですぐに家の中に引っ込んだ。
いつもは人の少ない道なのに、今日は同じ方向へ向かう人が途切れず、家の間から見える空まで普段より狭く感じた。
夕方になっても少しも涼しくならなくて、熱気に溢れてる。
「帰り、遅くなるなよ」
玄関で靴を履いていると、奥からじいちゃんが言った。
「分かってる」
「花火が終わったら真っ直ぐ帰れ」
「はいはい」
「返事は一回」
「はーい」
外へ出て少し歩くと、祭りの音が急に大きくなった。
会場は神社の境内と、その前の細い通りだった。赤や白の提灯が頭の上へ何本も渡され、まだ薄明るい空の下でぼんやり光っている。
人が多い。どこから出てきたのか不思議になるくらいの人混みだ。
多分、近くの村や町からも来てるんだろう。
浴衣の袖が腕に触れ、走ってきた子供の肩が背中へぶつかる。
立ち止まれば後ろから押され、避ければ屋台の鉄板から上がる熱気をまともに浴びた。
焼けたソースと油の匂い、焦げた醤油、汗、蚊取り線香、綿あめの甘さが狭い通りに溜まっていた。
どれも濃くて、口を開ければそのまま喉へ入ってきそうになる。
匂いに酔いそうだ。それに、うるせえ。
祭囃子が鳴り、屋台の人が客を呼び、子供が泣いて、大人が笑っている。
近くで話している相手の声さえ聞き取りにくいほどなのに、誰も気にしていない。
暑くて、湿っていて、人が多くて、逃げ場がない。
でも、嫌いじゃなかった。どころか、この夏っぽさは割と好きな方だ。特有の熱気があって、楽しい。
光る玩具を振り回す子供や金魚の袋を提げて歩く浴衣姿を見ると、何となく目で追ってしまう。
鉄板の上で焼きそばが音を立てるのも、氷水に沈んだ瓶がぶつかり合う音も、普段は何もない村が別の場所になったみたいで少し面白かった。
じいちゃんにもらった小遣いをポケットへ入れ、通りを端から歩いていく。
射的、輪投げ、金魚すくい。知っているものばかりだった。
友達と来ていたら競争したかもしれないけど、一人でやるほどでもない。
人の流れに押されながら何となく屋台を眺めていたところで、綿あめの店の前で足が止まった。
透明な袋に入った塊が、頭の上へいくつも吊られている。
機械の中では細い棒へ砂糖が巻きつき、見る間に大きく膨らんでいた。
ナツは、これを知っているだろうか。
考えるより先に、山の中で白い面を傾ける姿が浮かんだ。
多分知らない。
見せたら、また知っていると言い張るかもしれない。
食い方を聞いたら、「口から」と答えるかもしれない。
触って潰すか、雲だとか言い出すかもしれない。
想像したら少し笑えた。
「ぼく、買うの?」
屋台の婆さんに声を掛けられ、我に返る。
「ぼくじゃねえし」
「じゃあ、お兄さん。買ってくれるかしら?」
言い直されると、それはそれで変な気分だった。
少し迷ってから、小銭を出す。
「一個ください」
受け取った綿あめは思っていたより大きかった。
袋の中でふわふわとした塊が揺れ、持ち手の細い棒が頼りなくしなる。甘い匂いが薄い袋を通して鼻へ届いた。
別にナツのために買ったわけじゃない。
たまたま甘いもんが食いたい気分だったから。半分くらいならやってもいいと思っただけだ。
綿あめを持ったまま少し歩くと、水ヨーヨーの店が見えた。
丸いゴムの中へ色水が入り、赤や青や黄色の模様が水面の上で揺れている。俺より少し小さい子供たちが紙の針を水へ垂らし、取れた取れないと騒いでいた。
ナツにやらせたら、どうなるだろう。
紙を水へ浸しすぎて切るかもしれない。取れなかったら、また水か紐のせいにする。
あるいは何でもできる顔で、簡単に全部取るかもしれない。
気付けば、店の前に立っていた。
自分で釣るのは面倒だったから、売っていたものを一つ買った。
薄い青色の水が入った透明なヨーヨーで、そこに白と青の花みたいな模様がついている。ちょっとだけ、ナツの面の朝顔に似ていて、気付いたらそれを選んでいた。別に模様なんて、なんでもいいけど。なんとなく。
綿あめとヨーヨーを両手に持つ。
誰に見られてるわけでもないのに、なんだか浮かれきってる子供みたいで少し恥ずかしい。
……なんで買っちまったんだろ。
「第42回霞町花火大会の打ち上げは午後7時から開始いたします。今年も見どころ沢山の花火となっております。来場の皆様が気持ちよく過ごせますよう、ゴミは各自でお持ち帰りいただき、マナーを守って楽しいひとときをお過ごしください」
綿あめの袋を睨みつけていると、不意に花火開始を知らせる放送が流れた。
