14 / 15
02-14.ナツでいっぱい
東京へ戻れば、いつもの生活が始まった。
朝は決まった時間に起きて、制服を着て、混んだ電車へ乗る。
学校へ行けば友達がいて、授業があって、部活や試験やくだらない話で一日が過ぎる。
夏休みに山で何をしていたのか聞かれても、じいちゃんの家へ行っていたとだけ答えた。
川で遊んだとか、山へ入ったとか、そのくらいは話してもよかったけど、ナツのことは言わなかった。
誰かに話せば、どこの学校のやつなのか、家はどこなのか、写真はないのかと聞かれる。
どれも答えられないし、説明したところで信じてもらえる気もしなかった。
それに、話したくなかった。
ナツは俺だけが知っていればいい。からかうようなナツの声。ぶっきらぼうな口調。時々拗ねる子供っぽいナツ。
……うん。俺だけ知ってればいい。
夏が過ぎると、蝉の声が少しずつ減っていった。
夕方には風が涼しくなり、コンビニの棚からラムネが消えて、代わりに温かい飲み物が並び始める。
学校の帰りに友達と寄った店で、見たことのない菓子を見つけた。
口へ入れると舌の色が青くなるらしい。
ナツに食わせたら、面の下まで青くなるんだろうか。
そもそも舌があるのか。
そう考えて、袋を手に取った。
「なに、透。それ買うの?」
隣にいた友達が聞いた。
「んー……」
賞味期限を見る。
来年の夏までは持たない。
棚へ戻すと、友達が不思議そうな顔をした。
「いや。買わねえ」
「何だったんだよ」
「別に」
買っても渡せないなら意味がない。
そう思った後にすぐに思い直す。
いや意味がないって何でだよ。意味ねえことねえだろ。
そう思う一方で、自分が食べる為に手に取ったわけではないのは気付いていた。
……最初からナツに見せることしか考えていなかった?
いや。いやいや。いやいやいやいや。
「透?」
「……ねえ。ない。ねえ」
「なにが。何か探してんの?」
「ねえ」
「おーい?」
散々否定しても、何でか上手くいかない。
それから、何か変なものを見つけるたびに賞味期限を見る癖がついた。
長く持つ菓子や、袋に入った玩具は買って机の引き出しへ入れた。
夏まで保たないものは名前だけ覚えるようにして、夏が近くなったらまた買い足す為にリストにする。
その時買えなかったものも、ナツが気に入りそうなものは全部メモにした。
スマホのメモに、妙な単語が増えていく。
カラフルな立体のルービックキューブ。
お尻に敷くと変な音が出るちっちゃいクッション。
酸っぱすぎて友達が泣いた梅の菓子。
何の説明もない単語が増えていった。
母さんに画面を覗かれた時、「何これ」と聞かれた。
「忘れないようにしてんの」
「何を?」
「色々」
「夏休みの自由研究?」
「違う」
それ以上聞かれそうになったから、スマホを伏せた。
秋になると、学校の行事が増えていく。
文化祭の準備の最中、段ボールで作った看板が途中で倒れ、ペンキを床へぶちまけて全員で先生に怒られた。
その話をナツへしたら、絶対に笑う。
多分「間抜け」とムカつくことを言ってくる。
でも、ナツなら看板を作る前から倒れると言いそうだし、手伝わせたらもっとひどいものを作りそうだった。
考えているうちに、少し笑ってしまう。
「何笑ってんの」
友達に聞かれる。
「べつに」
「最近それ多くね?」
「何が」
「一人で笑って、べつにって言うやつ」
「気のせいだろ」
誤魔化しながら、乾きかけたペンキを雑巾で拭いた。
ナツの顔は見たことがない。
白い面しか知らない。
でも、笑っている時の肩の揺れ方も、拗ねた時に少し横を向く癖も、馬鹿にする前の声の調子も思い浮かべられた。
顔が見えないのに、どんな反応をするかは分かる。
変な話だった。
冬は、夏よりずっと静かだった。
蝉はいない。
窓を閉めれば外の音は遠く、朝の空気は冷たくて、布団から出るのが面倒になる。
ナツは寒さを感じるんだろうか。
冬の山にもいるのか。
雪が降ったら、あの薄い服のまま歩くのか。
それとも、寒い時は身体を出さないのかもしれない。
聞きたいと思った。
次に会った時に聞けばいい。
そう考えてから、夏までまだ半年以上あることに気付く。
「………」
長い。
口に出したわけでもないのに、その言葉だけが妙にはっきり浮かんだ。
夏休みが来るのが、なんだかひどく遠くの出来事のようでもどかしい。
……冬休みにじいちゃんの家へ行けば、ナツに会えるかもしれない。
一度、母さんへそう言おうとしたことがある。
「じいちゃんち、冬って」
そこまで言って、やめた。
夏以外も山へ来ればいいと話した時、ナツは「来れるなら」と言った。
冬に行っても、ナツはいるのかもしれない。
でも、いなかったら?
