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02-16.もう来るな
その日からも、俺たちは例年と同じように遊んだ。
川へ入り、魚を追う。
昔より狭く感じる小道を歩き、ナツが根へ躓いたのを笑った。
「山が悪い」
「何年経ってもそれ言うのな」
「山が何年経っても直さねえから」
「山に謝らせんの?」
「お前が謝れ」
「俺関係ねえだろ」
口が悪くて、負けず嫌いで、すぐ拗ねて、すぐ何かのせいにして、すぐ俺をからかう。
俺の持ってきた菓子は文句を言いながら全部食べたし、水へ入れた恐竜が少しずつ膨らむのを一時間以上じっと見ていた。
「そんなすぐでかくならねえよ」
「いつなる」
「明日くらい」
「遅え」
拗ねた声だけ聞けば、何も知らない子供みたいだった。
俺はそのまま、あの日の「早いなぁ」を忘れたふりをした。
忘れたわけではない。でもどうせ、聞いても答えない。
来年も来ればいい。
その時に、また聞けばいい。
じいちゃんちにいる予定だった十日間はすぐに過ぎた。
「今日は早えな」
その日の朝、ナツは石灯籠の上へ座っていた。
空は眩しいほど晴れ渡り、木々の隙間から落ちる日差しが石灯籠の上まで白く照らしていた。
蝉の声もいつも以上に近く、煩いほど響いている。
荷物はもうまとめてある。
東京へ帰れば、すぐに模試だ。宿題も残っているし、文化祭の準備も始まる。大学の見学にだって行くつもりだし、予定が詰まっている。
「昼には帰らなきゃいけねえから、その前に来てやった」
「えらそう」
「うるせえな、待ってたくせに」
からかい返す声はなかった。
石灯籠から降りたナツが、白い面を前へ向けたまま歩き出す。
何となく続きを言いそびれ、その背中を追った。次第に目の前に川が開け、何年も隣り合って座ってきた浅瀬へたどり着く。
でも、俺もナツも水の中に足を入れなかった。
水面には日差しが眩しいほど反射しているのに、流れの下にある石はいつもより遠く、暗く見えた。
「なあ」
白い面は川へ向いたままだった。
水面の光だけが、その頬を細かく揺らしている。
「卒業したら大学始まるまで暇だからさ。じいちゃんち遊びに来ようと思ってて。……ナツって春も山にいんの」
まだ卒業していない。
受験もこれからだ。
それでもナツと来年の約束をすることが、俺の中ではもう当たり前になっていた。
「いるよ」
「じゃあ、春も来る」
夏以外には来なかった。毎年続く規則を壊すのが怖かったから。
でも大学生になるなら、もういい気がした。夏以外のナツも、ナツのいる山も見てみたい。
春の山も、秋の小道も、冬の川も、ナツが本当にずっとここにいるのかも確かめたい。
「大学に入ったら、秋も冬も来れるかもしれねえ。なあ、お前雪だるまとかかまくらとか知ってる? 雪降ったらさ、一緒に」
「来なくていい」
「は?」
俺の声を断ち切るように、ナツの言葉が重なった。
続きを喋りかけた口が、そのまま止まる。
「来なくていいよ」
俺が理解していないと思ったのか、ナツがもう一度同じ言葉を繰り返した。
来なくていい。来なくていいよ。
何が。誰が。
「……なんだそれ。来てほしくねえの?」
「うん」
白い面は、こちらを向きもしない。
声は笑っていない。
「……は?」
聞き間違えた気がした。
「なに」
「もう来るな」
意味を理解するまで、少し時間がかかった。
蝉の声が遠い。
川の音も、木々の揺れる音も、全部薄い膜の向こうへ離れていく。
「何で」
喉が乾く。
面に反射する光が、やけに眩しい。
「なあ、何で」
「面倒になった」
ぶっきらぼうで、少し投げやり。聞き慣れた声だった。
それなのに、言葉だけがいつもと違う。
嬉しそうに笑うナツ。俺の言葉に拗ねるナツ。面倒くさそうに返事をするナツ。
「また来る?」そう毎年必ず確認していたナツ。
どのナツとも、違っていた。
「は、あ……? ……なんだよ、変な嘘つくんじゃねえよ」
「最初からお前はずっと面倒だったよ。前も言ったろ」
「なら何で今まで」
何で今まで会ってた?
何で毎年待ってた?
何で俺の持ってきたものを全部取っておいた?
