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02-14.ナツでいっぱい

東京へ戻れば、いつもの生活が始まった。 朝は決まった時間に起きて、制服を着て、混んだ電車へ乗る。 学校へ行けば友達がいて、授業があって、部活や試験やくだらない話で一日が過ぎる。 夏休みに山で何をしていたのか聞かれても、じいちゃんの家へ行っていたとだけ答えた。 川で遊んだとか、山へ入ったとか、そのくらいは話してもよかったけど、ナツのことは言わなかった。 誰かに話せば、どこの学校のやつなのか、家はどこなのか、写真はないのかと聞かれる。 どれも答えられないし、説明したところで信じてもらえる気もしなかった。 それに、話したくなかった。 ナツは俺だけが知っていればいい。からかうようなナツの声。ぶっきらぼうな口調。時々拗ねる子供っぽいナツ。 ……うん。俺だけ知ってればいい。 夏が過ぎると、蝉の声が少しずつ減っていった。 夕方には風が涼しくなり、コンビニの棚からラムネが消えて、代わりに温かい飲み物が並び始める。 学校の帰りに友達と寄った店で、見たことのない菓子を見つけた。 口へ入れると舌の色が青くなるらしい。 ナツに食わせたら、面の下まで青くなるんだろうか。 そもそも舌があるのか。 そう考えて、袋を手に取った。 「なに、透。それ買うの?」 隣にいた友達が聞いた。 「んー……」 賞味期限を見る。 来年の夏までは持たない。 棚へ戻すと、友達が不思議そうな顔をした。 「いや。買わねえ」 「何だったんだよ」 「別に」 買っても渡せないなら意味がない。 そう思った後にすぐに思い直す。 いや意味がないって何でだよ。意味ねえことねえだろ。 そう思う一方で、自分が食べる為に手に取ったわけではないのは気付いていた。 ……最初からナツに見せることしか考えていなかった? いや。いやいや。いやいやいやいや。 「透?」 「……ねえ。ない。ねえ」 「なにが。何か探してんの?」 「ねえ」 「おーい?」 散々否定しても、何でか上手くいかない。 それから、何か変なものを見つけるたびに賞味期限を見る癖がついた。 長く持つ菓子や、袋に入った玩具は買って机の引き出しへ入れた。 夏まで保たないものは名前だけ覚えるようにして、夏が近くなったらまた買い足す為にリストにする。 その時買えなかったものも、ナツが気に入りそうなものは全部メモにした。 スマホのメモに、妙な単語が増えていく。 カラフルな立体のルービックキューブ。 お尻に敷くと変な音が出るちっちゃいクッション。 酸っぱすぎて友達が泣いた梅の菓子。 何の説明もない単語が増えていった。 母さんに画面を覗かれた時、「何これ」と聞かれた。 「忘れないようにしてんの」 「何を?」 「色々」 「夏休みの自由研究?」 「違う」 それ以上聞かれそうになったから、スマホを伏せた。 秋になると、学校の行事が増えていく。 文化祭の準備の最中、段ボールで作った看板が途中で倒れ、ペンキを床へぶちまけて全員で先生に怒られた。 その話をナツへしたら、絶対に笑う。 多分「間抜け」とムカつくことを言ってくる。 でも、ナツなら看板を作る前から倒れると言いそうだし、手伝わせたらもっとひどいものを作りそうだった。 考えているうちに、少し笑ってしまう。 「何笑ってんの」 友達に聞かれる。 「べつに」 「最近それ多くね?」 「何が」 「一人で笑って、べつにって言うやつ」 「気のせいだろ」 誤魔化しながら、乾きかけたペンキを雑巾で拭いた。 ナツの顔は見たことがない。 白い面しか知らない。 でも、笑っている時の肩の揺れ方も、拗ねた時に少し横を向く癖も、馬鹿にする前の声の調子も思い浮かべられた。 顔が見えないのに、どんな反応をするかは分かる。 変な話だった。 冬は、夏よりずっと静かだった。 蝉はいない。 窓を閉めれば外の音は遠く、朝の空気は冷たくて、布団から出るのが面倒になる。 ナツは寒さを感じるんだろうか。 冬の山にもいるのか。 雪が降ったら、あの薄い服のまま歩くのか。 それとも、寒い時は身体を出さないのかもしれない。 聞きたいと思った。 次に会った時に聞けばいい。 そう考えてから、夏までまだ半年以上あることに気付く。 