ナツは夏にいる。
いつからか、俺の中でそう決まってしまっていた。
わざわざ違う季節へ行って、その決まりが壊れるのが少し怖かった。
「冬が何?」
母さんが続きを待っている。
「寒ぃのかなと思って」
「寒いでしょうね。山だもの」
「だよな」
結局、それだけで話を切った。
年が明けると、学校では進級や進路の話が増えた。
次の学年で何を選ぶのか。
どの大学へ行きたいのか。
将来何をしたいのか。
まだ決まっていないと言うと、少し呆れた風に早く決めろと急かされた。
ナツなら、大学を知らないかもしれない。
中学の時も、高校へ何で行くのかと聞かれた。
大学の説明をしたら、また「行かなくていい」と言うだろうか。
それとも、もう少し違うことを言うだろうか。
例えばまた、「ここにいればいい」とか。
「……ばかじゃねえの」
言われたところで、何だっていうんだよ。ばかか。
なんでこんな、ナツの言葉一つを宝物みたいに抱えてる。ほんとにばかかよ。
「………くそ」
春になると、道沿いの木に新しい葉が出た。
新しい教室へ移り、机の位置が変わり、知らない同級生と話すようになる。
去年まで毎日一緒にいた友達とクラスが離れ、新しい友達ができた。
生活は勝手に変わっていく。
毎日同じ時間に学校へ行っているのに、去年と同じものは少しずつ減っていた。
そんな時は、なぜかいつもナツのことを思い出す。
今も同じ白い面で、同じ川辺に座っているんだろうか。
俺がいない間も、川を見ているのか。
一人でヨーヨーの破れたゴムを触ったり、ラムネの瓶を振ったりすることがあるんだろうか。
それとも、俺がいない時のナツには、俺の知っている姿なんてないのかもしれない。
腹の底に、濡れた石を落とされたみたいだった。
その感覚が嫌で、すぐに次に持っていくものを考えて気持ちを切り替えた。
ナツがまた白い面をつけて目の前に立つ姿が目に浮かぶ。
「なんだこれ」
「知らねえの?」
「知ってる」
「じゃあ言ってみろよ」
まだ渡してもいないのに、そこまで想像できる。
梅雨に入ると、空気が重くなった。
雨の日が続き、制服の袖が肌へ張りつく。
電車の中は濡れた傘と人の熱で息苦しく、窓は白く曇っていた。
蒸し暑い日は嫌いだった。
でも雨が上がったあとの土の匂いだけは、前よりも嫌いじゃなくなっていた。
山の小道を思い出すからだ。
濡れた苔。
石灯籠。
葉から落ちる水。
雨の中で輪郭が薄くなったナツ。
もうすぐだと思った。
カレンダーを見なくても分かった。
空気が湿り、夜になっても温度が下がらなくなり、店の棚へラムネが並び始める。
一年の中で散らばっていたものが、少しずつ同じ方へ集まってくる。
夏だ。
ナツがいる季節だ。
じいちゃんから電話が来る前に、母さんへ予定を聞いた。
「今年、いつ行ける?」
母さんはもう驚かなかった。
「学校の予定は大丈夫なの?」
「大丈夫。部活も休みあるし」
「じゃあ、おじいちゃんに連絡してみたら」
「うん」
その日のうちに電話をした。
じいちゃんは嬉しそうだった。
何日に来るのか、何が食べたいのか、バス停まで迎えに行こうかと聞かれた。
話しながら、机の引き出しを開ける。
一年かけて溜めたものが入っていた。
ナツが知らない菓子。
ナツが文句を言いそうな玩具。
ナツへ話すつもりで覚えていた、くだらない出来事。
前は、夏休みが来たからじいちゃんの家へ行っていた。
いつの間にか逆になっていた。
じいちゃんの家へ行って、ナツに会うために、夏を待っている。
「ナツ」
「遅えよ」
一年は、次の夏までの時間になっていた。
ともだちにシェアしよう!

