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■3章「欲張りさんとナツ」 03-01.新しい生活
三月も残り数日だというのに、家の中は外より冷えていた。
朝から開け放していた窓をいくつか閉めても、畳と柱へ染み込んだ冷気はなかなか抜けない。
長く人が住んでいなかったせいか、部屋の隅には乾いた埃の匂いが残っていて、押し入れを開けるたびに冷たい空気と古い木の匂いが流れ出した。
荷物を運び込んでくれた業者は、一時間ほど前に帰った。
じいちゃんも、昼飯を食べてから自分の家へ戻っている。泊まっていけと言われたけど断った。
じいちゃんちはここから歩いて十五分も掛からないから、何かあればすぐ行ける。そう言ったのに何だか少し心配そうだった。俺のことを、まだまだ子供だと思ってるのかもしれない。
もう今年から社会人だって言うのに。そんなに頼りなく見えるか、俺。
四月からは、じいちゃんの家がある村の役所へ出勤する。
何となく募集の出てた役場を受けて、そのままトントン拍子に就職が決まった。
母さんに「最初はあんなにおじいちゃんち嫌がってたのに、就職までそっちにするのね」と笑われたことを思い出す。子供は成長するもんなんだよ、ほっとけ。
たまたま、何となく、目についたから試験と面接を受けて、そのまま受かったからそこに決めただけ。
民間より楽そうだったし。別に他意はねえ。
「片付けるか……」
生活用品の買い足し、電気と水道の確認、提出書類の整理。役所まで実際に歩いて時間を測って、帰りにスーパーの場所なんかも確認しておきたい。
でも今日は、まず部屋の片付けだ。
やることはまだ多いが、今日中に寝る場所と台所だけ使えるようにすれば、とりあえず困らない。
実家から荷物を詰める時からちゃんと考えて、先に開ける段ボールへ油性ペンで印をつけておいた。
我ながら、ちゃんとしてる。
昔の俺なら、適当に全部開けて、途中で何がどこにあるか分からなくなっていたはずだ。
大学で一人暮らしも経験したし、引っ越しだって初めてではない。いつまでも中学生みたいなことをしているわけじゃない。
ただし、段ボールの底から出てきた鍋の蓋が見当たらない件についてだけは、梱包した数週間前の俺を殴りたい。
まじでどこ。
「どこ入れたんだよ」
台所にしゃがみ込み、開封済みの箱をもう一度探す。
食器。布巾。調味料。小さなフライパン。なぜか洗面所に置くつもりだった歯ブラシの予備もある。
鍋の本体だけは、奥の方に見付けた。蓋だけがない。
別の箱へ入れた可能性を考え、立ち上がろうとしたところで、縁側の方から小さく板が鳴った。
古い家だ。
風が吹けばどこかしら鳴る。さっきから庭の木も揺れているし、山の方から降りてくる風はまだ冬みたいに冷たい。
気にせず箱へ手を伸ばす。
また、みしりと鳴った。
今度は一度ではなかった。
人が歩くみたいに、縁側の端から端へ、ゆっくり床板が軋んでいく。
手を止めた。
玄関の鍵は閉めている。じいちゃんが戻ってきたなら、勝手に縁側から入ってくるような人ではない。それ以前に、庭へ回る足音がしなかった。
立ち上がって台所を出る。
リビングを抜けて廊下へ出ると、空き部屋の襖が開いていた。
昼を過ぎたばかりなのに、和室には薄い影が溜まっていた。
庭へ面した大きな窓は開けてある。曇った空から入る光の中で、縁側へ誰かが座っていた。
白い面が、こちらを向いている。
「…………」
面の片頬に描かれた藍色の蔓と花は、昔と何も変わらない。
黒い髪も、生成り色の上着も、薄い藍色の半端な丈のズボンも、川で再会した時とほとんど同じだった。
膝を立てて座り、庭でも眺めていたらしい。
驚いた。
驚いたけど、それをそのまま顔に出したりはしない。だってからかわれたら、ムカつくし。
「……何してんのお前」
結局、最初に出た言葉はそれだった。
ナツは少し首を傾ける。まじまじ見ていると、靴を履いたまま縁側へ上がっていることに気付いた。
この野郎。
「見れば分かるだろ。座ってんだよ」
「そういうことを聞いてんじゃねえよ。なんでいる。あと縁側では靴脱げ」
