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02-17.巡るめぐる

みーんみんみんみーん。 忙しない蝉の声が、頭の上から降ってくる。 木漏れ日の落ちるいつもの小道を歩くたび、手に提げた袋の中で、二本のラムネ瓶が触れ合った。 からん、と涼しげな音がする。 「あっちぃ……」 額から流れた汗を手の甲で拭う。 結局、高校を卒業した年の春は山へ入らなかった。 俺は夏の山しか知らない。 春にしか出てこない珍しい虫とか妙な模様の蝶とか、あいつなら知ってそうだったから、春になったらナツに聞こうと思っていた。 春先なら動物だって夏より多く見掛けるかもしれない。 近所のばあちゃんは山にたぬきがいると言っていたけど、結局一度も見たことがない。 他には何がいるのか。ナツは知っているのか。 多分聞けば得意げに話してくれる。もしくは「そんなこともしらねえの」ってちょっと上から目線で呆れてくるか。 だから聞こうと思ってたのに。 『もう来るな』 そう思っていたのに、あの声を思い出した途端、身体が動かなくなった。 どうせ、俺には分からない理由で拗ねているだけだ。 呼べば、そのうち出てくる。 いつもそうだった。 これからも、きっと変わらない。 そう思うのに、春先にじいちゃんちに行くつもりで意気込んでいた気持ちはいつのまにか消えていた。 代わりに、今こうして暑い中汗だくになりながら、例年のように夏の山を歩いてる。 結局、大学生になった今も、俺は何も変わってない。 袋の中でラムネがまた、からん、と鳴った。 「……ナツ」 返ってくるのは蝉の声だけだった。 喉の奥が妙に絡み、続きがうまく出てこない。 一度深く息を吸ってから、もう一度口を開く。 「ナツ、……おい。来たぞ」 木々のざわめきと虫の声が、やけに耳につく。 「……毎回毎回しつこく呼ばせやがって。どうせ出てくるんだから、最初から来いよ」 声が掠れた。 歩きながら、周囲を見渡す。 石段を越えてもいなかった。 ナツがよく座っていた石灯籠の前も、もう通り過ぎている。 穴の空いた大木の前にも、赤い実の低木の傍にも、白い面はなかった。 ナツが木の根へ躓き、山が悪いと言い張った道が目に入り、足が止まる。 『今、転んだ?』 『転んでない』 『躓いたじゃん』 『山が悪い』 最初に会った夏が、勝手に脳みその中で蘇る。 ナツは、意地を張る時いつも食い気味に返事をする。 普段は偉そうで、何でも知っているみたいな顔をしているくせに、失敗するとすぐ拗ねる。言い訳だってめちゃくちゃ雑だった。 「ナツ」 木の上にもいない。 「……おい、お前いい加減にしろよ。なに拗ねてんの。ナツ、……なあ」 岩の裏を覗いても、ただ無機質な肌が剥き出しになっているだけだった。 「ナツ」 いつの間にか、川へたどり着いていた。 喉が焼けるように熱い。 川下へ続く道を辿り、浅瀬を歩く。靴の裏が少し濡れたけど、構わずいつもの岩へ腰を下ろした。 隣へ袋を置く。 『また来たのか』 頭の中で声が聞こえた気がして、顔を上げる。 「………」 やっぱり、誰もいない。 水の音がする。 「……あっちぃな、まじで……」 川の中にいるせいか、坂道を歩いていた時より少し涼しい。 それでも体の中に溜まった熱がなくなることはなくて、額に汗が伝った。 喉が渇いていた。ここまで歩いて汗をかいたせいだと思い、袋からラムネを一本取り出す。 蓋を押し込むと、ビー玉が落ち、瓶の中で高い音を立てた。 『取り方教えてやろうか? ほーら、頼んでみろよ。お願いしますってさ』 『……いらねえ。割る』 『まてまてまて!』 知ったかぶりして、瓶の開け方もろくに知らなかったナツ。 それだけならまだしも、なぜか石で割ろうとし始めたナツ。 俺のことを乱暴だの何だの言っていたくせに、あいつも大概だ。 思い出して、少し笑った。 「ふ」 その笑い声が、自分の耳へ返ってくる。 「………」 それなのに、誰も続けて笑わない。 唇を瓶へつける。 甘い。炭酸が舌へ刺さった。 『甘い』 『気に入ってんじゃん』 『気に入ってねえ』 『飲んでるくせに』 『毒か確かめてる』 昔と同じ味なのに、ひどく飲みにくかった。 その年の夏休みは、丸々じいちゃんの家へ泊まった。 毎日山へ通い、日が暮れるまでナツを呼ぶ。山を下りる時には、ナツと過ごした時間ばかり思い出した。 じいちゃんは一度だけ、渋い顔で「山か」と聞いた。 何も答えられずにいると、ため息をつき、いつかと同じように言う。 「鳥居の先には行くな」 昔は聞けなかった問いが、つるりと口から出た。 「なんで」 じいちゃんは少し黙った。 「あのお山には、俺達の理解を超えた、おそろしいものがいるからだ」 「……熊とか?」 