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02-15.早いなぁ
高校三年の夏も、じいちゃんの家へ行った。
夏休みが明ければ模試や願書や受験が待っているのに、俺にはまだ高校を卒業する実感すらあまりない。
電車に揺られながら、田畑や低い家が増えていく車窓を眺める。
思い浮かぶのは、学校で過ごした三年間のことより、ナツとの夏のことばかりだった。
駅へ降りた瞬間、熱気が肌へまとわりつく。
線路の向こうでは草が白く光り、遠くの山は湿った空気の中で輪郭を滲ませていた。
じいちゃんの家へ向かうバスは相変わらず冷房が弱い。開かない窓の向こうを、田んぼと低い家、ぎらぎら光る用水路がゆっくり後ろへ流れていった。
去年と同じ。
毎年見てきた景色で、夏になれば戻ってくる場所だ。
じいちゃんの家へ着くと、庭先に打ち水をした跡が残っていた。
乾きかけた土から湿った匂いが上がり、軒下の風鈴がちりん、と鳴っている。
「大きくなったな」
開口一番に、じいちゃんは去年と全く同じことを言った。
「毎年言ってねえ、それ」
「毎年大きくなってるからな」
「もうそんな伸びねえよ」
「そうかあ?」
俺の頭の辺りを見上げて、少し目を細める。
じいちゃんは、昔より少し小さくなった気がする。
「もう高校も最後だろ」
「まだ卒業してねえよ」
「すぐだ、すぐ」
「来年の春だから。全然すぐじゃねえし」
「年取ると、春なんかすぐ来るぞ」
適当なことを言って笑うじいちゃんを横目に客間へ移動する間、家の中を見渡す。
畳の匂いも、仏間の線香も、麦茶の入ったやかんも何も変わっていない。
柱に掛けられた時計は、じいちゃんと同じで前より小さく見えた。
持ってきた鞄を開ける。
俺の部屋の机の引き出しで一年保管していた菓子や玩具が詰まっていた。
今年は、口の中でパチパチ弾ける酸っぱい飴と、水へ入れると膨らむ恐竜と、押すと変な声を出す蛙。他にも色々入ってる。
食いもんは賞味期限も確認した。全部、まだ大丈夫。よし。
……いや、よしってなんだよ。別に何も確認してねえし。
誤魔化すように蛙を鞄から取り出し、袋に入れる。そのまま腹を押すと、潰れたような声が鳴った。
「………ふ」
ナツは多分、最初に「うるせえ」と言う。
そのくせ何度も押す。
想像して少し笑い、それから袋を閉じた。
「じいちゃん、ちょっと外出てくる」
じいちゃんに一言かけてから外へ出る。日差しが目に刺さった。
道には人がいない。
昼過ぎの村は熱の中で眠っているみたいに静かだ。時々どこかからテレビの音だけが漏れている。
蝉はうるさい。道路脇の木も、遠くの林も、目に見える場所すべてから鳴いているようだった。
首筋に汗が流れて、シャツの背中がすぐに湿る。足は自然に山へ向かっていた。
毎年通った道だ。
景色もほとんど変わっていないし、道は知っている。
目を閉じても歩ける気がした。
「………」
たどり着いた先の鳥居は、毎年変わらない。
剥げた柱が年季を感じさせる。
最初の年には、近づくだけで山の入口が口を開けているように見えたのに、今では俺の背丈より少し高いだけの古いものだった。
毎年ずっと、柱の間じゃなくて横を通ってきた。
一番初めに脇から入ってから、習慣みたいに続いていたそれ。
なんとなく、もういいか、と思う。
俺ももう、屁理屈こねるような子供でもねえし。
別に何が起こるわけでもないだろうし。
……それに、これからだって毎年通うのに、ずっと横道から入るのも面倒くせえし。
そのまま足を踏み出して、柱の間を通る。
「………、……ッうあっ」
なぜか肩に、小さな水滴が落ちた。
昨日、雨でも降っていたのかもしれない。
鳥居を抜けて振り返っても特に様子は変わらない。
やっぱり何ともねえじゃねえかよ。……ビビらせんなよ。
そのまま道なりに進んで、穴の開いた大木を通る。
首のない石像も、半分埋まった石灯籠も、赤い実の成った木も、最初の夏から何も変わっていなかった。
「ナツ」
呼ぶ。返事はない。
気にせず進む。
「ナツ」
どうせ聞いている。
多分、木の上か岩の裏で、何度呼ぶか数えている。
「ナツ、来たぞ」
蝉の声が響く。足元で乾いた枝が折れた。
少し先の葉が揺れる。
「おせえ」
後ろから聞こえた声に振り向くと、白い面があった。