「お前さ、一々そんな細けえこと気にして疲れねえの?」
会って早々、腹の立つ言い方をする。
それも、出会った頃よりずっと流暢になっている。
言い返す間もなく勝手に話を進めるところまで、嫌になるほど俺に似ていた。
「人の家へ勝手に入ってきて、言うことがそれかよ」
「人の家?」
ナツが部屋の中を見回す。
閉じた段ボール。畳の上に立て掛けた折り畳み机。壁際へ寄せただけの布団。まだカーテンもついていない窓。
それから白い面を俺へ戻した。
「お前の家だろ」
「そうだけど」
「なら合ってんじゃねえか」
「何が」
「お前さ」
まるで会話になってない。自由か。
半眼になった俺に気付いているのかいないのか、ナツは小首を傾げる。
「分かってねえのかと思ってた」
「はあ?」
意味がわからねえ。何なんだこいつは。
呆れたような俺の声に、ナツはしばらく黙っていた。
面をつけているから表情なんて見えないのに、じっと観察されていることだけは分かる。
その視線が頭から足元まで一度降りて、また顔へ戻ってきた。
「分かってたのか、お前」
「だから何がだよ。さっきから勝手に納得すんな」
「もっと馬鹿かと思ってた」
「はあ!?」
思わず声が大きくなった。
庭の木から小さな鳥が一羽飛び立つ。羽音が生垣の向こうへ消えてから、冷たい風が縁側を抜けて畳の上へ入り込んだ。
ナツの肩は揺れていた。笑ってる。
「お前、久しぶりに人の前へ出てきて何なんだよ」
「久しぶりでもねえだろ。この前会った」
川で再会してから、俺たちはそのまま夏の残りを一緒に過ごした。丸一か月ほどだったと思う。
また消えやしないかと少し心配になって会いに来た冬休みが、確かナツに会った最後だった。
「ふた月も前がこの間になんのかよ。いつも気が付いたら消えやがって。どこほっつき歩いてんのかもわかんねえし」
「消えてねえよ。山にいた」
「俺から見えなきゃ一緒なんだよ」
言ってから、少しだけ口を閉じた。
そこまで責めるつもりではなかった。少なくとも、会ってすぐに言うことではない。
白い面が、ほんの少し傾く。
「ふうん」
ナツの語尾の音が楽しげに上がる。
「探した?」
「探してねえ」
「こっち着いてからずっと、じいさんの家から山の方ばっかり見てたくせに」
なんで知ってるんだよ。どこから見てやがった。
「……景色を見てただけ」
「山しかねえだろ」
「だから山を見てたんだよ」
「俺がいる山を?」
「うるせえな」
また肩が揺れた。ムカつく。
でも、目の前にいる。
何年もあれほど探しても会えなかったやつが、今は俺の借りた家の縁側へ勝手に座っている。
そう考えたら、今度は別の苛立ちが湧いてきた。
「そもそもお前、どうやってこの家のこと知ったんだよ」
「お前のせいで理が変わったからだろ」
「だから何だよ理って。誤魔化すな」
「誤魔化してねえよ。お前が勝手に分かってねえだけ」
「分かるように説明しろって言ってんだよ」
「……理解力がねえのか?」
「はあ!?」
本気で不思議そうに言われて更に気が立つ。
どうしてこれで分からないのか、とでも言いたげな口調だった。
分かるわけねえだろ、何の説明をしたつもりなんだよお前は。
名前をつけたから。あの日、川で呼んだから。
俺のしたことがナツへ何かを起こしたらしいことは分かる。でも何がどう変わり、どこまで影響しているのかは何一つ聞いていない。
昔は山から出られないと言っていたくせに、再会してからは何でもない顔で村へ下りてくる。訳が分からない。
その癖、聞いても「理が成った」としか言わない。
こいつの中では、途中の説明を全部飛ばしても話が通じているらしい。
昔からそうだった。あの頃は俺の知識が足りないのかと思った時もあったけど、今はこいつの説明が足りないことを正確に理解できる。
理解できるだけで、内容が分かるわけではないのが余計に腹立たしい。
「もういい。どうせ聞いても分かんねえし」
「もっと勉強しろよお前。大学とやらで賢くなったんじゃねえのか」
「……今のはお前の説明が下手だから分からねえって意味だよ」
「人のせいにすんな」
「お前が言うな!」
言い返しながら縁側へ近づく。
ナツは逃げなかった。昔と同じ姿のまま、近づいてくる俺を見上げている。