「熊はおらん」 「じゃあなに」 「知らん。昔からそう決まっとる。とにかく、あまり近付くな」 熊じゃないなら、何なんだよ。 おそろしいもの。ふと、ナツの姿が浮かんだ。 少し黄ばんだ白い面。 片頬に描かれた藍色の朝顔。 いつ、どこから現れるのか分からない。 風邪も引かない。 水に濡れる時と、濡れない時がある。 姿だって出会った頃から全く変わらないくせに、俺の望み次第ではそれすら変えられると言っていた。 明らかに、人間ではない。 そこまで考えたところで、毎年のように聞いてきた声が頭の奥から聞こえてきた。 『また来る?』 少し無防備な、ナツの声。 ……おそろしいもの。 あれが? そんなわけねえだろ。 『おい、動くなよ』 『拭き方下手くそか』 『あ? わざわざ拭いてやってんだろ』 『もっと優しくやれよ』 『注文多いな、お前』 自分の服が濡れることも気にせず、ずぶ濡れの俺に文句を言いながら拭いていたあいつが? ない。 それは、ない。 あいつはただの意地っ張りで、偉そうで、分からず屋で、口が悪くて。 それでも優しい、ちびっこだ。 「……分かった」 嘘だ。何も分かっていない。 じいちゃんも、多分それを分かっていた。渋い顔をしている。でも、もう構っていられなかった。 そうだ。あの分からず屋。馬鹿、アホ、間抜け。 人の話も聞かず、一方的に来るなだの何だの言いやがって。 誰がお前の言うことなんか聞くか。 誰が、お前を呼ぶのをやめてやるもんか。 後期の授業が始まる前日まで山へ入り、ナツを呼び続けた。 じいちゃんはその日以降、もう何も言わなかった。 翌年の夏も、ナツはいなかった。 毎日呼んだのに、あの、子供にしては少し低い、でも大人になりきれていないナツの声が聞こえない。 苛立ちは、少しずつ焦りへ変わっていった。 高校を卒業した直後だったから出てこなかっただけかもしれない。 一年空けば、ナツも意地を張ることに飽きる。 前の年は、そう思ってほとんど怒りと意地で山を歩いていた。 でも、今年もいない。 どこにもいない。 大学の授業がまた始まる。 明日にはもう東京へ帰らなければいけないのに、ナツを一度も見付けられていない。 「ナツ!」 山の奥へ向かって叫ぶ。 木々の葉が重なり、風の通らない空気が胸へ貼りついた。 汗がこめかみから顎へ落ちる。 呼吸をするたび、草と土の青臭い匂いが肺へ入った。 息苦しい。 「……ッいるんだろ!」 声が掠れる。 「どうせ見てんだろ……っ!」 返事はない。 「お前、……ッお前、ふざけんなよ!」 木々の向こうでは、蝉だけが鳴き続けていた。 「俺のこと、」 言いかけて、口を閉じた。 唇が震える。 聞けなかった。 その先を言えば、本当に答えが返ってくる気がして怖かった。 ナツ。なあ、ナツ。 俺のこと、嫌になったの。 俺のこと、嫌いになったの。 もう会いたくないの。 どうして、俺のこと嫌いになったの。 何が悪かったの。 お前のこと、からかいすぎた? 背が伸びたって言われて、調子に乗ったから? お土産の数が足りなかった?お前を楽しませてやれなかった? いつも自分勝手にお前に会いに行ってたから? 自分ばかり楽しんで、目の前のナツに夢中になって、お前以外何も見えなくなって。 それでお前のことをちゃんと思い遣ってやれなかったから? 俺が悪かったなら、直すから。教えてくれよ。何が駄目だったの。 どうして、……どうして俺のこといらなくなったの。 どれも聞けない。 「……ッ」 視界がぼやける。 溢れそうになる涙を、ぐっと目元に力を入れてこらえた。 『遅えよ』 会う度に、いつも文句を言われた。 不機嫌そうなのに、どこか嬉しそうに響いたナツの声。 全部覚えているのに、ナツはいない。 次の年は、祭りの日にも山へ行った。 誰かが笑い、子供が走り、遠くで花火の準備を知らせる音がする。 いつかの夏と同じように、綿あめを一つと、ヨーヨーを買った。 二人で並んだ石畳へ座る。苔も、木の根も、あの時の場所も残っているのに、その光景を見ているのはあの日と違って俺一人だけだった。 ――ドンッ、ドドンッ 花火が上がる。 赤い光が木々の隙間へ滲み、少し遅れて届いた音が腹の奥を震わせた。 隣を見ても、誰もいない。 「今年は割るなよ」 何となく手持ち無沙汰で、ヨーヨーを跳ねさせながら言ってみる。 途切れない蝉の声の間を縫うように、花火の音が聞こえる。 すぐに手を止めた。 「……お前、下手くそなんだからさ」 青い光が石畳を照らす。 あの夜は、白い面にも同じ色が映っていた。 今は何もない。 石だけが青くなり、すぐに暗くなる。 綿あめを一口食べる。 甘い。口の中ですぐに消えた。 『すげえ甘い』 ナツの声がした気がして、息が詰まる。 