黄ばんだ骨みたいな白。
片頬に藍色の朝顔。
最初の夏と変わらない細い身体。
ナツは木の幹へ背を預け、こちらを見ていた。
「着いた日に来てやっただろ」
「去年より遅え」
ナツが身体を起こす。
俺を上から下まで眺め、それから少しだけ面を傾けた。
「またでかくなった」
「じいちゃんにも言われた」
「どこまででかくなんの」
「知らねえよ。もう止まるだろ、多分」
「ふうん」
ナツが近づく。
昔なら目の前にあった白い面が、今は俺の肩くらいの位置にある。
「なに持ってんの」
ただの子供にしか見えないのに、日差しの下では薄かった山の影が、ナツの周りだけ一段深く見える。
蝉の声も、今日はなぜか、ナツのすぐ近くでは少し籠もって聞こえた。
「土産」
「俺に?」
「他に誰がいんだよ」
答えると、ナツが少し黙った。
一瞬だけだった。
すぐに袋へ手を伸ばし、勝手に中を覗く。
「何これ」
「知らねえの?」
「知ってる」
「じゃあ言ってみろよ」
「蛙」
「半分正解」
蛙の腹を押す。
ぶぇ、と潰れた声が鳴った。
ナツの手が止まる。
「……何だこれ」
「蛙」
「蛙はこんな声じゃねえ」
「玩具なんだからいいだろ」
ナツはもう一度押した。
ぶぇ。
また押す。
ぶぇ。
「うるせえ」
「お前が鳴らしてんだろ」
「弱そうな声」
「文句言うなら返せ」
「いらねえとは言ってねえ」
ナツは蛙を握ったまま、川へ向かって歩き始めた。
俺も隣に並んだつもりだったのに、歩幅が合わない。
気付けば少し先へ出ていて、立ち止まってナツが追いつくのを待つ。
ナツは何も言わなかった。
隣に並んだのを確認して、また歩き出す。
「お前、歩くの遅くなった?」
「お前が速くなったんだろ、俺じゃねえよ」
「そうか?」
「無駄に脚が長くなったせいじゃねえの。何に使うわけでもねえのにな」
「ちびの僻み?」
「転ばすぞ」
「届くならどうぞ」
足を狙われると思って避けたのに、ナツは何もしなかった。
白い面を少し上へ向け、俺を見ている。
「なに」
「べつに」
「なんだよ」
「顔、変わったな」
「は?」
思わず自分の頬へ触れる。
「変わってねえよ」
「変わった。前より人間っぽい」
意味が分からなかった。
「は? 最初から人間だけど」
「知ってる。……知ってるよ」
ナツはそれだけ言って、先へ進んでいく。
……なんだよ、今の。
もやもやしたまま、それでも何も言えずに後に続いていくと、川が見えてきた。
そのまま川沿いを下っていく。木々の間から落ちる光が水の上で細かく砕けていた。陽の光が少し眩しい気がする。
もう定位置になっている浅瀬の岩に腰を掛けて、靴と靴下を脱ぐ。
足が浸かった水は青く透き通っていた。
丸い石の間を通る流れは緩やかなのに、少し離れた位置にやけに暗く見える場所もあって、少しぞっとする。
「今年は何日いんの?」
隣の岩へ座りながらナツが聞く。白い足が水へ沈むのが横目に見えた。
水面が揺れ、俺とナツの脚が同じ形に歪んだのに、大きさは全然違う。
ナツだけ、初めて会った時と変わらない。
「十日くらい」
「短え」
「受験あるから仕方ねえだろ」
「また試験かよ」
「大学行くからな」
「どこにあんの」
「東京。いま住んでるところと一緒」
白い面は川へ向いたままだった。流れの音だけが、妙に近く聞こえる。
「大学とやらに行ったら、お前何すんの」
「勉強」
「今もしてるだろ。どう違えの。何の勉強すんの」
矢継ぎ早に質問が飛んでくる。
間を置かずに問いを重ねるナツは、珍しかった。
「まだ決めてねえ。受かってから考える。潰しがきく、……あー。んと、……将来に困らないような勉強」
「その勉強が終わったら?」
「普通に就職じゃね。まだ何したいとか決めてねえけど、まあ働く。お金を稼いで、それで生活して、自立するよ。俺もいつまでも子供じゃねえし」
ナツの指が、膝に置かれた蛙の腹へ沈む。
ぶぇ、と間抜けな声がした。
いつもならそれだけで笑いそうなものなのに、あの吐息が跳ねるような声が聞こえない。
何となく気まずくなって足を動かすと、川面に細い波が走る。
「……なんだよ」
「なにが」
「さっきから変じゃねえ?」
「お前が?」
「お前だよ」
「変じゃねえ」
「嘘つけ」
「嘘じゃねえよ」
声はいつも通りだった。
ぶっきらぼうで、少し上から目線で、偉そうなナツ。
