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02-19.理は成った
しばらくして、ナツの手がようやく腕から離れた。
掴まれていた場所には、白い指の形が赤く残っている。
痛いほど強く握っていたくせに、ナツはそれを気にする様子もなく立ち上がった。
俺の濡れた衣服から水が滴り、大岩の上へ黒い染みを作っている。
肌へ張りついたシャツは重く、風が触れるたび冷たさが身体の奥まで入り込んだ。
白い面は何も変わらない。
それなのに、さっきからずっとこちらを向いたままだった。
「………」
ナツは何も言わず大岩を下り、すぐ下の飛び石へ移った。
そこで振り返り、こちらへ手を伸ばしてくる。
「……」
何となく、俺も口をつぐむ。差し出された手を掴み、引かれるまま飛び石を渡って岸へ戻った。
靴と靴下を置いた平たい岩の傍で、ナツがようやく足を止める。
「脱げ。身体を拭け」
かと思えば、開口一番これだ。
「母ちゃんかよ」
「いいから先に脱げ。馬鹿は風邪を引く」
「はあ? 馬鹿じゃねえわ」
「馬鹿以外の何だってんだよ。川に飛び込みやがって、馬鹿が」
「飛び込んでません~。足が滑っただけです~」
「クソガキ」
「うるせえ、ちび」
言い返すと、ナツの肩がわずかに揺れた。
笑ったのかと思ったけど、すぐに白い面が動かなくなる。
以前ならここで足を蹴るなり、もっと口汚く言い返すなりしたはずなのに、今日は妙に静かだった。
……馬鹿は風邪を引く。
『風邪?』
『知らねえの? 身体冷やしたら熱出たり咳出たりすんの』
風邪。俺が昔、ナツへ教えた言葉だった。
やっぱり覚えている。
いなかった間も、俺と交わした言葉は消えていなかった。
その事実へ安堵した自分が少し恥ずかしくて、濡れたシャツの裾を乱暴に掴んだ。
頭から引き抜くと、冷えた布が頬へ触れる。
ナツの面は、まだこちらを向いている。
「……なあ」
「なに」
「あんま見られると脱ぎにくい」
「見てねえ」
「いや、見てんだろうがよ。面向いてんだよ、こっちに。誤魔化し方下手くそかよ」
「…………」
白い面が、ふいと横を向いた。
素直に逸らすなら、最初から見るなよ。
久しぶりに会ったと思ったら、やっぱりこいつは何を考えているのか分からない。
シャツを絞ると、布の間から水が流れ落ちた。
ズボンも水を吸って気持ちが悪い。少し迷ってから脱ぎ、傍の岩の上へ置いた。
下着まで濡れている。
横を向いたままのナツをちらりと見て、結局それも脱いだ。
手拭いでもあれば腰へ巻けるのに、今は濡れた服しかない。
「ナツ」
「なに」
声が返ってくる。
それだけなのに、一瞬言葉を失う。
何度呼んでも返事のなかった時間が長すぎて、当たり前のやり取りに身体が追いつかない。
「……脱いだけど、着替え持ってきてねえ」
「…………」
ナツは何も言わず、片手を脇へ伸ばした。
何かを取るような仕草だったけど、そこには木の幹と湿った空気しかない。
次の瞬間、その手には畳まれた着替え一式と手拭いが乗っていた。
俺へ向かって投げてくる。
慌てて受け取ると、乾いた布の匂いがした。
「いや、どっから出した?」
「拭け。着ろ」
「質問に答えろよ。お前、四次元ポケットでも持ってんの?」
「何だそれ」
「知らねえならいい」
広げてみる。
ナツが着ているものとよく似た形の上衣と、ゆったりした半端丈のズボンだった。
生成りと薄藍の配色は逆になっているけど、並べれば色違いだとすぐ分かる。
どう見ても俺の身体に合う大きさだった。
「何で俺のサイズ分かんの」
「見れば分かるだろ」
「いつサイズ分かるくらい見たんだよ」
「……見てねえ」
「さっきも同じこと言ってたよな?」
ナツは答えなかった。
手拭いで軽く身体の水分を吸った後、渡された着替えを身につける。
肩も腕も、気味が悪いくらいぴったり合った。下着まで、最初から俺のために用意されたみたいに収まっている。
裾は膝の少し下まであり、濡れた肌へ触れても冷たくない。
柔らかい布からは、山の木々に似た青い匂いがわずかにした。
「……まあ、ナツだしな。いいかもう」
「何が」
「何でもねえよ」
詳しく聞いたところで、まともな答えが返ってくるとは思えない。
ナツは俺の濡れた服を拾い、岸辺の平たい岩へ広げた。