何でラムネも、花火も、その先の未来も、俺と約束したんだ。
「……何かした?」
自分の声が、思っていたより小さかった。
震えてる。みっともない。でもそんなものに今構ってられない。
ナツがこちらを見る。
白い面。
何年も見てきた、何を考えているのか分からない顔。
「俺、何かしたの」
「してねえよ」
「じゃあ何でだよ!」
声を上げると、木々の上で鳥が一斉に飛び立った。
羽音が遠ざかる。
「意味分かんねえ。急に何なんだよ。来年も来るって言ってんじゃん」
「来なくていい」
「お前が決めるなよ」
「俺が決める」
「ッんでだよ」
「お前はもう、ここに来る子供じゃねえから」
「はあ?」
「大きくなった。自分で言っただろ、もう子供じゃねえって」
「だから何だよ。大きくなったら来ちゃいけねえの?」
白い面は動かない。
川音だけが二人の間を流れていく。
「俺が高校卒業するから? 大学行くから? 東京にいるのは今までだって同じじゃねえかよ!」
「同じじゃねえよ」
声が低かった。その一瞬だけ、俺より年上の大人の男の声のようだった。
蝉の声がまた止む。
陽が差しているはずなのに、ナツの周りだけが暗い。
白い面だけが妙に明るく浮かび、その後ろの身体は影へ溶けていくように薄く見えた。
「何が違うんだよ」
「全部」
「分かるように言え」
「べつに分かって欲しくて言ってるわけじゃねえ」
「んだよそれ……ッ」
立ち上がる。ナツも向かい合うように立った。
俺の方がずっと背が高い。
なのにナツがこちらを見上げた瞬間、自分が最初の夏の子供へ戻ったような気がした。
山へ迷い込み、何も知らずに川へ落ちかけた、十三歳の俺。
ナツの白い指が伸びる。肩へ触れるかと思った。
でも、触れなかった。
指先はシャツのすぐ手前で止まり、そのまま下りた。
「ああ」
ナツの声が少し掠れた。
「ほんとうに、早いなぁ」
静かで、遠いナツの声。笑っている。
多分、笑っている。
木漏れ日が、ナツの肩や足元へまだらに落ちている。
それなのに、面の端だけが光よりも眩しいものみたいに白く見えた。
「……なにが」
下ろされた白い指は、もう動かなかった。
川面から返る光だけが、俺たちの間を揺れている。
「何が早いんだよ」
「お前」
「俺の何が」
「全部」
「それじゃ分かんねえって言ってんだろ!」
「分からなくていいよ」
優しい声だった。聞き分けのない子供に言い聞かせる、大人のそれだった。
その優しさが、余計に腹立たしかった。
最初から俺の返事を聞く気がない。
何を言っても、もう決めている。
「嫌だ」
子供みたいな言葉だ。ただの駄々だ。分かってる。
分かってるけど、でも他に何を言えばいいのか分からない。
どう言えば、分かってもらえるか分からない。
何をすれば話を聞いてもらえるのか、見当もつかない。
「来る。来年も来る」
そこで一度、言葉を切った。
川音の隙間を探しても、ナツの声だけが落ちてこない。
「春も来る。夏も来る。お前が出てこなくても呼ぶ」
「来るな」
「嫌だ」
「もう来なくていい」
「嫌だって言ってんだろ!」
ナツの肩が少し揺れた。笑ったのかもしれない。
でもいつもの、俺をからかう笑い方ではなかった。
「ほんとに言うこと聞かねえな」
「お前の言うことなんか聞くかよ」
「知ってる」
「なら諦めろ」
「諦めるのはお前だよ」
「は?」
「俺を、『ナツ』を諦めるのはお前」
体の中心を、冷たく尖ったものが貫いた。
一瞬、呼吸を忘れる。
息を吸ったはずなのに、肺まで届かない。
「……なん、だよ、それ」
喘ぐように何とか声を絞る。
白い面からは、何も読み取れない。
「どういう意味だよ」
「帰れ」
「話終わってねえだろ」
「終わったよ」
「ッ終わってねえ!」
「俺は終わった」
「勝手に終わらせんなよ!」
川の音が大きくなる。
熱の籠もった空気を裂くように、湿った風が山の上から下りてきた。
木々の葉が一斉に裏返り、山全体がざわめいた。
ナツの輪郭が揺れる。
水面へ映った白い面が、流れの中で何度も途切れる。
「ナツ!」
名前を呼ぶ。
白い面がこちらを向いた。
「なに」
名前を呼べば、返事だけは返ってくる。
それが余計につらかった。
「来年もいるよな」
何を聞いているんだと思った。
さっき答えを聞いた。
それでも、別の返事が欲しかった。
いつものように「知らねえ」とか、「確かめたいなら来れば」とか、そういう言葉が欲しかった。
「いるって言えよ」
返事はない。
「ナツ」
白い面に描かれた朝顔が、濡れたように濃く見えた。
「ナツ!」
「もう帰れ」
ナツの声はずっと優しい。
優しいくせに、どこか固い。
どうして。どうして、そんな声で、そんなこと言うんだよ。
「ナツ」
「……帰れ」
ナツの声が、空気に溶けるように鼓膜を揺らした。
次の瞬間、蝉の声が爆発した。
何百匹もの鳴き声が一斉に耳へ押し寄せ、視界が揺れる。思わず目を閉じ、腕で顔を覆った。
ほんの数秒だった。
顔を上げる。
ナツはまだそこにいた。
白い面も、細い身体も、何も変わっていない。
それなのに、ひどく遠かった。
手を伸ばしても届かない場所へ立っているように見えて、思わず握りしめた掌に爪が食い込んだ。
なんだよ。……なんだよ。帰れって、なんだよ。
「……またな」
意地だ。分かってる。これはもう、ただの俺の意地だった。
毎年聞いていた「うん」は返ってこない。
「また来る」
白い面は動かない。
「絶対来る」
そこで初めて、わずかに首が傾いた。
それが頷いたのか、笑ったのか、俺には分からなかった。
鳥居へ向かう。
途中で何度も振り返った。
ナツはついてこなかった。
いつもなら鳥居の近くまで来るのに、その日は川辺から動かなかった。
最後にもう一度振り返る。
木々の隙間の向こうに、白い面だけが見えた。
「ナツ!」
呼ぶ。
次に目を凝らした時には、返事も、姿もなかった。
それでも、そのうちまた「なに」「うるせえ」と言いながら、あいつの方から出てくる。
隠れて、からかっているだけだ。
本気でいなくなるわけがない。
来年も、またここへ来ればいい。
ナツはきっと、同じようにそこにいる。
……いる。
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