あと三十分。
このまま人の流れの方向に進んで行けば、花火はよく見える。屋台の灯りも、祭囃子も、近くで聞こえる。
一人でも、別に見られないわけじゃない。
「………」
見られないわけじゃねえけど。
「……すみません、ちょっと通してください」
足は自然と山の方に向かっていた。
浴衣の集団を避けるように、斜めになりながら何とか人混みを縫うように小走りに進む。
綿あめの袋が誰かの髪飾りへ引っかかりそうになり、慌てて頭の上へ持ち上げた。
ヨーヨーは指からぶら下がり、歩くたびに掌へ冷たい水の重さをぶつけてくる。
祭りの中心から離れるにつれ、人の声が少しずつ遠くなった。
屋台の灯りも背中側へ小さくなり、代わりに田んぼから虫の声が聞こえてくる。
草むらから上がる湿気が足へまとわりついた。甘い綿あめの匂いだけがずっと近くにある。
道の脇を流れる用水路は、空の残った明るさを細く映している。
時々、小さな虫が顔の近くへ飛んできて、手で追い払うたびに袋がかさかさ鳴った。
鳥居へ着く頃には、辺りはさっきよりも暗くなっていた。
木々の奥は、昼間よりずっと深く見える。
去年なら少し怖かったかもしれない。
今は、そこにナツがいると知っている。……いや、夜だからいないかもしれない。
祭りに行った筈なのに。開けた場所で、ちゃんと花火を見るはずだったのに。いるかいないかも分からない奴の為に、こんなところまで来てる。
鳥居の横を抜ける。
手が塞がっているせいで枝をうまく避けられず、綿あめの袋が葉へ擦れた。
薄いビニールに水滴がつき、綿あめの端が少しだけ萎んでいる。
「げ……まじか」
急いで袋を確認する。破れてはいない。
そのまま小道を登っていった。
祭りの音はまだ聞こえている。
太鼓の低い響きと、拡声器の声と、誰かの笑い声が、木々を何枚も挟んでぼやけて届く。
山の中では虫が鳴き、湿った土と苔の匂いが濃くなっていた。
村の音と山の音が混じって、どちらもやけに大きかった。
「ナツ」
石灯籠の前で呼ぶ。返事はない。
「ナツ」
もう一度呼ぶと、上から声がした。
「何持ってんの」
いた。
……ナツが、いた。
嬉しくなった自分を誤魔化すように唇をきゅっと引き結んで、見上げる。
ナツは石灯籠の横の木へ座っていた。
白い面が暗がりの中でぼんやり浮き、足だけを枝から垂らしている。
「見りゃ分かるだろ」
「分からねえから聞いてんだけど」
「じゃあ下りてこい」
ナツは枝から飛び降りた。
着地した足元で、枯れ葉がかさりと鳴る。
すぐに綿あめの袋へ顔を寄せ、次にヨーヨーを見た。
「何これ」
「知らねえの?」
「知ってる」
「じゃあ何だよ。言ってみ」
ナツは黙った。
期待通りすぎて笑いそうになる。
なんですぐ知ったかぶるんだよお前。
「知らねえじゃん」
「知ってる。桃色のやつと、水入ってるやつ」
「見たまんまだろ」
「合ってるだろ」
「名前は?」
「……桃色のふわふわ」
「綿あめ」
「わたあめ」
「こっちはヨーヨー」
「よーよー」
ナツが俺の言葉を確かめるように繰り返した。
名前を知らなかった頃と同じだ。
そう思うと、何となく胸の辺りがむずむずした。
「祭りで売ってた」
「祭り?」
「村でやってんの。屋台……あー、食いもんとかおもちゃとか売ってるちっちゃい店みたいのがたくさん出て、そこに人がいっぱい来て買い物して、そんであとで花火上がる」
「ふうん」
「見たことあんの?」
「音は聞こえる」
「花火は?」
「それも音は聞こえる。詳しくは知らねえ」
やっぱり。
少しだけ得意な気分になる。
「見せてやるよ」
「偉そうに」
「お前が知らねえから一緒に見てやろうとしてんだろ」
「頼んでねえよ」
「じゃあ帰る」
踵を返すふりをすると、ヨーヨーの紐を引かれた。
振り返る。
ナツは紐を指で挟んでいた。
「なんだよ」
「帰れとは言ってねえだろ」
「見たいんじゃん」
「お前が見せたいなら見てやる」
「またそれかよ」
ナツは手を離し、先に小道を歩き始めた。
「こっち」
「見える場所知ってんの?」
「音が近いところは知ってる」
「見たことねえくせに」
「うるせえな」
連れていかれたのは、川へ下りる道とは別の古い参道だった。
土の中へ半分沈んだ石畳が、木々の間を緩く上っている。
隙間には苔が詰まり、夕立の名残なのか、ところどころ黒く濡れていた。
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