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02-18.ざまあみろ
初めて会った日のことは、今でも鮮明に覚えている。
川へ落ちそうになった俺を、白い面をつけた子供が助けた。
あの頃は、助けられたことよりも、山の中で見知らぬ子供に触れられた不気味さの方が勝っていたし、素直に礼を言う気にもなれなかった。
後になって、ナツは何でもないことのように言った。
『姿を見せないと触れられねえから、仕方なかった』
それから、少し呆れたように続けた。
『お前が川に落ちそうになるような間抜けじゃなかったら、こんな面倒なことにならなかったのに』
『面倒ってなんだよ』
『お前のこと』
『はあ!?』
その時は随分な言い草だと思って腹が立ったけど、今になってみればあれは全部本当だったのかもしれない。
あの日、ナツが俺へ触れなければ、俺はナツの姿を見なかった。
姿を見なければ、毎年会いに来ることもなかった。
名前を呼ぶことも、土産を持っていくことも、同じ川辺へ並んで座ることもなかった。
ナツの言う通りだった。
あの日の俺が川へ落ちかけなければ、こんな面倒なことにはならなかった。
俺だってお前みたいな面倒なちびっこに、こんな面倒な気持ちを抱くこともなかった。
お前を探し続けて、自分で自分が制御出来なくなることもなかった。
けど、もう遅い。
もう始まったことだ。あの日の川で、もう俺とお前は出会った。それをなかったことになんか出来るもんか。
戻れない。戻れるはずがない。
お前を知らない頃の俺に、戻りたいとも思わない。
何年も会って、何年も呼んで、何年もナツの姿を探した。
今さら。今更だよ、ナツ。あまり俺を舐めてんじゃねえぞ。
あいつはいない。
ずっといない。
多分、もう俺に会うつもりがない。
いい。もう、それならそれでいい。
もう分かった。お前は本気で『もう来るな』と言った。わかったよ、ナツ。理解した。
ちゃんと全部分かった。
いいよ。お前がそうしたいなら、そうすりゃいい。
最後まで姿を見せず、俺が諦めるまで隠れていればいい。
触れず、答えず、子供の頃の記憶へ押し込めるつもりなら、最後まで貫けばいい。
貫けるものなら、貫いてみろよ。
出来るもんならやってみろ。
これは賭けだ。
じいちゃんの家を出た時から、空気は重かった。
雨は降っていないのに、地面には前日の湿気が残っている。草の葉は濡れ、道の端へ溜まった水が白い空を映していた。
風はほとんどない。
木々の葉から上がる青い匂いと、湿った土の匂いが混ざり、息を吸うたび体の奥まで入り込んでくる。
鳥居の下をくぐる頃には、首筋へ汗が流れていた。
「ナツ」
返事はない。
もう慣れた。それどころか、ちょっと笑える。
面白いからじゃない。腹が立ちすぎて、一周回って笑えてくる。
ああ。ふざけんなよ、マジで。
石段を上り、穴の開いた大木を通り過ぎる。
苔のついた石灯籠も、赤い実の低木も、何度もナツを探した場所も、そのまま残っている。
「今日で最後にする」
誰もいない山へ話しかける。
「これで出てこなかったら、もう来ねえよ」
言葉にすると、心臓が強く痛んだ。
まるで無遠慮に直接わし掴まれて、ぎゅっと潰されたみたいに。
本当に来なくなるつもりなのかと、自分の声に問い返されている気がした。
答えは出さなかった。出せるはずがない。
今はただ、ナツへ届けばいい。
「おい、聞こえてんだろ。耳ねえのかよ」
葉の擦れる音がした。
振り向く。
誰もいない。
時折頬を掠める、冷たい風も吹かなかった。
「今まで何回も呼んだよな。お前ほんとに何回呼ばせんの。寂しがりの呼ばれたがり、構ってちゃんかよ。ぶってんじゃねえぞ、可愛くねえんだよ」
悪態ばかりが、湿った山の中へ落ちていく。
「春も来た。秋も来た。冬も来た。お前がいるって言ったから、全部来たよ。知ってんだろ」
山は静かだった。
遠くで蝉が鳴き、足元では小さな虫が草の間を跳ねる。
「それでも出てこなかったよな」
声が低くなる。
「だから今日で、もう全部最後にする」
奥の川が見えた。
木々の間から落ちた光が、水面へ細かく散っている。流れはいつもより少し強く、石へ当たった水が白く泡立っていた。