皺を伸ばす手つきだけは妙に丁寧で、一枚ずつ風が通るよう石の上へ置いていく。
風なんてほとんど吹いていないのに、布からは少しずつ水気が消えていった。
俺は手拭いを首にかけて岩の端へ腰を下ろした。
ナツも座る。
「………」
近い。
肩が触れるか触れないかくらいの距離だった。
少し横へずれると、ナツも同じだけ詰めてくる。
偶然かと思ってもう一度ずれたけど、やっぱり間がすぐに埋まった。
「……お前さ」
「なに」
「近くねえ?」
「自意識過剰じゃねえの」
「過剰じゃねえよ。ちっけえんだよ、距離が!」
「傍にいたいって顔してるから、近付いてやった」
「は、はあ!?」
「ありがたく思えよ」
「はあ~~~~!?」
思わず声が裏返った。
ナツの肩が揺れる。今度こそ、笑っている。
口元なんて見えないのに、吐息が面の奥で小さく跳ねるのが聞こえた。
以前と同じ笑い方のはずだった。
それなのに、妙に優しく聞こえる。
「お前が近付きたいんだろうが」
「お前だろ、俺じゃねえ」
「だったら離れろよ」
「別にいいだろ、減るもんでもねえし」
言いながら、ナツはさらに少しだけ身体を寄せた。
ナツの肩が、俺の腕へ押しつけられる。
冷たいと思っていたのに、服越しに伝わる温度は俺とあまり変わらなかった。
久しぶりだから、こいつも少しおかしくなっているのかもしれない。
俺だって、さっきから胸の中が落ち着かない。
会えたことがまだ信じられない。
少し目を離した隙に、また消えてしまう気がする。
そのせいで、距離が近いことへ文句を言いながらも、本気で離れろとは思えなかった。
しばらく、二人とも何も言わなかった。
川の流れる音が続いている。
濡れた石は日の光を鈍く返し、木々の間では蝉が途切れず鳴いていた。
片膝を立て、その上へ肘を乗せる。
手首のあたりへ顎の端を預け、すぐ傍の白い面を眺めた。
いる。
隣にナツがいる。
ただそれだけのことが、何年も手に入らなかった。
「……結局出てくるなら、最初っからいなくなるんじゃねえよ」
悪態を吐く。
いつものように「うるせえ」と返ってくると思った。
それなのにナツは何も言わず、じっとこちらを見る。
白い面が正面から俺へ向けられる。
見られているだけなのに、妙に居心地が悪くなった。
手首から顎を上げ、立てていた膝を下ろす。
「んだよ」
「そうだな」
「……は?」
否定も、言い訳もなかった。
ただ静かに肯定されて、逆に何を言えばいいのか分からなくなる。
ナツの面が少し傾く。吐息が、もう一度小さく跳ねた。
笑っている。
優しい笑い方だった。優しいけど、でもまた俺の知らないナツだ。
何年も姿を見せなかった相手へ向けるには、あまりにも穏やかで、楽しそうで、腹が立つほど満足そうで、でもどこか苛立っていた。
まるで、ナツに会えなかった間の俺のように、内側にぐつぐつと煮えるような怒りを感じる。
それなのにナツの声は笑っていた。優しく、甘く。
「……何笑ってんだよ」
面だけが、薄暗い川辺で妙に明るく浮いて見える。
「もはや、何を口にしたところで全て遅い」
まだ耳に煩く鳴いていた蝉の声が、ぴたりと止む。
それまで周りにあった生き物の気配が急に引いたように感じた。
ナツと二人、世界に閉じ込められるような、不可思議な感覚。
いつものぶっきらぼうな調子ではない。遠くて深くて、轟くような声だった。
十三歳ほどの身体には似合わない。
ずっと昔から山の中へ沈んでいたものが、白い面の奥から言葉を落としているような。
……いや、そんな訳ない。だってこいつはナツだ。ただの、ナツ。
「お前が喚んだ。私が応えた」
「……何の話だよ」
ナツは答えなかった。
風がないのに、川面へ細い波紋が広がった。
周囲の木々が一度だけざわめく。
白い面に描かれた朝顔が、濡れたように濃く見えた。
「理は成った」
声は静かだった。
宣言にも、確認にも聞こえた。
何かが決まったことだけは分かるのに、それが何なのかは全く分からない。
「……ばかなこだ」
白い指が伸びる。
頬へ触れるかと思ったけど、その手は途中で向きを変え、まだ湿っている俺の髪を軽く払った。
指先が耳へ触れ、首筋を掠める。ひやりとした感触に思わず肩が跳ねた。
近い。
白い面が、息の触れそうな距離にある。
「…………何言ってるか、ぜんっぜん分かんねえんだけど」
「わからない? ほんとうに?」