出会った頃より俺の背がずっと高くなったせいか、座っているナツは余計に小さく見える。
それでも弱々しくは見えなかった。
白い面の向こうに何がいるのか、俺は今も知らない。
面について聞いても相変わらず『見たら死ぬぞ』としか言わない。
「それで?」
「何が」
「いつまでいるつもりだよ」
「ここに?」
「他にどこがあんの」
ナツは少し考えるように、庭の方へ面を向けた。
隣家との境にある低い生垣は、まだ葉がまばらだった。土の間から細い草が出始めている。
遠くで畑を耕す機械の音がして、そのさらに向こうから、風に押された竹の葉が乾いた音を立てていた。
「別に、決めてねえけど」
「帰る場所あるんだろ。なら帰れよ」
「なんで?」
また不思議そうに聞かれて、少し黙った。
ナツは当然みたいに続ける。
「お前がここにいるなら、俺もここにいるだろ」
なんだそれ。……なんだそれ。
そのまま立ち上がったかと思えば、縁側から畳へ上がろうとした。
靴を履いたまま。
「おい、何度言わせんだよ。脱げ」
「何を」
「靴だよ! 土足で上がんなっ!」
「汚れてねえけど」
「そういう問題じゃねえ。家の中では靴を脱ぐんだよ」
「知ってる」
「じゃあ何で履いてんだ」
「脱ぐの面倒だった」
「人ん宅で最悪な横着の仕方すんなッ!」
しゃがみ込んだナツが、のろのろと靴を脱ぎ始める。
こいつが本当に山の怪異なのか、急に自信がなくなる。面倒だからで土足で上がるな。
理とやらより先に、生活習慣を覚えてほしい。
脱いだ靴は縁側の端へ揃えず置かれた。
「揃えろ」
「細けえな」
「俺の家なんだから俺に従え」
「俺も住むのに?」
「住むことになってねえよ」
「今決まった」
「決めてねえ」
「俺が決めた」
「出てけ」
ナツは何も言わずに俺の横を通り過ぎ、廊下に積まれた段ボールを一つずつ眺めていく。
白い面が箱へ近づき、油性ペンで書いた文字を読んでいるらしい。
『台所』
『風呂』
『仕事関係』
『あとで開ける』
最後の箱の前で止まった。
「これ何」
「書いてあるだろ。あとで開けるやつ」
「中身は」
「覚えてねえ」
「駄目じゃねえか。お前社会人とやらになるんじゃねえの。しっかりしろよ」
「うるせえ。大体はちゃんとしてんだよ。そこだけ失敗した」
「鍋の蓋もなくしてるし」
「見てたのかよ」
「さっきからずっといた」
「……声掛けろよ」
「いつ気付くかと思って」
「お前それ好きだな」
昔も同じことをされた。
呼ばれていることが分かってるくせに出てこないで、俺から隠れて何度名前を呼ぶか数えてやがった。
あの頃から何も変わっていない。
俺が大人になっても、就職しても、家を借りても。
ナツだけは、昔の続きを当然みたいに持ってくる。
「……暇なら手伝えよ」
口から出してから、少し迷った。
追い出すと言った直後に手伝わせるのは、我ながら筋が通っていない。
それなのにナツはそこに突っ込まなかった。余計いたたまれない。
「何すればいい」
「……その箱。俺の部屋に運んで。重いから底抜けないように持てよ」
「注文多いな」
「嫌ならいい。俺がやる」
「誰も嫌とは言ってねえだろ」
ナツは箱の両側へ手を掛けた。
見た目より軽々と持ち上げる。人間ではないのだから当たり前かもしれないが、細い腕で大きな箱を抱えて歩く姿は少し不自然だった。
「そっちじゃねえ。奥の部屋」
「最初に言えよ」
「見れば分かるだろ」
「分かんねえよ、やっぱお前の方だろ説明下手なの」
「は? お前だよ」
「人のせいにすんな」
「だからそれもお前だよ!」
廊下を抜けて奥の和室へ入っていく背中を見送る。
白い面も、生成り色の服も、荷物のない部屋の中ではひどく浮いていた。
なのに、さっきまで空っぽだった家が、急に空っぽではなくなったように見えた。
そのことが何となく気に食わなくて、俺は縁側に続く和室に戻る。
鍋の蓋は、結局『仕事関係』と書いた箱の中から出てきた。
何に使うつもりだったんだよ、何に。誰だ、そんなところに入れたやつ。
……俺だ。
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