昔と同じ場所。最初の夏、足を滑らせた飛び石。
ナツが姿を見せ、俺の腕を掴んだ場所。
岸辺には、あの時と同じ大きく平たい岩がある。その先へ、苔のついた飛び石が川の中を点々と続いていた。
中央には人が何人か乗れそうな大岩がある。水面から突き出た岩は日に焼けて白く、周囲だけ流れが速い。
靴と靴下を脱ぎ、岸辺の平たい岩の上へ置いた。ズボンの裾を膝まで上げ、足を水へ入れる。
冷たさが皮膚へ食い込んだ。
思わず息を詰める。
「っ、見てんだろッ!」
逃げ場を塞ぐように、山へ声を叩きつける。
何も止めに来ない。
一つ目の石へ足を乗せる。
表面は滑らかで、薄い苔が足裏へまとわりついた。
重心を移すと、石の横を流れる水が脛へ当たる。
二つ目の石へ足を掛ける。
最初の夏、ここで足を滑らせ、ナツに腕を掴まれた。
ここから先は急に水の色が濃くなってる。
昔落ちかけたから、足を取られれば簡単には立ち上がれないことも知っている。
知っていて、先に進む。
岩の間を抜ける水が脛へぶつかり、跳ねた飛沫が膝まで濡らした。身体の熱を一気に奪われていく。
「ナツ」
白い面は、どこにも現れない。
「お前、本当に出てこねえんだな」
三つ目の石へ足を伸ばす。足先が少し滑った。
反射的に腕を広げ、身体を支える。視界に入った川の底が、思っていたよりも深い。心臓が大きく鳴った。
昔、山の中を散策している最中、ナツが言っていた。
あそこは二度と行くな。
間抜けは流される。
今なら、あの言葉の意味が分かる。
「いいのかよ! まだ間に合うぞッ!」
水音が近い。自分でも、何が間に合うのか分からなかった。
俺を止めることか。
姿を見せることか。
何年も前の言葉を撤回することか。
ナツが返事をすれば、それでよかった。
怒鳴ってもいい。
馬鹿だと言ってもいい。
帰れと、もう一度突き放してもいい。
声さえ聞ければよかった。
「ッナツ!」
山へ向かって呼んでも、相変わらず蝉の声しか聞こえない。
川の真ん中にある大岩は、すぐ近くにある。その手前には、水をかぶった低い石が一つだけ残っていた。
黒い苔が表面を覆い、流れの中でぬるりと光っている。
「いないなら、それでいい」
声に出す。
喉が乾いていた。
「会わないつもりなら、そうすりゃいい」
最後の石へ足を乗せた。川の底が見えない。
水が足の甲を越え、強い流れが脛へぶつかった。
身体が揺れる。
それでも足を引かなかった。
「貫けるものなら、貫いてみろ」
誰もいない川辺へ笑った。
上手く笑えているか分からない。
頬が引きつり、喉の奥だけが熱かった。
「何があっても会わねえつもりなら、そうしてみろよ」
足へ力を入れる。石の上の苔が、ゆっくり潰れた。
姿を見せないと、触れられない。
触れられないなら、助けられない。
お前が俺を見捨てられるなら、俺は今度こそ諦める。
「……ッ」
大岩へ踏み出そうとした時、石の表面から足が外れた。
身体が傾く。
一瞬、時間が止まったように感じた。
「っは、……ッ」
次の瞬間には、冷たい水が腰へぶつかっていた。
足が川底へ届かない。流れが思っていたより強い。
身体が横へ倒れ、肩まで水へ沈んだ。
口の中へ水が入り、反射的に息を吸おうとして咳き込む。
目の前の岩へ手を伸ばす。指が滑って掴めない。
流れに押され、身体が下流へずれた。
「……っ」
まずい。
賭けだった。危ないと分かっていた。
ナツが助けると信じていた。
でも、本当にいなかったら。
何年も前に、もう山から消えていたら。
見ていても、俺を助けないと決めていたら。
冷たい水が顔へかかる。
視界が白く弾ける。
怖い。
身体が勝手にもがいた。
足が石へ当たり、脛に鈍い痛みが走る。
息ができない。
「ナ、」
名前を呼ぼうとして、水を飲んだ。
その瞬間、腕を掴まれた。
小さな手だった。
骨が軋むほど強く、手首を握られる。
身体が流れに逆らって引かれた。
肩がちぎれそうな痛みが走り、次の瞬間には大岩の上へ半ば投げ出されていた。
「ッかひゅっ、……っは、げほっ、…ッ、ひ、…っ」
肺の中の水を吐き出すように咳き込む。