「……っ、……分からねえよ。とりあえず、お前は俺に謝れ」
「謝るわけねえだろ。お前が謝れ、俺に」
ナツの声が、いつもの調子へ戻った。
途端に蝉の音が一斉に戻る。煩いはずのそれに、少し呼吸がしやすくなる。
首筋の近くにあった手も、いつのまにか遠ざかっていた。
知らず息を詰めていたことに気付かれたくなくて、咄嗟にナツを睨みつける。
「……はあ?」
「あ?」
「何で俺が謝んだよ」
「川へ入った」
「足滑らせただけだって言ってんだろ!」
「わざと危ない場所へ行った」
「見てたんじゃねえかよ!」
言った瞬間、ナツが黙った。
俺も口を閉じる。
やっぱり見ていた。
俺が山へ来た時も、何度も名前を呼んだ時も、泣いた時も、ずっとどこかにいたのかもしれない。
安堵と怒りが同時に込み上げた。
「……お前、マジでふざけんなよ」
「何が」
「何がじゃねえ。後で全部聞くからな」
「何の話だ」
「逃げんなよ」
「ほんとに馬鹿か? もう逃げる逃げないの話じゃねえだろ」
「はあ?」
あまりにも簡単に、罵倒と共に意味のわからない言葉を返された。
思わずナツを見る。
白い面は、真っ直ぐ俺へ向いている。
どういうことだよ。
逃げる逃げないの話じゃねえって何。
つまり、もうお前は俺の前から姿を消さないのか。
言いかけて、やめた。
もういなくならないのか。
もう呼んだら答えるのか。
もう会えなくならないのか。
聞きたいことは山ほどあった。
でも返事を聞くのが少し怖い。
今はまだ、隣にいるという事実だけを信じていたかった。
ナツは何も聞き返さなかった。ただ、また少し近づいた。
「だから近えって」
「うるせえ」
ナツの肩が、俺の上腕へぶつかる。
俺は文句を言いながら、そのまま動かなかった。
岩へ広げていた服が乾く頃には、空が少し赤みを帯びていた。
ナツから借りた服は着たままにして、乾いた服を畳む。ナツは返せとも言わず、俺の姿を上から下まで眺めていた。
「何」
「似合わねえ」
「お前が寄越したんだろうが」
「俺の方が似合うな」
「はいはい。良かったな、ちびっこ」
「転ばすぞ」
「もう転んだ後です~」
「今度は助けねえ」
「嘘つけ」
言うと、白い面が少し傾く。
それから、面の奥で小さく笑った。
否定はしなかった。
靴を履いて、山を下りる。
並んで歩くと、やっぱり俺の方が歩幅は大きい。
以前の癖で少し先へ出て、立ち止まってナツを待つ。
ナツはゆっくり追いついた。
今度は俺のすぐ隣へ並び、色違いの袖が触れる距離を保ったまま歩き始める。
「お前、今日はずっと近えの?」
「嫌なら離れれば」
「離れたら詰めてくんだろ」
「自意識過剰」
「だから過剰じゃねえって」
言い合いながら、石段を下りる。
穴の開いた大木を通り、石灯籠を越える。
何年も一人で歩いた道を、今日はナツが隣で歩いている。
木々の隙間から差し込む光が、二人の服へ交互に落ちた。
生成りと薄藍の布が揺れ、濃い影の中で同じ色を繰り返す。
鳥居が見えた。
いつもなら、ナツはその手前で止まっていた。
俺だけが外へ出て、何度も振り返った。
白い面は山の側へ残り、次の夏までついてこなかった。
今日も止まると思った。
思ったのに、ナツは足を緩めなかった。
俺の隣に並んだまま、鳥居を抜ける。
「……来んの?」
「どこに」
「じいちゃんち」
「駄目なの」
「駄目とは言ってねえけど」
「じゃあ行く」
当然のようにナツは言う。
来るんだ。何だ、『じゃあ行く』って。あまりにも軽すぎるだろ。
今までの山籠りは何だったんだこいつ。
……まあいいか。ナツだし。
俺は少しだけ笑う。
「じいちゃん、びびるかもな」
「何で」
「お面つけたちびが急についてきたら、普通は驚くだろ」
「ちびじゃねえ。それにお前が説明すればいいだろ」
「何て説明すんだよ」
「ナツ」
「名前だけで済むかよ」
山を出ても、ナツは消えなかった。
隣を歩く足音がする。
色違いの袖が、時々俺の腕へ触れる。
夕方の道には、熱を含んだ風が流れていた。
草の匂いと湿った土の匂いが混ざり、遠くの家から夕飯を作る音が聞こえる。
何年も前と同じ道だった。
でも今度は、一人ではなかった。
ナツは少し近すぎる距離を保ったまま、俺と並んで歩いていた。
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