「………」 長い。 口に出したわけでもないのに、その言葉だけが妙にはっきり浮かんだ。 夏休みが来るのが、なんだかひどく遠くの出来事のようでもどかしい。 ……冬休みにじいちゃんの家へ行けば、ナツに会えるかもしれない。 一度、母さんへそう言おうとしたことがある。 「じいちゃんち、冬って」 そこまで言って、やめた。 夏以外も山へ来ればいいと話した時、ナツは「来れるなら」と言った。 冬に行っても、ナツはいるのかもしれない。 でも、いなかったら? ナツは夏にいる。 いつからか、俺の中でそう決まってしまっていた。 わざわざ違う季節へ行って、その決まりが壊れるのが少し怖かった。 「冬が何?」 母さんが続きを待っている。 「寒ぃのかなと思って」 「寒いでしょうね。山だもの」 「だよな」 結局、それだけで話を切った。 年が明けると、学校では進級や進路の話が増えた。 次の学年で何を選ぶのか。 どの大学へ行きたいのか。 将来何をしたいのか。 まだ決まっていないと言うと、少し呆れた風に早く決めろと急かされた。 ナツなら、大学を知らないかもしれない。 中学の時も、高校へ何で行くのかと聞かれた。 大学の説明をしたら、また「行かなくていい」と言うだろうか。 それとも、もう少し違うことを言うだろうか。 例えばまた、「ここにいればいい」とか。 「……ばかじゃねえの」 言われたところで、何だっていうんだよ。ばかか。 なんでこんな、ナツの言葉一つを宝物みたいに抱えてる。ほんとにばかかよ。 「………くそ」 春になると、道沿いの木に新しい葉が出た。 新しい教室へ移り、机の位置が変わり、知らない同級生と話すようになる。 去年まで毎日一緒にいた友達とクラスが離れ、新しい友達ができた。 生活は勝手に変わっていく。 毎日同じ時間に学校へ行っているのに、去年と同じものは少しずつ減っていた。 そんな時は、なぜかいつもナツのことを思い出す。 今も同じ白い面で、同じ川辺に座っているんだろうか。 俺がいない間も、川を見ているのか。 一人でヨーヨーの破れたゴムを触ったり、ラムネの瓶を振ったりすることがあるんだろうか。 それとも、俺がいない時のナツには、俺の知っている姿なんてないのかもしれない。 腹の底に、濡れた石を落とされたみたいだった。 その感覚が嫌で、すぐに次に持っていくものを考えて気持ちを切り替えた。 ナツがまた白い面をつけて目の前に立つ姿が目に浮かぶ。 「なんだこれ」 「知らねえの?」 「知ってる」 「じゃあ言ってみろよ」 まだ渡してもいないのに、そこまで想像できる。 梅雨に入ると、空気が重くなった。 雨の日が続き、制服の袖が肌へ張りつく。 電車の中は濡れた傘と人の熱で息苦しく、窓は白く曇っていた。 蒸し暑い日は嫌いだった。 でも雨が上がったあとの土の匂いだけは、前よりも嫌いじゃなくなっていた。 山の小道を思い出すからだ。 濡れた苔。 石灯籠。 葉から落ちる水。 雨の中で輪郭が薄くなったナツ。 もうすぐだと思った。 カレンダーを見なくても分かった。 空気が湿り、夜になっても温度が下がらなくなり、店の棚へラムネが並び始める。 一年の中で散らばっていたものが、少しずつ同じ方へ集まってくる。 夏だ。 ナツがいる季節だ。 じいちゃんから電話が来る前に、母さんへ予定を聞いた。 「今年、いつ行ける?」 母さんはもう驚かなかった。 「学校の予定は大丈夫なの?」 「大丈夫。部活も休みあるし」 「じゃあ、おじいちゃんに連絡してみたら」 「うん」 その日のうちに電話をした。 じいちゃんは嬉しそうだった。 何日に来るのか、何が食べたいのか、バス停まで迎えに行こうかと聞かれた。 話しながら、机の引き出しを開ける。 一年かけて溜めたものが入っていた。 ナツが知らない菓子。 ナツが文句を言いそうな玩具。 ナツへ話すつもりで覚えていた、くだらない出来事。 前は、夏休みが来たからじいちゃんの家へ行っていた。 いつの間にか逆になっていた。 じいちゃんの家へ行って、ナツに会うために、夏を待っている。 「ナツ」 「遅えよ」 一年は、次の夏までの時間になっていた。

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