喉が痛くて、声が引き攣れる。腕も足も震えている。
濡れた服が身体へ貼りつき、冷えた皮膚から熱が奪われていく。
「何をしているッ!!」
怒鳴り声が落ちてきた。
聞き覚えのある声だった。
何年も聞きたかった声だった。
息を整えることも忘れ、顔を上げる。
白い面があった。
黄ばんだ骨みたいな白。
片頬に描かれた藍色の朝顔。
最初の夏から何一つ変わらない、細い身体。
黒い髪が濡れ、額や頬へ張りついていた。大岩の上で俺の傍へ膝をつき、肩を大きく上下させている。
白い指がまだ俺の腕を掴んでいた。
小さな手なのに、痛いほど強い。
震えていた。
俺を掴んでいる指が、細かく震えている。
「っは、……ッ、……っ、んだよ。……ッい、るじゃねえか」
声が掠れた。
寒さのせいか、咳のせいか、自分でも分からない。
ナツは息を呑んだようだった。
面の奥は見えない。
それでも、怒っているのが分かった。
「馬鹿か? 何してんだ、お前」
「やっぱ、……っ、ケホッ、…ッ嘘ばっか、……つきやがる」
「聞け」
「……ッ触、れた」
ナツの声が止まった。
俺の腕を掴む指へ、さらに力が入る。
痛い。
でも離してほしくなかった。
何年も探した手だった。泣いた時、風のように頬へ触れたものではない。
今ここにある、骨も、熱も、力もある手だった。
「……何を」
「ああ、……っやっとだ。やっと触れた」
笑った。
自分でも、どうして笑っているのか分からなかった。
寒くて唇が震えている。
肺は痛く、喉にはまだ水の味が残っている。
本当は怖かった。
足が滑った瞬間、流れへ身体を持っていかれた瞬間、ナツが本当に出てこなかったらどうしようかと思った。
それでも、目の前にいる。
会わないつもりだったくせに。
もう来るなと言ったくせに。
何年も姿を隠していたくせに。
俺が危なくなれば、結局こうして触れる。
何年分もの不安が、頭の中に雪崩込んで、そして一気に崩れた。
ナツは、俺を見捨てられなかった。
その事実だけで、息が詰まりそうになるほど嬉しかった。
視界が滲む。
川の水が目に入っただけだと思った。
思おうとした。
「ナツ」
名前を呼ぶ。
勝手につけた名前だった。
何度呼んでも返事のなかった名前だった。
目の前の白い面が、僅かにこちらへ傾く。
「……なに」
聞きたかった。
ずっと、この声が聞きたかった。
胸がぐちゃぐちゃに潰れそうになる。
笑おうとした。
頬が引きつり、目元から水が落ちた。
泣いているみたいで格好悪い。
それでも、今さら隠す気にはなれなかった。
ああ、ナツだ。
ナツがいる。
俺の目の前に、ナツがいる。
ずっと、ずっと会いたかった。
お前ともう一度会えるなら、それでもう良かった。
他には何もいらなかった。
「ざまあみろ」
声がかすれる。掠れて、弾む。
嬉しい。ナツ。会いたかった。ナツ。ナツ。
俺の、特別な、夏のともだち。
ナツは何も言わなかった。
俺の腕を掴んだまま、じっとこちらを見ている。白い面の奥がどうなっているのかは分からない。
怒っているのか、呆れているのか、それとも俺と同じように泣きそうなのかも分からなかった。
ただ、掴んだ指だけは離れなかった。
賭けは俺の勝ちだ。
ナツは姿を見せた。触れないつもりを貫けず、俺を助けた。
勝ったはずなのに、ずっと息が苦しい。
心臓が別の生き物みたいに動いてる。
肌が歓喜に粟立って、得体のしれない感情がぐるぐると腹の底で疼いている。
嬉しくて、腹が立って、安心して、泣きたくなる。
何年も待った。
何年も呼んだ。
ようやく会えた。
「……遅えよ」
声を絞り出す。
ナツの肩が、ほんの少しだけ揺れた。
「……お前が早すぎるんだよ」
昔と同じ、ぶっきらぼうな声だった。
ぶっきらぼうで、優しい。それなのにどこか熱もある。苛立ちと、……他はよくわからない。
ただ、その声を聞いた瞬間、堪えていたものが全部ほどけた。
俺は笑った。
泣いているのを誤魔化すように、もう一度笑った。
ナツはまだ、俺の腕を掴んでいた。
まるで縋るように、逃さないとでもいいたげに、強く、つよく。
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