それなのに、何かが噛み合わない。
俺の足元からは波紋が幾重にも広がっていく。それなのに、水へ浸した白い足の周りだけ、流れが避けるように輪を作っていた。
「……ナツ」
確かめるように名を呼ぶ。
「なに」
間を置かず、聞き慣れた声が返ってきた。
いつも通りのはずなのに気が急いて、口がひとりでに動く。
「来年からもうちょい長くいられるかも」
「なんで」
「大学入ったら今より休み長くなんだよ。じいちゃんちにももっと長く泊まれそう」
ナツは何も言わない。
蝉の声は途切れず聞こえているのに、ナツが黙るたび、その隙間だけ山の音が遠ざかる。
「大学の近く、今より色々店とか多そうだし。お前の好きそうなもんももっと持って来てやるよ」
「………」
「あと、花火。今年は日程合わねえけど、来年は一緒に見れる。去年のサイダーの飴は、林檎飴より好きそうだったよな。他何食ったことなかったっけ。クレープとか? お前実は甘いもん好きだろ、だから気にいると思う。クリームいっぱいのやつにしてやるよ」
「……あそ」
薄い返事が、水音へ紛れそうになる。
腹が立って、肩を軽く押した。
「なんだよ、その反応」
ナツの身体が少し傾く。
押した力よりずっと大きく揺れて、白い面の輪郭が一瞬だけ空気に滲んだように見えた。
瞬きをする。
もう元に戻っている。
「ナツ?」
「なに」
「お前、いま」
言いかけた時、蝉の声が止んだ。
一匹ずつ静かになったのではない。山中の音が、同時に切れた。
さっきまで空気を埋めていた鳴き声がなくなり、川の流れだけが大きく残った。
風もなく、葉も動かない。世界が息を止めたみたいだった。
ナツが白い面をこちらへ向ける。
朝顔の藍が、いつもより濃く見えた。
「……早いなぁ」
ナツの声以外、生きものの音が何も聞こえない。
それなのに、一瞬、今の声がナツのものだと分からなかった。
そんな声、聞いたことがない。
いつものナツより少し遠く、少し深い。
水底に沈んでいるような、静かな声だった。
「なにが」
聞き返しても、ナツは答えない。
白い面が俺を見上げている。
眩しいものを見るみたいに、少しだけ顔を傾けていた。
面だから表情なんて分からない。
それなのに、笑っているように感じた。
嬉しそうで。寂しそうで。
今まで一度も見たことがないくらい、優しく。
「何が早いんだよ」
もう一度聞く。
ナツの手がゆっくり伸ばされるのが見える。
そのまま、指先が俺の頬へ触れた。
「………」
冷たい。
水へ浸していたからだろうか。
でも川の水よりもっと冷えている気がする。
「……お前、こんなだったっけ」
「は?」
「最初は小さかった」
「お前と同じくらいだろ」
「小さかったよ」
「お前もな」
「そうだな」
指先が頬から離れる。
触れた場所だけ、夏の熱が戻ってこない。
「すぐ大きくなる」
ナツの声が、頬に残った冷たさへ重なる。
「成長してんだから当たり前だろ」
「すぐ遠くなる」
「……なんだそれ。ならねえよ。毎年来てんじゃん」
「そういう話じゃねえ」
「じゃあどういう話だよ」
ナツは答えなかった。
足元の水面が、ゆっくり歪んだ。
俺もナツも動いていないのに、丸い波が一つ、また一つと広がっていく。
遅れて、頭上の梢がざわりと鳴った。
風はまだない。
山がナツの代わりに何かを訴えているみたいで、背中が薄く粟立つ。
「……意味分かんねえ」
吐息の跳ねる、聞き慣れた笑い声が返ってきた。
肩が揺れ、面がわずかに傾く。
その瞬間、沈黙を破るように蝉が一斉に鳴き始めた。
耳を塞ぎたくなるほど大きな声が戻り、止まっていた空気が急に動き出す。
湿った風が川を渡り、汗ばんだ首筋へまとわりついた。
「なあ、どういう意味だよ」
ナツがまた蛙の玩具を押す。
ぶぇ。
間の抜けた音が、戻ってきた蝉の声へ呑まれていく。
また肩が揺れた。
質問に答えるつもりはないらしい。
腹が立つ。
それなのに、さっきまでナツの周りにあった妙な気配が消えていることへ、少しだけほっとした。
……なんで俺、こんなにこいつの様子を気にしてんの。
意味分かんねえ。
それでも、目の前でナツが笑ってるから、それ以外はどうでもいい気もした。
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