「ナツ」 どん、と低くて重い花火の音が返ってくる。 「……ナツ」 もう一度呼ぶ。 声が小さくなる。 「ナツ」 声が震えを帯びる。 隣は空いている。 村の方では誰かが笑っていた。 音だけが大きい。 光だけが遠い。 見せたい相手だけがいない。 膝の上で、綿あめの袋が小さく鳴った。俯く。 泣くつもりなんてなかった。 何度も呼べば出てくると思っていた。 去年も、今年も、どこかで俺を見ていると思っていた。 俺が諦めるか、試しているだけだと思っていた。 「……ふざけんなよ」 声が潰れた。 「何でいねえんだよ」 視界が滲んで、手の甲で目元を擦る。 止まらない。 「ナツ」 名前を呼ぶたび、喉の奥が痛くなる。 「……ナツ」 息がうまく吸えない。膝へ額を押しつける。 声を出さないよう歯を食いしばっても、肩は勝手に震えた。 「出てこいよ」 隣からは、何も聞こえない。 「出てきてよ。……なあ、ナツ。頼むから」 言ってしまった。 意地も何も、もう残っていなかった。 「会いたい」 その瞬間、冷たい風が頬を撫でた。 木々の葉も、綿あめの袋も動いていない。 「……」 冷えた空気が、何度か頬をなぞるように触れる。 『……早いなぁ』 今まで聞いたことのなかった、ナツの優しい声。 頬へ触れた、冷たい指先。 同じ。同じだ。 そんな筈ないのに、あの時の指の温度を思い出した。 何もかもが、ナツとの思い出に結びつく。 「……ナツ」 苦しい。 ぽた、と石畳へ雫が落ちた。 最初にナツと花火を見た年、この石畳は水風船の青い水で濡れていた。 今日は俺の涙か。 だせえ。格好悪い。 「どこにいんだよ」 風は、もう吹かなかった。 その年は秋も、冬も、春も、時間を見つけてはじいちゃんの家へ行った。 秋は枯葉を踏む音がうるさくて、歩く度に自分の居場所を山中へ知らせているようだった。 木々の隙間は広くなり、隠れる場所なんてないのに、ナツだけが見つからない。 「ナツ」 呼び声は、裸になった枝の向こうへ消えていった。 冬は息が凍りつくように白くなった。 川辺の石には薄い霜が降り、真っ白な雪には俺の足跡だけが残った。 「……ナツ」 冷えた空気へ、自分の声だけがよく響く。 春は、生き物のざわめきが近くに感じられた。見たかったたぬきも何匹か見つけた。 それなのに、本当に会いたい相手には会えない。 「なつ」 何を見ても、ナツを思い出した。 思い出すたび、山へ行った。 呼んだ。 返事はなかった。 泣くことも減った。 代わりに、腹が立つようになった。 勝手に来るなと言ったこと。 理由を説明しなかったこと。 俺の話を聞かなかったこと。 何度通っても姿を見せないこと。 もしかしたら、あれはナツなりの優しさだったのかもしれない。 あいつなりに考えて、俺を人間の時間へ返そうとしたのかもしれない。 大学へ入り、年を重ねるうちに、そのくらいは考えられるようになった。 でも、だから何だよ。 俺のためなら、何をしてもいいのか。 俺の意思を聞かず、勝手に決めて、勝手にいなくなって、それを優しさで済ませるのか。 ただの子供の頃の夏の思い出? 少し不思議なお面の少年と過ごした、懐かしい夏の日々? それを記憶の隅に追いやって、大人になった俺は人間社会に無事に馴染んで幸せに暮らしました。 めでたしめでたし。 はあ? 「ふざけんなよ」 声が、知らないうちに低くこもる。 「何度も、俺は来るって言ったよな。聞いたよな!?」 川の水だけが流れていた。 時々、妙に冷たい風が頬を撫でる。 その度にナツの冷たい指を思い出して、苦しくて、つらくて、臓物が煮える。 来年には働く。 今までみたいに、休みのたび山へ来ることはできなくなるかもしれない。 そう考えた時、怒りの中へ恐怖が混じった。 ナツの声を忘れるかもしれない。 笑う時の肩の揺れ方を忘れるかもしれない。 白い面に描かれた朝顔の位置も、細い指の冷たさも、少しずつ曖昧になるかもしれない。 あんなに一緒にいたのに。 思い出だけになって、その思い出までいつか薄くなる。 「……嫌だ」 川辺で呟く。 その声は、流れの音へ沈んだ。 「絶対に、嫌だ」 握った指先が震えた。 もう一度だけ。 最後に一度だけ、確かめる。 初めて会った日と同じ、でもナツの居ない川を見る。 苔のついた飛び石。 流れの速い場所。 向こう岸へ続く岩。 『俺を、ナツを諦めるのはお前』 頭の中でナツの声が聞こえる。 いいよ、わかったよ。今度こそ、お前の言葉を受け入れてやる。 最後に、お前が本当に俺を見捨てられるのか試す。 それで駄目なら、諦めてやる。 胸の奥で、何年も溜まった怒りが、静かに形を持った。

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